大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、その死が印象的だった源頼朝と北条政子の娘・大姫。
史実では建久8年(1197年)7月14日が命日となります。
字面からして体格の良い女性をイメージするかもしれませんが、この「大姫」というのは「エライ人の長女」くらいの意味で、本名は不明です。
当時は「いいとこのお嬢様は本名を名乗らないもの」とされていたためで、例えば源氏物語にも「大君」という人がいたりします。
逆に、実名らしきものがわかっている女性は、元々の身分がさほど高いわけではなかったと言えますね。
いずれにせよ彼女は、ドラマだけでなく史実においても、決して幸せな一生ではなかったでしょう。
両親(主に源頼朝)によって、悲しいことばかり味わったからです。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
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父親同士の争いで婚約が破談し、殺される
頼朝の長女・大姫は5歳の頃に婚約が整いました。
実際に嫁ぐのは後年になるため、この段階で、結婚が決まること自体は別に悪い話でもありません。
問題は相手でした。
源義仲(木曽義仲)の息子・源義高(木曽義高・清水冠者)だったのです。

歌川芳虎が描いた木曽義高と大姫/wikipediaより引用
こちらもドラマで詳細が描かれたように、父親同士の仲がこじれ、婚約も破談。
義仲は、頼朝の弟たち(源範頼・源義経)に討たれ、義高もまた「後顧の憂いを絶つために」と、頼朝から命を狙われることになります。
これを侍女から知った大姫は、義高を女装させ、さらにひづめに綿を巻いて足音を立てないようにした馬に乗せて逃がしたのだとか。
そんな状態で走れるんですかね……実験するわけにもいきませんが。
いずれにせよ大姫本人、もしくは周りに頭の良い女性がいたのでしょう。
しかし、娘の必死の抵抗は天に通じず、あっという間に父親にバレ、追撃によって義高はあえなく討死してしまいます。
頼朝は、さすがに大姫へは知らせなかったものの、どこからか耳に入り、以降、大姫は寝込みがちになってしまいました。
政子「姫にヘンな物の怪がついた!」
ここで激怒したのがやっぱりというかなんというか、北条政子です。
「義高の首を取った奴がロクデナシだから、姫にヘンな物の怪がついたに決まっています! あの者を処分してください!!」
頼朝にクレームをつけると、実際、その武士は処刑されてしまいます。
忠実に命令に従った人があまりに可哀相過ぎますよね。そんなことしてたら家臣が疑心暗鬼になって、三代で滅んでしまったりして……。
なんとも不幸な目に遭ってしまった長女ですが、さすがに征夷大将軍の娘ですからそのまま独身で通すわけにも行きません。
そこで頼朝は、自分の甥っ子である一条高能(たかよし)という公家との縁談を勧めました。
しかし、父親にこんなことをされて、そうホイホイ新しい縁談にうなずけはしません。
大姫が「無理にというなら身投げします!!」とまで言って拒否したため、さすがの頼朝も引き下がらざるを得ませんでした。
なんというか、女性の扱いに関しては義経のほうが上手そう……。
しかしこのトーチャン、まだ懲りませんでした。
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