7月14日は『鬼滅の刃』の主人公・竈門炭治郎(かまどたんじろう)の誕生日です。
もちろん物語上の設定でして、生年は不明(参照→link)。
この炭治郎、これまでのジャンプ主人公としては、なかなか異例な特質を持っています。
例えば、主人公にも関わらず人気投票ではトップ3に入らず、【日の呼吸】の使い手ながら圧倒的に強いわけでもない。
天才美少年剣士では無一郎がいるし。
共感できる人気者ならば善逸がいるし。
作者・ワニ先生の読み切り作品から察するに「冨岡義勇タイプを主役にしたかったのではないか?」と思える要素も感じます。
では、炭治郎って一体何なの?
どんな立ち位置なの?
超人気作品の主人公だけに、至るところでキャラ解析されてるかと思ったら、何か言い切れるほど単純ではないせいか、そう多くもないという印象。
本稿では、難解な竈門炭治郎の考察に挑戦してみたいと思います。

『鬼滅の刃』23巻(→amazon)
【徳】の英雄~どこか頼りないけどいい人
『鬼滅の刃』は「既存作品の寄せ集めでしょ」としばしば指摘されます。
確かにそういう要素はあります。
古典的で、どこか既視感のある人物が揃っている。
しかし、著者の膨大なインプットがあるからこそ生まれる物語であり、パクリでも焼き直しでもなく、良い意味での「同工異曲」でしょう。
では、炭治郎はどうか?
ワタシなりの結論を一つ出すとこうです。
『三国志演義』における劉備であり、『水滸伝』の宋江であり、『西遊記』の三蔵法師である――。
「ドコが似てんだよ!」と突っ込まれそうですが、彼らと炭治郎には一言でバシッと言い切れる大きな特長があります。
【徳】です。
先に挙げた三名は、主人公の割にグイグイ押しては来ない。
どこか抜けていたり、詰めが甘かったり、脇役たちの協力無しではやっていけない。
「リーダー、もっとガツンとしていてくださいよ! なんでそんなに頼りないんですか!」
そんな風に叱られつつ『まぁ、ええヤツやからな』と内心では皆に慕われ、リーダーにされている。要は、周囲の有能な者たちにとって安心感があり、尽くしたくなるタイプなんですね。

もちろんフィクションでは脚色もあります。
史実では意外としっかり者だったとしても、いざ創作となると、そこには人々の願望が反映されるのでしょう。
穏やかで優しく、主人公なのに守られていて、まるでお姫様。そんなことを指摘されたりするほどで、例えば、中国フィクションにおける劉備は、双剣を装備しがちです。
二刀流というと、日本では宮本武蔵のイメージがあり、強くトリッキーな武器のように思えます。
けれども、中国文学のお約束で双剣は「女性の装備」なのです。つまり武器からして、劉備にはヒロイン属性なのがわかりますね。
劉備の言動は、後世議論の的となりました。
フィクションのみならず史実で最も論争となっているのは「後継者たる劉禅の資質が拙ければ諸葛亮が国を統治するように」と言い残したこと。
これは君臣の枠組みを無視するものであるとして、長いこと議論の対象とされてきました。
宋江は【及時雨(きゅうじう)】と呼ばれます。
欲しいときにふりそそぐ雨のように慈悲深いという意味。強者を率いるリーダーなのに、優しさが持ち味です。
あるいは『西遊記』の三蔵法師を女性が演じることも日本の作品ではお約束となっています。
救われる心清き人――これはもう女性だっていいじゃない。そういう発想なのでしょう。
かように中国文学の価値観では、ちょっと抜けていて優しい【徳】のあるリーダーの方が好まれました。
『鬼滅の刃』においては、個人戦闘能力が低くても、優しさでまとめあげる産屋敷家当主も同じタイプでしょう。
パワハラ政治の明代に望まれたリーダー像
『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』にブラッシュアップがかけられていった明代は、中国史でも屈指のビシバシ君主時代でした。
初代洪武帝・朱元璋以来、皇帝本人の資質のみならず、秘密警察組織である東廠(とうしょう)・西廠(せいしょう)、錦衣衛(きんいえい)が人々を監視し、締め付けていたのです。
明の政治体制はまさにパワハラ会議!
監視をして、家臣が何をしていたのかまで把握している。嘘をつこうにもつけない、あたかも『鬼滅の刃』における無惨と下弦の鬼のような体制ができあがっていたのでした。
むろん中国史の中でも時代差はあります。
恐怖政治という意味では、明代は最悪の部類。
そんな政治体制に疲れ果てた人々は、風通しのよい、寛大なリーダー像を求めるようになり、官僚での出世ルートを挫折した文人たちは、そんな理想をこめた英雄像をフィクションで世に送り出すようになったのです。
それが日本にも伝わり、大人気を博してゆきました。『三国志演義』は多くの藩で教科書としても採用されるほど。
こうして東アジアには【徳】のあるリーダーを好む風土ができあがっていきます。
劉備の義弟であり【徳】の化身とされる関羽。『三国志演義』での見せ場は【赤壁の戦い】において敗走してきた曹操を見逃すというものです。
最大のヒールである曹操を、恩義があるから見逃すとはどういうことだ! そう突っ込みたくもなりますが「それでこそ関羽だなぁ」と称賛されました。

こうした話を見ていて、何かを思い当たりませんか?
炭治郎へのこんなツッコミです。
炭治郎はおかしい!
鬼はあいつの家族の仇で敵だろう、ならばあんな同情せずにさっさと始末すればいい。
いちいち御涙頂戴だかなんだかしらんけど、理解を示す場面を入れるなんておかしい!
これ、『三国志演義』での関羽にもバッチリあてはまります。
いかがでしょう。
炭治郎の古典的な要素が見えてはきませんか。
【徳】の英雄が否定される時代へ
しかし、アヘン戦争が起きた19世紀以降になると、東アジアは西洋列強に飲み込まれ、思想まで変貌してゆきます。
中国の国民的作家である魯迅は、文学を通して祖国を分析し、絶望しました。
【徳】のある劉備、宋江、三蔵法師……どれもリーダーとして情けないじゃないか、お人好しすぎるじゃないか、こんな英雄を理想とするから負けてしまう!
そう嘆き、容赦ないダメ出しをしたのです。
日本でも、明治維新以来「脱亜入欧」を掲げました。文学作品でも西洋からのものが流れ込み、変貌してゆく。
そんな中、代表例として『三国志演義』に注目しましょう。
当時、劉備の扱いはどうなったか?
日本人の『三国志』観に多大な影響を与えた吉川英治版では、前半部の最も重要な人物を曹操、後半部は諸葛亮としています。
まぁ、劉備は人気といえばそうだけどさぁ。あんなええかっこしい、偽善者めいた像はどうなの? もっと面白くならない?
そういうツッコミは定期的に入りますし、劉備の女体化作品もでてきたりして、かつてのように全面肯定されるというわけでもなくなった。
要は、かつて描かれてきた像に納得できず、古典もブラッシュアップされ、新解釈されたのです。
そうした流れのある明治以降のフィクションと比較しますと、炭治郎はあまりに地味。
善逸や伊之助の方が問題行動的な要素では際立っておりますし、柱と比較するとより目立ちます。
かっこいい元忍者の宇随天元には、江戸時代以来の派手さがある。
叩き上げ江戸っ子、立身出世の権化・不死川実弥は、明治以降の近現代らしさが詰まっている。
熱血でともかくまっすぐ! そんな煉獄杏寿郎は、まさしく昭和のヒーローだ!
冨岡義勇は、21世紀型のスタンダードとなりえる【アブダクション】を使う接近戦型。ワニ先生が一番得意そうな枠ですね。
そして、日本人が好きなヒーロー要素てんこ盛りの時透無一郎は、どの時代でも大人気!

『鬼滅の刃』12巻(→amazon)
彼らと比較すると、炭治郎にはウケのよい主人公要素がない。市松模様の羽織で、炭焼き出身で、どこかズレていて、初期は一番無難な水の呼吸を使っていた。
改めて言います。
どうして炭治郎が主役なの?
ここでまたあの話に戻ります。
【徳】があるからではないか?
情けは人の為ならず――【徳】という生存戦略
炭治郎のセリフに、こんなものがあります。
「人のためにすることは 結局巡り巡って自分のためにもなっているものだし」
炭治郎につていは「いい子すぎる」という評価もありますが、彼は「自分の善意が返ってくる」という信念の持ち主だとわかります。
その性格は、後天性か、先天性か?
かつて人間の性格は、後天性の要素が強いと考えられておりました。
ただ、どうにもそれだけでない。空っぽの状態からソフトウェアをインストールするように教育することができるわけでもない。
先天性の部分はあるんだろう――という結論に落ち着きつつあります。
まぁ、両方ですね。
そこを踏まえて、炭治郎の性格、とんでもねぇところは【先天性】要素もあるとしましょう。
実際、劇中でも、それとわかる描写があります。
先祖の炭吉です。
彼は「日の呼吸」の使い手である継国縁壱に窮地を救われています。
炭吉はただの炭焼きのようで、実は際立った特徴があり「極端なお人好し」でした。
人助けをして、お礼はいらないと言い続ける。そんな彼に感激し、お礼をするために大工が集まり、家を建てていく。
妻のやすこと山で母子を救ったら、大名の妻と嫡男であった。
親切心が彼らの名声を高め、結果的に良い暮らしができるようになりました。
そしてついに継国縁壱と助けあい、友となったために「日の呼吸」と耳飾りを受け継ぐこととなったのです。

『鬼滅の刃』20巻(→amazon)
炭治郎も、近所の人々を助けていたことが語られます。
街で障子の張り替えを手伝っている。荷物を運ぶ人を手伝っている。嗅覚で問題解決の手伝いをしている。そんな彼だからこそ、留守中の家の手入れをご近所さんがしてくれたのです。
この、時を隔てて血筋が繋がっている炭吉と炭治郎には「人を助ける性質が遺伝している」とわかります。
炭治郎の前世が炭吉であるとか。炭吉の妻・すやこと継国縁壱が密通していて、炭治郎はその先祖だからこそ「日の呼吸」が伝わったとか。
そういうことではなく、炭治郎の一族には人助けをする親切心が受け継がれていて、それが先天性であるということが重要ではないでしょうか。
情けは人の為ならず――人に親切にすると、そのことがまわりに回って自分を救ってくれる――というのは、単なる綺麗事でお花畑なのか?
そういうことでもないのでしょう。
人は社会を作り、共同生活を送っています。そんな中で極端な親切心があり「あの人は信頼できる」ということになれば、その評価が巡り巡って、結果的に生存率が高くなるのは十分ありえます。
極端な親切心を持つ遺伝子が、適切な生存戦略を持っているんですね。
最終盤、炭治郎が窮地に陥ったとき、彼の親切心に救われてきた仲間たちは命がけで彼を救おうとします。
綺麗事?
少年漫画のお約束?
確かにそう片付けることはできましょう。
しかし、親切心という生存戦略が機能したと考えられるのではないでしょうか。
例えば、伊之助や義勇のように、社会生活を送る上で何かしら問題が生じるのであれば、研究対象とみなされますが、炭治郎のように極端な善良性は研究が遅れがちで未解明の部分が多いものです。
これに対し昨今、データを収集する取り組みが始まっていて、炭治郎タイプの人が、その周囲も含めて生存確率が上げることが推定されています。
一言でいえば「生き残る」んですね。
チーム全体を底上げする、ズレた【徳】は宝である
炭治郎のお人好しぶりは、作中で「ズレてる」と指摘されています。
善逸がそのズレに困惑する代表枠です。

『鬼滅の刃』3巻(→amazon)
炭治郎は家族思いでいい子! きっとマンガを読んでいる少年たちも好きになり、だからこそヒットしている……そう丸めている記事もありますが、私としてはどうかと思ってしまいます。
冷静に考えてみましょう。
彼が周囲にいて、友達になりたいかどうか?
実際のところ、その反応は賛否両論だと感じます。
『鬼滅の刃』アンチレビューには、要約すれば「主役がウザい!」というものが多い。具体的にザッと挙げますと……。
炭治郎は陽の【コミュ障】
いい奴だけど友達にはなりたくない
透き通った目で正論を言ってくるところが残酷では
相手の地雷を踏んでいく
押し付けがましい
空気を読んでない!
【陰のコミュ障】と言われる冨岡義勇に対し、ストーカーのようなアプローチ、ざるそば早食い勝負のあたりは強引でした。あの義勇ですら困惑しきっていたほどです。
ここまで特異な性格は、ごく低確率でしか発現しない個性だと考えた方がよいでしょう。
炭治郎はかなり少数派かつ、未解明の人物なのです。
ただし前述の通り、古典文学や宗教ではこうした人物が称賛されてきました。
人間社会に稀にいる、キラキラした正論を持つズレたタイプとでも言いましょうか。
彼らは称賛される存在なのです。
人間社会は弱肉強食だけでは成立しない――炭治郎という人物像は、そんな真理も伝えている。
周囲から救われることは、悪いことではない。情けないことでもない。それも個性であり、才能であり、生存戦略なのです。
彼は古典的な【徳】のある英雄として、そのことを教えてくれます。
その才能は、誰かの心を開くこともそうです。心こそ原動力だと繰り返し示される本作においては何度も証明されてきました。
ズレているからこそ、別のズレた相手と交流できるんですね。
自分に才能がない、弱いと劣等感を抱く善逸を「強い!」とキッパリ言い切った。
普通のコミュニケーションができそうにない伊之助を否定せず、その優しさでホワホワさせた。
この二人は「個性的で人気!」とされてはいるものの、現実社会にいたら問題児扱いされて、いじめや無視のターゲットにされかねません。
そんな彼らに偏見抜きにしてつきあえる炭治郎って、実はとんでもねぇ奴なんですよ。
しかも炭治郎は「心を極端に閉ざした相手」に対してこそ、真の力を発揮します。
カナヲの心を開くためならば、何度でもコイントスをすると断言するし、義勇が不安になるほどつきまとい、彼の語られなかった過去についても聞きとった。
カナヲと義勇は性別が異なり、その閉ざし方にも違いがありますが、似ている気質です。作中でも、心を閉ざしきっていました。
炭治郎がいなければ、かれらは心を閉ざしたまま生き、可能性を発揮できなかったかもしれません。
暑苦しいほどしつこいアプローチによって、二人は救われたのです。
チームの力を引き出す――なんて言うと空々しい言葉に聞こえるかもしれませんが、それこそが紛れもなく炭治郎の才能の一つでしょう。
『三国志演義』の劉備が、草庵で世捨て人のように生きる諸葛亮を三度訪れ、世にでるきっかけを作ったのも同じことですね。
ヒトという種が生存するためには、集団内に【徳】の高い個体がいる方が効率的である。
炭治郎には、そんな遺伝子が残されていて、個性につながっている。
こうした先天性の要素がまずあって、後天性の要素として鬼殺隊への加入があります。
鬼の襲撃という宿命がなければ、炭治郎はズレた【徳】を発揮し、ご近所の頼まれごとをこなし、地域住民の心を癒やす変わり者の好人物として生涯を終えたことでしょう。
炭治郎を真似できるかというと、実はそうでもない
炭治郎は、性格がズレているのみならず、割と無茶苦茶な根性論を振り回しています。
ハッキリ言いますと、彼の真似は危険。
まぁ、真似できる子どもだってそうそういないとは思いますが。
マンガはじめフィクションの悪影響は議論されますが、ここで考えたい点があります。
【再現の難易度】です。
『ワンピース』を読んで海賊になる読者はいない。これは当たり前でしょう。船の確保が容易ではありません。
では『ハレンチ学園』以来、問題視されてきたスカートめくりはどうか?
この場合、スカートを履いていて、抵抗しない誰かが目の前にいれば簡単に真似できてしまい、実際、1970年代には社会問題となりました。
スカートめくりや風呂のぞきは、現在では性犯罪とされます。日本国外では重大な刑罰もあり得るし、ノスタルジーで終わらせていいものでもありません。
他ならぬジャンプの作家複数名が性犯罪により連載中止、単行本が絶版になったことがあります。現に軽くない被害が出ているのです。
それでも何も学ばず対策をしなければ、責任から逃げているだけでしょう。
このことを踏まえますと、炭治郎の言動が読者に悪影響を及ぼすという懸念は杞憂かと思われます。
そもそも炭治郎の性格はかなり個性的、先天性由来であり、ごく少数の者しか発現できないはずです。
例えば
「長男だから我慢できたけど 次男だったら我慢できなかった」
そう自分自身に言い聞かせ、激痛をものともしない長男がどの程度実在するか?
決して多くはないはず。
人の組織が安定的に行動できる人数として【ダンバー数】という概念があり、それは「150人」とされています。
その中に、グループを安定的に動かし、力の底上げをはかる炭治郎タイプは、1人か2人いれば十分でしょう。多すぎてもトラブルにつながりかねません。
ヒトの生存戦略として、彼のような個体をその割合で発現させるようにしてきたと考えれば、現実に数パーセントいるかいないかという少数派です。
鬼殺隊の他の隊員で、炭治郎と同じタイプの存在としては煉獄杏寿郎が挙げられます。

『鬼滅の刃』8巻(→amazon)
責任感の強さは母親に似たとされていて、彼は強い者としての責務を全うすることを常に考えていました。
そして「うまい! うまい!」と駅弁を食べるあたりが、なかなかズレております。
最終回において、現代を生きる炭彦と桃寿郎が並んで走っていました。
似た者同士で、周囲からは「悪い人じゃないけど、なんか暑苦しいキャラだな」と思われがちなコンビなのかもしれません。
集団内の発現率として、この二人を参考にすればよさそうです。
つまり、その程度の少数しか、真似しても彼のようになりきれず、先天性ともなれば、真似するまでもなく最初からある程度ズレてしまっている可能性もありましょう。
読者が炭治郎を真似して、社会の空気を変えるとは思えません。
そう簡単に悪影響を受けるほど、読者の頭がまっさらであるとも思えない。
むしろ私が懸念することは
「現実社会にいる炭治郎タイプが偏見にさらされているのではないか?」
ということです。
ズレた個性を【コミュ障】と片付けて理解せず、遠ざけ、時にはイジメたり、無視してしまう。残念なことに、こうしたケースはよくあるものです。
人と違ってズレている存在だって、グループにとっては必要なのに。
むしろいなければ解決できないことだってあるのに。
そういう事態を避けるためにも、炭治郎のような誰かのことを想像し、受け入れることが大事だと思うのです。
【フェミニスト批評】の是非を考える
彼の「長男だから」という発言を変更すべきだという指摘があります。
これまで長々と検証した通り、悪影響があるとは到底思えませんので、私としては議論の必要すら感じません。
不死川実弥の項目でも触れましたが、そもそも大正時代が舞台であるからには、そこを削除することは有害となりえます。
我ながらくどいとは思いつつ【フェミニスト批評】の観点から再検討させていただきますと……。
海外では既に定着しつつあるこの動きが、ようやく日本でも広まりつつありますが、実際問題、迷走したスタートを切っていて、ある懸念を感じるのです。
その理由を考えてみました。
・【フェミニスト批評】であるからには【フェミニズム】と【批評】両方の知識が求められる。ただ、このいいずれか、あるいは両方の認識が不十分なままでしているものがみられる
・SNSの普及は、誰でも批評家になれる時代の到来とも言える。知識が不十分なまま、問題がある批評でも、RTされるうちに広まって認められてゆく
・どんな雑な理論でも、バズればいいという認識で、ともかく殴ったもの勝ちの領域に突っ込みつつある
・『鬼滅の刃』のような時代ものでは、舞台となる時代背景への考察も求められる。そこが欠落した議論になると混沌としてくる
・「そうは言ってもどうせ少年マンガなんだから、大したメッセージなんかないし、読者もそこまで高度な考察をしなくてよい」というバイアスからの迷走
「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編には、女性専用車両が出てこない! 問題だ!」
「甘露寺蜜璃は露出が激しい! フェミニストはこんなマンガを読んではならない!」
ここまで極論ですと、取り上げて拡散することが混沌を助長するようで迷うところではあります。まぁ、こうした意見はそこまで多くもありません。
ただ、炭治郎の「長男だから」については、変えるべきであるとか、ジェンダー観に悪影響を及ぼしかねないから有害といった論が定着しつつあり、しかも話題作だけに何度も見かけます。
批判するなら押さえておくポイントのようになっておりますが、果たしてそれが適切なのか甚だ疑問。
まだまだこれからとも言える【フェミニスト批評】ですが、うってつけの本もあります。
北村紗衣著『お砂糖とスパイスと爆発的な何か: 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』(→amazon)です。
まずはこの本を読み、考えていただけると幸いなのですが……。
己を鼓舞せよ、思想・良心の自由を保障せよ
炭治郎の「長男だから」とは、己を鼓舞する心の声として出てきます。
もしも頭突きをしながら「長男だからがんばれ!」と周囲に強要するのであれば大問題ですが、実際は自分に対しての文言ですよね。
そこまで制限するとなれば、それを指摘するのはハッキリ言って余計なお世話かつ思想及び良心の自由への侵害です。
この世にある問題とは【ジェンダー論】だけではありません。
雑な問題提起は、かえって発言者の信頼性を落としかねないもので危険。
【「長男だから」は有害だから変更すべき論】は、もう議論する必要性すら感じられません。
日本国憲法第十九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
むしろこうした雑な批評が拡大されることは、批評する側の信憑性を落とすだけでなく、人間の認識の過小評価も感じます。
「長男だから」は、もはやネタ扱いをされている。これは大正時代から認識が変わったという何よりの証拠です。
百年前ならば通じた道徳や理念も、現代では古すぎて陳腐になり、そうそう押し付けとして機能するとは言えません。
試しに「長男だから」という言説を、何がなんでも否定する側の年齢や属性を考察してみましょう。
年代や思考の傾向が見えてくるのではないでしょうか。
【自己認識】の問題――人は心が原動力だから
炭治郎の「長男だから」という自己認識は、あくまで彼自身のもの。
周囲からすれば奇妙であっても、本人だけが信じているのであれば無害です。
その【自己認識】に苦しめられるようになっているのであれば、それはまた別の話でしょう。
そしてこの【自己認識】こそ『鬼滅の刃』の重要な点です。
心こそ原動力であること。己を鼓舞すること。それが重要です。
『鬼滅の刃』には、極めて合理的かつ、最先端のトレーニングが反映されています。
この点は作中の大正時代よりもはるかに先進的でした。
◆負傷の程度を各自把握している。できない伊之助は問題があるとされる
◆回復を重視し、治療とリハビリを無理なく行う
◆ケアワーカーへの感謝と敬意を忘れない
◆訓練の手順が適切で、見て盗むような非合理性がない
◆鬼殺隊は【ダイバーシティ】を重視する
◆精神カウンセリング要素もある
◆適性が低いものは、危険度の低い「隠」とする
◆福利厚生はバッチリ! 笑顔の絶えない職場です!
鬼殺隊はメンタルケアに配慮がなされています。無惨によるパワハラ三昧の運営体制とは対照的ですね。
心と精神を大事にするということは、その要素だけで無茶振りをすることではありません。
作中では、四肢や視力を失う人物が多数出てきます。
それでも彼らは立ち直り、生きていくと示される。
確かに四肢を失った時はショックを受ける。不便だし、あればよかったという悔恨が消えることはありません。それでも人は、精神力さえあれば、喪失を乗り越えて生きてゆけます。
一方、メンタルが壊れた人はどうにもなりません。
身体的にはどこも失っていないけれども、精神的打撃から立ち直れずに堕落してしまう人物も出てきます。
元炎柱であった煉獄槇寿郎(れんごくしんじゅろう)が典型でしょう。
人格が高潔であっても、精神的打撃につけこまれ、鬼となってしまう猗窩座(あかざ)もおりました。
いかに精神が大事であるか?
そのことを重視するとなれば、傷つかないようにケアすることはとても大事なのです。
鬼殺隊は選抜と任務こそ厳しいものの、いったん中に入れば合理的な配慮が隊士に対しておこなわれます。
胡蝶しのぶや不死川玄弥のように、腕力や才能が劣るものが、工夫次第でカバーすることも取り上げられます。
多様性を重視し、戦う精神を保てるようにしているのです。
そこは大正時代、かつ任務が危険であはりますが、かなり優しい環境を作る工夫が随所にあります。
これは日本の歴史を語る上で、重要な観点とも言えるのではないでしょうか。
大正後の昭和初期、日本は第二次世界大戦に参戦しました。
ちょうど炭治郎の子世代にあたる大正末から昭和初期生まれの世代は、従軍による死傷が甚大。
復員しても精神が破壊され、荒んだ生活を送った人も多いのです。
そういう苦い教訓から日本はどう反省したのか?
と言いますと、それは私たちが自問自答すべきこととなるでしょう。
無惨が鬼を問い詰める様子を“パワハラ会議”と呼び、コラージュ画像を作ってしまう……これこそ、私たちはメンタルケアが十分になされていない日本社会を生きているという、何よりの証左ではないでしょうか。
【インセンティブ】の是非~ごほうびより大事なこと
『鬼滅の刃』は組織論として有用です。
そういう本は書店で平積みにされており「人気漫画から学ぶナントカ!」というのは、正直私も信じてはおりませんでした。
ただ、この作品に関しては合理性に富み、実際に研究を反映していると思えるところが興味深く、有効だと思えます。
『鬼滅の刃』は、暴力的な場面が多いため、子どもに見せることの是非はもちろんあります。
ただ、実際に子どもの心理を踏まえて役立つ点もあります。
子どもが嫌がることをやらせるにはどうすればよいか?
そのことも学べます。
子育てはじめ、動機付けとして「ごほうびルール」がよく知られています。
ちゃんとお皿を洗ってくれたら、歯みがきしたら、勉強をしたら、欲しいものをあげる!
【インセンティブ】ですね。
ただし、この手は危険であるという結果が出ています。
インドがイギリスにより植民地支配されていた時代のこと。政府は危険な毒蛇に対して報奨金を出すようにしました。これで危険な蛇が減るぞ! そう思っていたのですが……。
なんと、わざわざ毒蛇を養殖して持ち込む者が出てきたのです。
これではいけない!と慌てて中止すると、今度は金にならない毒蛇が野に放たれてしまい、逆効果となってしまった。
インドの国民性でもなく、ヒトはじめ生物界ではこういうことが起こり得る。
『鬼滅の刃』にも【インセンティブ】の悪例が出てきます。
“サイコロステーキ先輩”です。
彼は弱そうな鬼を狙って倒して昇進を狙った結果、屈辱的な名前の由来となる死に方をしてしまいます。
そういう【インセンティブ】ではない士気のあげ方は、ちゃんと示されています。
善逸の場合、周囲から認められる欲求が根底にある。
伊之助は、彼の持つ問題行動を闇雲に制限するのではなく、戦闘術として伸ばすようにしている。
そんな中でも、最も好ましいとされるのが【徳】がある炭治郎です。
彼の心を動かすものは責任感です。
禰豆子を守る!
そのためにも仲間を守る!
そんな思いが常にありました。
【責任感】から逃げるな!――無責任時代の終焉
作中、炭治郎は半天狗に向かって絶叫しました。

バンプレスト 鬼滅の刃 フィギュア 鬼ノ装 拾壱の型 半天狗(→amazon)
「貴様アアア!! 逃げるなアア!!! 責任から逃げるなアア」
これはまるで『鬼滅の刃』の意義を凝縮したかのようなセリフです。
炭治郎の「長男だから」というような【家父長制】が根底にある、第二次世界大戦以前の責任感は時代錯誤とされます。
ただ、そんな制度が変わった転期から、もう80年近くが経過。そうなると記憶も薄れたからこそ「長男だから」はただの天然ボケ扱いされるのです。
そんな第二次世界大戦まで、ちょっと時計を戻しますと……。
第二次世界大戦後、日本人はあることに絶望しました。
対戦した国は、こう振り返ったものです。
「日本軍の兵士や下士官は有能だ。だが上官の無能さは一体なんなんだろう?」
特攻隊を送り出し「君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する!」と言っていた上官が生きることにしがみついている。
無謀な作戦で部下を大量死へ追い込んだ上官が生存し、自説を記したパンフレットを配布している……。
『鬼滅の刃』は「自己犠牲を美化していて、戦争を賛美している」という批判もあります。
ただ、自己犠牲も厭わない産屋敷家の姿勢は、日本軍上層部の責任放棄とは違いますので、そこを忘れてはなりません。
なんなんだ? どういうことだ? そんな不信感はモヤモヤと漂っていく。このあたりの対比は、ナチス高官を南米まで執拗に追い詰めたドイツと対照的です。
もう終わったことですし、そんなことをしたって犠牲者は蘇りません。
けれども、ドイツ人の心境はこんなところでしょう。
「逃げるな卑怯者!! 逃げるなァ!!!」
きっちりと過去を清算しなければならなかったのです。
フィクションでもナチスは永遠の悪党として裁かれ続けています。
話をドイツから日本に戻しまして。
むしろ日本社会は「無責任でスーダラダッタ♪」と進行してきました。
ゆえに炭治郎は“時代錯誤”とされるのでしょう。
1961年(昭和36年)『スーダラ節』が流行歌に。
1962年(昭和37年)公開の映画タイトルは『ニッポン無責任時代』。
1980年(昭和55年)の流行語は「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」。
1988年(昭和63年)に世間を揺るがした「リクルート事件」では、秘書の名義だのなんだの、責任回避の姿勢が問題視される。
2010年代半ば『鬼滅の刃』連載期間と重なる時期に人気となったキャラクター「仕事猫(現場猫とも)」には【オアシス運動】のパロディがあります。
【オ】レじゃない
【ア】イツがやった
【シ】らない
【ス】んだこと
なんとも無責任極まりない……戦後、日本人は無責任時代を歩んできたと言えます。無反省とも言える。
「二十四時間戦えますか!」
そんな兵士のような労働者への奮起は促す。過労死が”karoshi”として国際的に認識される一方、社会全体には責任転嫁する空気が流れている。それが日本社会といえました。
これは少年マンガの世界でも、反映されています。
『鬼滅の刃』の先輩にあたるジャンプマンガで振り返ってみましょう。
『北斗の拳』には核戦争への恐怖。『魁!!男塾』には戦争体験者がいる。1980年代半ばから後半までには、第二次世界大戦の影響が感じられました。
しかし、それ以降は急速にそうした死への恐怖感、責任感が薄れたヒット作が増えてゆきます。
1980年代から1990年代の大ヒット作『ドラゴンボール』では、死者の蘇生という願いが叶います。しかもその頻度は高まってゆき、生命倫理的に無責任と言える設定になっていました。
1990年代のヒット作である『るろうに剣心』を見てみましょう。
この作品の主人公には、若くしてテロリスト「人斬り」となった過去があります。
しかし時代が変わり、名前を変えると「不殺」と言い切るようになります。
殺人という過去は、その程度の改心で償えるのかどうか。果たして過去の因縁のせいで、主人公である剣心は周囲を暴力に巻き込んでゆきます。
自分の過去からすれば想像できるリスクを直視しなかった、極めて無責任な主人公とも言えます。
敵味方とも、この作品の人物は自分とその狭い周囲のみを考えていて、明治人らしい「社会をよりよくしよう」という思想が抜け落ちていました。
2000年代のヒット作である『デスノート』は、血を一滴も浴びることなく殺人できるノートを、特に努力もなく偶然で手にする夜神月が主人公です。
将棋の駒を動かすように、いとも簡単に人の命を弄ぶ作品であり、生命倫理軽視の極みとも言えます。
デスノートは実在しません。
けれども、SNSの書き込みによって命が失われることは、現実のものとなりました。
1990年代末期からのヒット作『ワンピース』は、歴史をたどれば暴行と殺戮を繰り返してきた海賊を美化しているともとれます。
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同時期にヒットした『NARUTO』は忍者が題材です。
ただ、過去の忍者ものになったような緊迫感のある殺戮、命が軽い描写は感じられません。
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2000年代からのヒット作『銀魂』は、日本でも屈指の殺伐とした幕末維新をパロディにしています。
こうした作品の特徴は、歴史の暗部を描く責任から逃げていることです。
1980年代から2000年代のジャンプマンガは、とにかく命をカジュアルに扱い、責任感に乏しく、歴史の暗部から逃げる傾向がありました。
こうなると作者一人の問題でも、読者の問題でもなくて。根本的な社会の価値観、道徳観念、そしてシステムがそうなっていたのでしょう。
それはなぜなのか?
『るろうに剣心』は、政治的な面倒を避けるために、編集部の意図により明治初期を時代設定としたと明かされています。
編集部がそう判断するということは「政治みたいな意識高いことは避けたいよね」という空気があったということです。
そしてこの時代は、アンケートハガキシステムが活用されていた時代でもあります。
人気さえ続けば、整合性に矛盾があろうと話は続いてゆく。
かっちりとしたプロットを組み立ててゆくよりも、蛇足だろうと長々と続ける作風が正解でした。
キャッチーな展開をして、アニメにして、ゲームにして、映画にして、ともかく関連商品を売る。そういう消費システムが有効だったのですね。
当時は、バブル経済の影響がまだ残っていた時代。ともかく、売る・金になることが正解でした。
そうなると、人気キャラクターだろうとそう簡単に殺せなくなる。
無理があろうと、真剣さが薄れようと、生き返らせることだって仕方ない――。
こうして振り返ってみると『鬼滅の刃』がいかに型破りかつ、当時の作品に対するアンチテーゼであるかわかります。
炭治郎はじめ、作中の人物は命の尊厳を訴える。
家族や愛する者が次から次へと亡くなってゆく。
ほとんど復活はしない。
あれほど人気があるにもかかわらずキッパリと連載終了し、引き伸ばすこともない。
かつてなら100巻に迫る長期連載にでもなりそうな勢いでした。
それがワニ先生一人の意図かどうかは不明です。当然のことながら編集部サイドも姿勢を変えたのでしょう。
人間は自由に生きた方がいい。縛り付けるルールはいらない。そういうことは言われてきています。日本では体罰や厳しい躾の弊害も問題視されてきた。
自由を奪うこと。責任を厳しく問うこと。そのことへの反発はずっとあったものです。
けれども、基本に立ち返ってみましょう。
厳しい規範、理不尽な校則は確かに悪いものです。
そうはいっても、何の制約も、制限もないままでは、人間は際限無く堕落していくことも確かです。
「おやつばっかり食べていると、ご飯が食べられなくなるよ」
「遊んでばかりいないで、宿題もしようね」
「小さい子のことはちゃんと見守っていないといけないよ」
「散らかしたものは片付けなさい」
子どもにこう言うことは、虐待ではありません。
ただでさえ、子どもは誘惑に弱い。ドーパミンの分泌等、大人とは異なる脳の働きがあります。自由で楽しければいいと言い続けたら、ルールが守れない人間が生まれてきます。
ありのままに生きたらいい!
『アナと雪の女王』でエルサはそう主張します。それが感動的なメッセージとなり得るのは、彼女が抑圧されていたからです。
日頃からダラダラとしていて、お菓子を食べまくり、勉強はろくにしない。やりたくないと思えばそう言い、弱いものいじめてゲラゲラ笑い転げる。
そういう人間が「ありのままの姿を見せる!」と訴えたところで、何の感動もないどころか、呆れられるだけでしょう。
ましてや『デスノート』の夜神月が「あーあ、ありのままにデスノートに名前を書けたらいいのになぁ」と言おうものならば、邪悪の極みでしかありません。
ありのままに自由に生きる!
その解放の喜びがあるとすれば、前段階で厳しい状況や自由の制限がなければいけないのです。
炭治郎たちがその条件を満たしていることは、言うまでもありません。
付け加えておきますが、随分と往年のジャンプマンガに厳しいことを書いたとは思います。
ただ、それも時代の産物であるからには仕方ありません。
どんな人間も、その人間が好む作品も、社会の影響を受けます。作者の意図通りにならなくとも、そこは仕方ないのでしょう。
弱い者を助け守る――それこそが自然の摂理
2010年代後半から2020年代を代表する、そんなマンガとなった『鬼滅の刃』――だからこそアフターコロナ時代にも対応できそうな概念があふれています。
かつての日本社会を代表するマンガとして、もう一度『ドラゴンボール』の元気玉について考えてみます。
サイヤ人という先天性の強者たる孫悟空はじめ、特定のキャラクターが使う大技。
人間、動物、草、木等、周囲から元気を少しづつ集めるものですね。
これは果たして感動的でしょうか?
無責任かつ危険極まりない技と言えませんか。
瀕死状態のものが元気を奪われて命を落としたら責任を取れるのか?
その元気の中に悪意ある何かが入っていたらどうするのか?
自分自身のものではない力を濫用したらどうなるのか?
元気玉は心が綺麗でなければ使えないという制限があったものの、ストーリーが進むとそれすら厳格に運用されなくなってゆきます。
その危険性に、当時の日本社会は気づかなかったのか、あるいは余裕があったのでしょう。
元気を税金だと置き換えてみれば、いかに危険で悪質かわかるかと思います。コロナと戦う現代、その弊害は見えてきます。
ボランティア頼みの災害時やイベント対応。
NPO法人や民間の善意頼みである子ども食堂。
維持できない組織が最後に頼るクラウドファウンディング。
犯罪被害者や自殺を思いとどまる人が頼りにする、そんな電話相談までもがボランティア頼み。
そして増え続ける税と社会保障費の負担。
自己責任論が声高に叫ばれる日本社会ですが、もうそれにも限界があります。
人間の社会は、貧しい人々や体が不自由な人、健康でない人、そうした弱い人を助けた方がよいと判断して、発展してきたものです。
別に綺麗事でもなく、そうした方が社会が安定するからそうしてきたのに、その仕組みが崩壊すれば、暴力や悪事で自力救済するリアル『北斗の拳』ワールドが到来するのに……そういう叡智を人類は学んだはずです。
そうではないと、大災害や疫病の流行時に絶滅するかもしれない。
回復できないほど社会が壊れるかもしれない。
だからこそ、炭治郎のような【徳】のある人物が出現するようになっている。綺麗事やお花畑論を声高に叫ぶ人間が必要となってくる。
そういう人類史の奥深いところまで、原点回帰まで、炭治郎は突きつけてきます。
彼のような誰かは、人間社会にとって必要なのです。
そしてもう一度、彼の言葉を思い出したい。
「強い者は弱い者を助け守る そして弱い者は強くなり また自分より弱い者を助け守る これが自然の摂理だ!」
このことを人類は守ってきたからこそ、私たちの命は繋がれてきたのです。
主役の話だけに壮大な結論に至りました。
私が強く思うのはこのこと――炭治郎のような誰かのことを「ウザイ」といじめたり、仲間外れにしたり、笑いものにするような社会にならないでほしい。
その人はきっと、あなたをいつか助けてくれ、世の中をよりよくしてくれる。
人はそうして進化してきた。
みんなの力です
誰一人欠けても勝てなかった
生きていることは それだけで奇跡
あなたは尊い人です
大切な人です
精一杯生きてください
最愛の仲間たちよ
最後に、本稿を記載するにあたって、私が目を通していた書籍をピックアップさせていただきます。
皆様、よろしければ一読どうぞ。
【おすすめ文献】
正高信男『いじめとひきこもりの人類史』(→amazon)→新書で読みやすいです
ティモシー・スナイダー『暴政』(→amazon)→短く簡潔で読みやすく、意義がある本です
ジャレド・ダイヤモンド『危機と人類』(→amazon)
ユア・ノヴァル・ハラリ『サピエンス全史』(→amazon)
スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙 :理性、科学、ヒューマニズム』(→amazon)
ご拝読ありがとうございました。
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