殺伐とした世界観で、次から次へと登場人物が亡くなっていった大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。
「そんなことは最初からわかってただろ」
そうツッコまれると返す言葉もないのですが、それでも、この方だけは亡くならないで欲しかった……と願いたくなる武士がいました。
和田義盛です。
劇中では、横田栄司さんが演じた猪武者――。
いつでも猪突猛進の「バカで憎めないキャラ」であり、畠山重忠や源実朝とのやりとりは何ともホッコリできたのに、結局、北条義時と対峙して涙無しには見られない終わりを迎えてしまう。
そんな義盛は、史実でどんな人物だったのか?
建暦3年(1213年)5月3日に亡くなった和田義盛の生涯を振り返ってみましょう。

和田義盛/Wikipediaより引用
三浦一族の有力者・和田義盛
和田義盛が生まれたのは久安三年(1147年)のこと。
父は杉本義宗。
名字が違っていてややこしいのですが、さらにもう一つ別の名字「三浦」が絡んできます。
父の杉本義宗は、三浦義明の長男でした。

三浦義明と三浦義澄(勝川春亭画)/wikipediaより引用
つまり和田義盛は、三浦氏の一族であり、同氏の嫡流になっても不思議ではない立ち位置だったんですね。
【祖父】三浦義明
│
【父】杉本義宗
│
【子】和田義盛
実際の三浦氏は、三浦義澄(ドラマでは佐藤B作さん)が家督を継承し、そのまま息子の三浦義村(山本耕史さん)に引き継がれましたが、慈円の記した『愚管抄』では和田義盛を三浦氏の長と見るような記述があり、なかなか微妙な関係だったと思われます。
整理すると
・三浦氏の有力一族である和田義盛
・相模国三浦郡和田を本拠地としたから和田氏を名乗った
まず、この二点を押さえておけば、基本的な出自は問題ないかと。
なお、三浦氏そのものは坂東八平氏の出身です(以下に詳細記事がございますので、よろしければご覧ください)。
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関東に拠点を築いた坂東八平氏|なぜ清盛に従ったり源氏についたりしていた?
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同じ平氏である平清盛に忠誠を尽くすような間柄ではなく、義盛の祖父である三浦義明は、頼朝の父・源義朝の後ろ盾だったとされています。
義明の娘が義朝に嫁いでいて、源氏とは切っても切れない間柄だったのです。
石橋山の戦いに参加できず畠山軍と遭遇
そうした経緯がありましたので、治承四年(1180年)8月、平家討伐を掲げて挙兵した源頼朝に、三浦氏や和田氏が呼応するのも自然な流れでした。
『鎌倉殿の13人』でも和田義盛と共に山本耕史さん演じる三浦義村が参加していましたね。
しかし、彼らが丸子川(酒匂川)まで来たところで、トラブルに直面。
これまたドラマでもクローズアップされたように、川が増水していて、渡ることが出来ませんでした。
旧暦8月はおおよそ新暦9月、雨が多い台風シーズンですから、仕方のないことでしょう。
回り道すべきか、水が引くのを待つべきか。
逡巡している間に、石橋山の戦いが発生してしまい、
「頼朝様が敗北し、生死もわからぬ状況だ」という知らせが三浦・和田両氏のもとへ届けられました。
仰ぐべき旗頭の行方が不明では、これ以上、先へ進んでも意味がない……。
そう考えた義盛たちは、一旦地元へ戻ることにしたのですが、ここでトラブルに直面してしまいます。
平家方の畠山重忠軍と遭遇したのです。
ややこしいことに和田義盛と三浦義村、そしてこの畠山重忠は従兄弟同士でした(下記の図をご参照ください)。

両者の間に緊張が走ります。
当初は
「源平を通して敵味方に分かれたとはいえ、我らは親戚同士で直接の恨みはない。ここでわざわざ血を流す必要もないだろう」
と話がまとまりかけたのですが、遅れてやってきた和田義盛の弟・和田義茂が事情を知らず、畠山の陣に突入してしまったのです。
【小坪合戦】と呼ばれます。
程なくして誤解であるということがわかり、戦闘は小規模で終わったものの、三浦・畠山双方に数十人ずつの死傷者が出たといいます。
しかし事はこれで済みませんでした。
房総で助力を得て態勢を建て直す
三浦一族が本拠の衣笠城へ戻った数日後、畠山軍が攻め寄せたのです。
双方よく戦ったようですが、三浦氏側は小坪合戦での疲弊が抜けてなかったようで、やむなく城を捨てて海へ逃げることになりました。
本拠を捨てて命を取るというのは、武士としてはかなり思い切った判断です。
最後の意地として、当時89歳という脅威の高齢だった三浦義明が「我が生命を頼朝様に捧げ、子孫の繁栄を祈る」とし、一人で衣笠城に残って討ち死にしたとか……。
三浦氏一門がいかに頼朝へ期待をかけていたかがわかる逸話ですね。
一方、畠山重忠としても、母方の祖父(三浦義明)を死に追いやったのですから、たとえ平家サイドの命令で衣笠城に攻めかかっていたとしても、心中穏やかではなかったでしょう。
義盛たちは無事に海へ逃れ、幸運にも北条時政と合流することができました。
時政は石橋山の戦いで敗れた後、散り散りになる直前まで頼朝に同行していたとされますので、当時の状況を詳しく義盛らに伝えたことでしょう。
そして房総半島に着くと、後から到着した源頼朝を揃って出迎えました。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
態勢を立て直すため、頼朝は房総半島の武士たちに協力を取り付けようと考えます。
義盛は、房総半島で最も有力と見なされた武士の一人・上総広常への使者を命じられました。
大河ドラマでは佐藤浩市さんが演じ、壮絶な死で話題になった武士ですね。
このときの広常は、なかなか挙兵に応じず、腰を上げたときも
「もしも頼朝の器量が凡人程度のものであれば討ち取ってやろう」
と考えながら、頼朝と対面して、野心を改めたといいます。
程なくして、畠山重忠など、石橋山の戦いでは平家方だった武士たちも源氏方に転じるようになりました。
小坪合戦や衣笠城の戦いの記憶も新しかったと思われますが、三浦・和田氏と畠山氏の間で口論や諍い事が起きたという話はありません。
ドラマでは何かと牽制し合う義盛と重忠が、ちょっとしたホッコリシーンになっているのも、そういう背景を汲んでのことでしょうか。
義盛は他の武士たちとともに頼朝に従い、鎌倉へ入った後に【富士川の戦い】で平家軍を打ち破ります。

富士川と富士山
また、このころ源義経が頼朝に対面していますが、義盛はその場に居合わせなかったようで、特に記録がありません。
佐竹討伐
坂東武者たちの助力を得て、鎌倉入りした頼朝。
さっそく西へ向かって平清盛を討伐……とはならず、まずは関東での足場固めに取り掛かりました。
上総広常や千葉常胤、そして義盛にとっては本家筋である三浦義澄の意見を採用したのです。

三浦義澄/wikipediaより引用
彼らからすれば、
「平家を討つことに依存はないが、その間に自分の領地が脅かされてはたまらない。鎌倉の安全もまだ保証できたとは言い難い」
というところでしょう。至極当然の話です。
一方、頼朝にしてみても、
「ご先祖様と同じように、武士たちの所領を安堵した上で、平家打倒の際には恩賞を与えなければならない」
という事情もあり、彼らの意見を押しのけて西上を急ぐことはできません。
そもそも彼らには、背後を脅かす存在がいました。
常陸の佐竹氏です。
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佐竹義政はなぜ広常に謀殺された?義光流の佐竹が河内源氏の頼朝と対立
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佐竹氏は平家方、かつ奥州藤原氏との繋がりもあり、武力・財力を備えた大勢力。
上総氏や千葉氏の主戦力が西へ向かえば、途端に攻め込んでくるリスクが大いにあります。
とはいえ、正面からの大戦に挑んで、兵や物資を損耗するのは避けたいところ。
そこで広常が、佐竹氏の力を削ぐための計略を用います。
佐竹氏当主の嫡男・佐竹義政とその弟・秀義と旧知の間柄だったため、会見を申し入れたのです。
当日、兄の義政だけがやって来ると、広常は「人に聞かれたくない話があるので、少し離れよう」と誘い出し、お供の者たちから離れた橋の上で義政を殺害。
佐竹氏の家督は急遽、佐竹秀義が継ぎ、金砂城(かなさじょう)に籠もって防戦態勢に入りました。
源氏軍が攻め寄せるも、なかなか押しきれない。
そこで上総広常が進言します。
「秀義の叔父である佐竹義季をこちら側に引き入れ、佐竹軍の気勢を削ぎましょう。恩賞を約束すれば、きっと降ってくるはずです」
その通りにすると、義季はあっさり源氏軍につきました。
義季が、広常を金砂城の裏手に案内し、広常軍が城内へ呼ばれると、秀義以下の佐竹軍も大いに動揺。
取るものもとりあえずといった様相で、何処かへ逃げ去っていったといいます。
壇ノ浦の戦い
佐竹氏の動向に一段落つくと、源氏軍はいったん鎌倉へ戻り、諸々の統治機関を設けました。
和田義盛が与えられた職が侍所の別当。
ドラマでもちょっとしたシーンになりましたね。
少し補足しますと、侍所は、もともと皇族や公家の屋敷を警備する侍の待機所を指し、鎌倉幕府では警備の他に裁判所の機能も持っていました。
有事の際には御家人の統率も担う大役です。
大河の劇中では、かなり猪武者な義盛ですが、本人の経歴や能力からしても、妥当な人選といえるでしょう。
この後しばらく、義盛は侍所別当としての仕事に専念していたようで、木曽義仲の討伐や【一ノ谷の戦い】には参加していません。
義盛が再び前線に立つのは元暦元年(1184年)8月。
源範頼を大将とする平家追討軍が出発するときです。

源範頼/wikipediaより引用
範頼は義盛とよく相談して兵を進めたようですが、不運なことに【養和の飢饉】の影響が抜けきれておらず、兵糧の調達などに苦しみました。
文字通り「腹が減っては戦はできぬ」というもので、遠征軍の士気はどんどん下がっていき、範頼から頼朝へこんな手紙が送られています。
「みな本国を懐かしみ、義盛までもが密かに鎌倉へ帰ろうとする始末です。他の者達については言うまでもありません」
この一件については、義盛は他の将兵と共に頼朝からお叱りを受けています。
しかし、源範頼が大将だったからこそ、士気が下がる程度で済んでいたのかもしれません。
短慮な大将のもとで同じ事態に陥っていたら、平家との一戦前に身内で仲違いしていた可能性もあるでしょう。
兵糧や船の調達ができた翌元暦二年(1185年)、範頼軍は再び動き始め、義盛は北条義時や足利義兼と共に豊後へ渡りました。
このころ九州の武士たちは平家方が多かったため、先にこちらを叩いておき、平家本隊との合流を防ぐのが狙いでした。
足利義兼は、その名の通り源氏の一門です。

足利義兼/wikipediaより引用
源義家の孫である足利義康から始まり、義兼はその息子です。
しかも義兼の母は熱田大宮司家の娘であり、さらに正室は北条時政の娘でもあったので、頼朝とは父・母・妻と三重の縁がありました。
その割には、あまり目立たない人物ですよね……。
おそらく頼朝が亡くなった2ヶ月後に義兼もこの世を去っていて、その後の鎌倉幕府内での権力闘争に巻き込まれなかったからだと思われます。
また義兼は、足利学校を創設した候補者の一人です。諸説あって定かではありませんが、もしかしたらその点でご存知の方もおられるかもしれません。
経験豊富で忠義に厚い義盛。
この時点ではまだ北条の若殿だった義時。
源氏一門の義兼。
大将が諸将を立てる源範頼であったことも幸いしてか、豊後の戦いから壇ノ浦に至るまで、彼らの間にトラブルはなかったようです。
そして迎えた壇ノ浦の戦い――義盛個人については『平家物語』の中に逸話があります。
義盛は当初、舟には乗らず、渚から二~三町(約218~327m)離れた平家方に向かって自分の名を記した矢を放ち、
「できるものならこの矢を射返してみせよ」
と挑発しました。
【屋島の戦い】における那須与一の話(扇の的)がそうだったように、”挑発されて黙っているのは武士の名折れ”という価値観の時代です。
当然、平家もそのままにはしておけません。
平家の大将・平知盛も弓の名手を探し、伊予の武士・仁井親清が義盛の矢を射返してみせたといいます。
挑発してしっぺ返しをくらったのですから、義盛としてはなんともバツが悪い。
怒った義盛は戦場で激しく戦ったという話です。
義盛にとっては、いささかカッコ悪い話であると同時に、平家も武門としての意地を感じる場面ですね。
清盛の時期から平家は貴族化したといわれていますが、武士としての特徴もしっかり持っていたんですね。
ただし、もはや形勢の差はいかんともしがたく、源氏が勝利し、平家は滅亡しました。
奥州藤原氏討伐
壇ノ浦の戦いが終わり、平家を滅ぼすと、待っていたのは源氏お得意の身内争いです。
平家を滅ぼした軍略の天才・源義経が、兄の頼朝と対立したのです。

源義経/wikipediaより引用
結果は、頼朝の政治力が勝っていました。
義経はかつての庇護者である藤原秀衡を頼って奥州へ逃れるしかありません。
しかし、その秀衡も程なくして病死してしまい、秀衡の後を継いだ泰衡は逡巡の末、文治5年(1189年)に義経を殺してしまいます。
同年6月、義経の首が鎌倉へ届けられました。
首実検を行ったのは和田義盛と梶原景時。
彼ら二人を含め、義経の首を見た者は皆涙したといいます。
弔い合戦を敢行するのにはもってこいの場面でしょう。
機を見るに敏な頼朝は、早速その翌月、奥州藤原氏の討伐に向かい、義盛も同行しました。
阿津賀志山の戦いで藤原泰衡・国衡が逃亡すると、追撃の先頭に立ち、国衡を討ち取ったのが義盛です。
ただ、その戦功を巡って、畠山重忠と少々揉めたようです。
『吾妻鏡』によると、最初は義盛が国衡と弓矢で勝負し、国衡が胸に矢を受けて逃げようとしたところへ畠山軍の大串重親がやってきて討ち取った……という経緯。
・一番槍(弓ですが)で首を取れる状況を作った義盛
・実際に首をとった重親
どちらの功績が大きいか?というわけです。
畠山重忠は後から報告を受けただけで、現場を見ていなかったらしく、義盛の言い分を最初は信じようとしませんでした。
しかし、頼朝の前で言い争いになったところへ、国衡が身につけていた鎧を持ってこさせると、義盛の言う通りの場所に矢で穿たれた跡がありました。
重忠は知らなかったのだから、義盛が言いがかりをつけていると勘違いしたのも無理はなく、道理に背いてはいません……というところで記述が終わっており、どちらの戦功になったのか書かれていません。
両者の間に遺恨が残ったらしき形跡がないので、おそらくは頼朝が公平に賞したのだろう……と推測するしかありません。
その後、泰衡の首が届いた際には義盛と重忠が首実検を行っています。
やはり重忠とのライバル関係がドラマでもどう描かれるか、楽しみなシーンであります。
合議制の発足と景時追放
建久元年(1190年)秋、頼朝が上洛すると、義盛にも数多くの栄誉が与えられました。
道中は先陣。
京都に到着後も、頼朝が右近衛大将任官に対する拝賀をしたときは、随行する七名の武士に選ばれています。

頼朝上洛の図/国立国会図書館蔵
さらに、功績の大きかった御家人への任官が打診されたときにも、義盛の名が登場。
後白河法皇から「二十名を選ぶように」と言われたようですが、頼朝は十人にとどめました。
武家政権を確立させたい頼朝としては、朝廷の影響力をできるだけ排除したい。
しかし完全に断ってしまうのも後白河法皇や公家たちのあらぬ誤解を招き、後に対立しては面倒ですから、そこで選んだ十人というのはギリギリのバランスだったのでしょう。
翌建久二年(1191年)は、あまり義盛の動きも見られず、翌建久三年(1192年)、侍所別当の職を梶原景時と交代しています。
『吾妻鏡』では景時が騙し取ったかのように書かれていますが、さすがにこれはないでしょう。
別当という重要な職が物の貸し借りのように単純に取られてしまうというのは考えにくいですし、なにより頼朝が許すはずがありません。
おそらく景時の悪評を際立たせるための創作でしょう。

馬込万福寺蔵の梶原景時像/Wikipediaより引用
そして正治元年(1199年)、時代が大きく動きます。
1月に源頼朝が亡くなり、同年4月にはドラマのタイトルにもなっていた「十三人の合議制」が発足するのです。
文字通り有力御家人13名による政治形態であり、義盛もこの一人に選出されました。
それが以下のメンバーとなります。
【十三人の合議制】
北条時政
北条義時
安達盛長
大江広元
和田義盛
比企能員
三浦義澄
梶原景時
足立遠元
三善康信
八田知家
中原親能
二階堂行政
合議制とは言いながら、常に13名による会議や合意が行われていたわけではありません。
よって、お互いの理解不足によるトラブルも孕んでいて、それが最初に噴出したのが、同じく正治元年(1199年)10月に梶原景時が弾劾された事件です。
頼朝の死から1年も経たない内に勃発したこの一件。
経緯については以下の景時記事をご覧いただくとしまして、このとき他の御家人たちはほぼ満場一致といった様相で、景時を弾劾する署名をしました。
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なぜ梶原景時は鎌倉御家人たちに嫌われたのか|頭脳派武士の無惨な最期
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そして宿老ともいえる大江広元に提出するのですが、状況悪化を懸念した広元は、しばらく手元にとどめています。
御家人たちの怒りが和らぐのを待っていたのかもしれません。
しかし「広元が弾劾状を頼家に見せていない」と知った義盛が、我慢できず将軍御所に駆け込みます。
「ばぜ弾劾状を提出しない! 景時を恐れてるのか!」
結果、広元は仕方なく源頼家に弾劾状を提出、景時に事実確認が行われたようです。
景時は何も言わずに鎌倉を去り、所領に戻りました。
そして翌正治二年(1200年)1月。
理由は不明ながら、上洛の途についた梶原一族は、駿河で地元武士と戦闘になり、景時以下全員が滅んでしまいました。
義盛は、再び侍所別当の座に就いています。
比企能員の変
少し時を進めて、次に和田義盛が歴史に大きく関わったのは建仁三年(1203年)9月2日のこと。
比企能員の変(比企氏の乱)です。
二代将軍・源頼家が危篤になったのをキッカケに、

源頼家/wikipediaより引用
次期将軍候補の問題が勃発し、この事件へ発展しました。
なぜ、そんなことに?
当時、頼家の嫡子である一幡はまだ幼児であり、頼家のすぐ下の弟・千幡(源実朝)もまだ元服前という状態で、どちらかに決めかねる状況だったのです。
むろん、源氏の嫡流がいるうちは、その中から次期将軍を選ぶのが筋です。
そこで頼家の外祖父である北条時政は「一幡に将軍職と東国の地頭職を継がせ、千幡には西国の地頭職を相続させよう」と言い出しました。
これに真っ向から反対したのが若狭局と比企能員です。
若狭局は頼家の妻であり一幡の母であり、能員は彼女の父(頼家の舅)でした。
「一幡こそ正当な嫡流なのですから、全て一幡が相続するべきです!」
こちらもまた一幡の外祖父として発言力を行使しようとしたのです。
構図としては
頼家の外祖父・北条時政
vs
一幡の外祖父・比企能員
ですね。
天皇に娘を嫁がせ、朝廷での権力を握り続けた藤原氏みたいなもので、北条氏と比企氏はライバル関係となっていたのです。
先に動いたのが北条時政でした。

北条時政/wikipediaより引用
「仏事について相談があるので、我が家へお越しいただきたい」
そう言って比企能員を誘い出し、屋敷に入ろうとしたところで殺害したのです。
残された比企氏の面々は、一幡の御所に立て籠もって防戦を試みます。
しかし、彼らに逆風が吹きました。
尼御台である北条政子の名で、比企氏討伐の命が御家人たちに下されると、多くが北条方について圧倒的な兵力差となり、比企一族のほぼ全員が討死・自害してしまうのです。
ただし、能員の妻妾たちと当時幼児だった末子の能本は許され、一時期、義盛のもとに預けられています。
こうした一連の事件が起きていたとき、病に伏せていた将軍の頼家はずっと意識がなかったようです。
そして9月5日に回復して事の経緯を知ると、当然ながら激怒。
義盛と仁田忠常に北条氏討伐を命じます。
仁田忠常は伊豆の武士で、頼家からの信頼が厚かったうちの一人ですが、同時に一幡の乳母父(後見役)でもありました。
そういう人物と共に討伐を命じられているのですから、おそらく頼家は義盛のことも相当に信頼していたのでしょう。
しかし、です。
事態は意外な方向へ動きました。
義盛は熟慮の末、頼家から渡された討伐の命令書を時政に届けるのです。
おそらくや北条氏の勢いには勝てないと考えたのでしょう。
結果、命令書を届けた堀親家と仁田忠常は、北条氏の手によって討たれてしまいました。
堀親家はかつて、娘・大姫の婚約者だった木曽義高(木曽義仲の息子)を討伐した人でもあります。
それをきっかけに大姫が大病を患ってしまったため、政子は頼朝に
「追討を命じられたとしても、内々に大姫へ知らせるのが筋でしょう! 姫が病みついてしまったのは親家と郎党たちの不始末です!」
と迫り、頼朝は仕方なく直接手を下した郎党(藤内光澄)の首を斬った……ということがありました。
完全に言いがかりですが、こういった仕打ちを受けてもなお将軍に仕えていたのですから、親家も忠義が厚い人物だったのでしょう。
まぁ、それが裏目に出て、自らも殺されてしまったのですが……。
ともかく、事ここに至り、権力闘争は北条氏の圧勝でした。
9月7日には源頼家も将軍の座から降ろされ、出家後に修善寺へ幽閉されると、最終的に暗殺。
残った千幡は元服して源実朝と名を改め、将軍職を継ぎました。

源実朝/Wikipediaより引用
まだ単独では政務をこなせない実朝に代わって、時政が単独で文書を発行するようになり、この時点で鎌倉幕府の実質的な最高権力者は北条氏になったといえます。
義盛も、おそらくは半ば諦めていたでしょう。
畠山重忠の乱
元久二年(1205年)6月、今度は畠山重忠に謀反の疑いがかけられます。
発端は酒席で起きた些細なこと。
北条時政の後室・牧の方の娘婿である平賀朝雅と、畠山重忠の息子・畠山重保が、口論になったというものです。
平賀朝雅(時政と牧の方の娘婿)
vs
畠山重保(重忠の息子)
朝雅は、頼朝の猶子でもあったため、牧の方は「重忠は謀反を起こそうとしているのです!」とこじつけ、時政に重忠討伐を願います。
さすがに屁理屈にすらならない話ですよね。
なので時政の息子である北条義時や北条時房は
「重忠殿のこれまでの忠勤や日頃の態度は疑いようもなく、謀反など起こすわけがない」
と最初は断ります。
しかし、牧の方の兄に「継母(牧の方)に味方したくないだけだろう」となじられ追い込まれ、ついには討伐に賛同せざるを得なくなったとされます。
義時が畠山氏討伐の総大将となり、和田義盛も討手に加えられました。
前述の通り、かつて義盛と重忠の間には幾度かのトラブルがありましたが、同時に双方とも幕府創立の功労者です。
今さら謀反を起こすなど考えられないし、だいいち動機もない。
そんな相手を討伐するというのは、嫌悪感も罪悪感も相当激しいものだったでしょう。
実際に『吾妻鏡』では、義時は重忠の首を見て討伐を後悔し、牧の方と父を排除することを決めたとされています。
北条氏の立場から記された『吾妻鏡』とはいえ、「武士の鑑」とされた畠山重忠を討つというのは、よほどのことだったに違いありません。

坂東武士の鑑と称された畠山重忠(月岡芳年画「芳年武者无類」/wikipediaより引用)
重忠討伐からおよそ二ヶ月後の元久二年(1205年)閏7月。
今度は「牧の方が源実朝を廃し、平賀朝雅を将軍にしようとしている」という噂が流れました。
確かに朝雅は頼朝の猶子ですが、実子の実朝を飛び越えるのは流石に無茶な話。
実朝の母である北条政子や、叔父として実権を握れる立場の北条義時からすれば、とても見逃せるものではありません。
しかし父の北条時政は牧の方側についてしまい、一族内にメラメラと不協和音が生じてしまいます。
政子と義時は覚悟を決めました。
父と継母一派をまとめて政治から遠ざけることにし、さっそく行動に移します。
源実朝は、当時、祖父である時政の屋敷にいたのですが、三浦義村たちに命じて義時の屋敷へ移動。
このとき警備のため時政邸にいた御家人たちも政子・義時側についたといいますから、やはり重忠を討った一件で時政は決定的に人望を失っていたのかもしれません。
時政と牧の方は孤立したことを悟って出家すると、程なくして鎌倉から追放されました。
将軍候補に担がれた朝雅は京都にいて、間もなく幕府の手の者によって殺害。
その後、時政は地元の伊豆北条で隠居し、建保三年(1215年)に病死しました。
牧の方は時政の死後、朝雅の元妻でもある自分の娘が再嫁した公家のもとに身を寄せたとも伝わります。
二人を処刑しなかったのは、政子や義時のせめてもの情けというところでしょうか。
この件は「牧氏事件」と呼ばれています。義盛の名は全く出てきませんが、他の件との比較のために書かせていただきました。
討伐軍が編制されれば、義盛は侍所別当として動かざるを得ません。
しかし、牧氏事件のように【北条氏の内紛】かつ【軍が動いていない】とき、義盛は出てきません。
あくまで職務に忠実であり、北条氏と敵対する意向はない……というのが、この頃の義盛の意向だったと思われます。
上総介
和田義盛には、ある目標がありました。
上総国司の座に就くことです。
上総は親王しか国守になれない決まりでしたので、武士である義盛は次官である上総介ということになります。
といっても上総の国守になった親王が実際に現地へ来るわけではありませんので、実質的な上総の国守は上総介と言っても過言ではありません。
承元三年(1209年)、義盛は上総介に就きたいという望みを、内々に源実朝へ申し出ました。
実績はすでに充分だったため、実朝としては望みを叶える意向だったようです。
しかし朝廷へ勝手に打診するわけにもいかないので、母の政子に相談すると……。

北条政子(江戸時代・菊池容斎画)/Wikipediaより引用
「頼朝様が『御家人が受領になることは禁じる』とお決めになったので、義盛殿の望みは叶えられません」
と、つれない返答。仕方なく実朝はそのまま義盛に伝えます。
受領というのは、実際にその土地に赴任する役人の中で一番エライ人のことです。上総介もこれに含まれます。
各国のトップは国司ですが、実際には赴任しない者も多々いたため、区別する呼び名ができたんですね。
現代に無理やり置き換えるとすれば、
国司=本社のお偉いさんが名前だけ地方の営業所の所長を兼務している状態
受領=実際に営業所で働く人達のトップ
みたいな感じでしょうか。
もちろん実際に領地へ赴任する国司もいました。
また、鎌倉幕府には、皆さんご存じの通り、守護と地頭という役目が存在します。
◆国司・受領は朝廷
◆守護・地頭は幕府
つまり義盛の言い分は「御家人のまま朝廷の役職につきたい」ということにもなるわけで、これが非常にまずい。
将軍の推挙によって、名目だけの官位を得るのなら問題はありません。それはあくまで名誉だけにとどまるからです。
しかし国司となると話が違います。
特に上総介は「親王の代理」ですから、幕府よりも朝廷との結びつきが強まりかねません。
となると、かつての義経のようなトラブルの種になってしまうわけで……。
やっと安定し始めた鎌倉幕府で、そんな種を蒔く訳にはいかないというのが政子の言い分でしょう。
頼朝がはっきり決めておいてくれたのも、北条氏側にとっては幸運でした。
御家人を納得させるのに、これ以上ない大義名分となります。
しかし諦めきれない義盛は、大江広元を通じてこれまでの勲功を訴えたりもしますが、やはり却下。

大江広元/Wikipediaより引用
幕府としても絶対に譲れない一線であるので、いくら功労者と言えども受け入れることはできません。
ただ、義盛が憤懣やるかたないといった心境になったであろうことは間違いないでしょう。
義時による挑発行為
そして運命の建保元年(1213年)2月。
信濃の武士・泉親衡が、頼家の遺児である千寿丸を擁立するため、実朝を暗殺しようとしている――そんな計画が発覚します。
和田義盛はこの一件とは無関係でした。
しかし、義盛の息子である和田義直と和田義重、そして甥の和田胤長が陰謀に加担しようとしていたため、当然お咎めを受けます。
義時にとっては、和田氏を除く絶好の機会です。
領地の上総にいた義盛は、知らせを聞いて慌てて鎌倉へ戻り、赦免を願い出ました。
結果「義盛のこれまでの功績に免じて」という理由で息子たちは許されますが、胤長はその対象にならず、陸奥への流罪となってしまいます。
義盛以下、和田一族はどうにか胤長も赦免してもらえるよう、90名もの大人数で実朝に嘆願。
しかし許されません。
それどころか胤長は一族の目の前で縄にかけられるという恥辱を受けてしまいます。
胤長の屋敷は召し上げられ、義盛は必死になって願い出ました。
「罪人の屋敷は縁者に下げ渡される慣わしです! どうか自分にお与えください!」
この願いは一旦許されたものの、義時はすぐに別の御家人に胤長の屋敷を与えました。

絵・小久ヒロ
約束を反故にするのもまずい……というか、和田一族に重ねて恥辱を与えたようなものです。
しかもこのとき、胤長の幼い娘が「父が流刑になった」ということを悲しんで病みついてしまう……。
心配した周囲が「胤長によく似た和田朝盛(義盛の孫)を見せて、”父が帰ってきた”と思わせて元気を出させよう」としたのですが、娘はあえなく死んでしまったといいます。
良くも悪くも情に厚い義盛。
一族の幼い子供の死を怒り悲しんだことは想像に難くありません。
義盛はついに、反北条の兵を挙げる決意を固めます。
さすがにここまでくると、潜在的には北条氏へ反感を持つ者もいました。
そうした人々と連携し、兵力を確保しようとしたのです。
しかし、和田一族の中でも反対する者がいました。
先述の和田朝盛がその一人です。
彼は実朝に寵愛されていたため、実朝の身まで危うくなるようなことには賛同しかねたのだとか。
そして悩んだ末、密かに出家して逃げ出したところ、義盛に追手を放たれて連れ戻されてしまいました。
これがまた噂のタネとなり、鎌倉では「和田の挙兵は近い」と言われ始め、ついに実朝の耳にも入ります。
和田合戦
建保元年4月27日、騒乱になることを憂えた実朝は、和田義盛のもとに使者を送って真意を聞くことにしました。
使者に対し、義盛は答えます。

歌川貞秀の描いた和田義盛/wikipediaより引用
「実朝様には全く恨みはない。義時殿があまりに傍若無人なので、仔細を訊ねようとしているだけだ。北条氏が我らを尊重するならば、今まで通り忠勤に励む」
これはこれでもっともな言い分。
もしここで北条氏が権力集中よりも協調を選んでいたら、その後の歴史は大きく変わっていたことでしょう。
しかし、残念ながら、義時が選んだのは前者でした。
当時、義時と義盛の屋敷は非常に近いところにあったといわれています。
具体的には、義時邸が宝戒寺のあたり、義盛邸が若宮大路沿いだったとか。軍兵の動きがあればすぐに分かるような距離です。
義時もそれは十分承知の上だったでしょう。
表面上は平静を保ちました。
しかし最も頼りにしていた三浦義村が北条氏側についてしまったことが、義盛にとっては最大の誤算でした。
当初、義村は義盛の計画に賛成し、共に挙兵すると言っていたそうですが、その後、弟の胤義と相談して、義盛の計画を義時に密告してしまうのです。
義村邸は、義盛邸よりも義時邸に近かったと考えられています。密告が義盛にバレなかったのはこのせいかもしれません。
義時はいったん御所に上がって実朝と政子に避難を勧め、その後自邸に戻って兵の準備をはじめました。
にわかに市中が騒がしくなり、義盛は誰かに密告されたことを悟ります。
そして5月2日、義盛はいよいよ腰を上げました。
最初は義時邸を攻めたものの、本人が不在だったため、そのまま将軍御所へ攻め寄せます。
いかに義時が憎いとはいえ、将軍のいるところへ攻め込んでしまっては、逆賊になってしまう……。
次々に御家人たちが集まり、和田軍は徐々に劣勢になっていきます。
御所で和田方と組討をした御家人の中には、親族にあたる人もいました。
結局、事ここに至ってはどちらも引けず、縁者同士で首の取り合いになってしまうのです。
そうこうするうちに日も暮れかけてきたため、和田軍は由比ヶ浜方面へ撤退。

鎌倉の海・由比ヶ浜
翌5月3日の朝に武蔵の御家人・横山時兼が義盛への援軍として駆けつけたことで、士気を取り戻します。
そして再び激戦が始まりました。
予想以上の長戦ぶりに、さすがの義時も先を懸念しはじめます。大江広元も同様だったようで、二人は実朝の名で義盛討伐の命令書を発行しました。
これに多くの御家人が呼応し、再び和田勢が劣勢となります。
3日夕方までに和田一族は一人、また一人と討たれていったそうです。
そしてついに義盛の息子・義直も討たれると……義盛は声を上げて泣き
「もう戦う甲斐もない!」
と嘆いたとのこと。
義直は四男でしたが、義盛が最も可愛がっていた息子だったようで、先立たれて悲しむのも無理はありません。
そして、そんな義盛に、容赦なく江戸義範の郎党が襲いかかり、あえなく討たれてしまいました。
享年67。
★
義盛の息子たちのうち、嫡子・和田常盛と三男の朝比奈義秀は落ち延びたといわれています。
常盛は横山時兼と共に甲斐まで逃げ、そこで自害。
義秀は行方がわかっておらず、例によって生存説があります。
といっても「高麗へ逃げた」というものですので、真偽の程はかなり怪しいですね。
おそらくは和田氏に同情した人々が「生きて戦場を逃れたのだから、大陸ででも暮らしているに違いないさ」と言い始めたのでしょう。
三男・朝比奈義秀は大層な剛力の持ち主だったらしく、現在も鎌倉の切通として知られる「朝比奈切通」は義秀が一夜で作ったという伝説があるほどです。

錦絵に描かれた朝比奈義秀/国立国会図書館蔵
そういう人物が悲劇的な経緯で行方不明になったのですから、トンデモな生存説が生まれるのも無理はありません。
和田義盛の死は北条一族にとっては非常に大きな一件となりました。
義盛の滅亡により、義時は侍所別当の地位をも手に入れ、鎌倉幕府はますます北条氏の専制へ向かっていくのです。
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【参考】
『国史大辞典』
安田元久『鎌倉・室町人名辞典』(→amazon)
笹間良彦『鎌倉合戦物語』(→amazon)
ほか








