正治2年(1200年)1月23日は三浦義澄の命日です。
『鎌倉殿の13人』では佐藤B作さんが演じられ、北条時政(坂東彌十郎さん)の盟友として、三浦義村(山本耕史)の父親として――。
なかなか存在感のあるキャラでしたが、史実でどんな事績があったのか?についてはわかりづらかったかもしれません。
三浦義澄とは一体どんな武士だったのか。
その生涯を振り返ってみましょう。

三浦義澄/wikipediaより引用
三浦義澄は坂東八平氏の出身
三浦義澄は大治二年(1127年)、相模国三浦郡(現・神奈川県横須賀市)を根拠地とする三浦氏の一員として生まれました。
生年の近い人物としては、平清盛の正室・時子や、足利氏の初代となる源義康がいます。
三浦氏は”坂東八平氏”と呼ばれる桓武平氏の一族でした。
簡単に血縁関係をまとめると、
【三浦氏の流れ】
桓武天皇
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葛原親王
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高望王
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平良文
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坂東八平氏(三浦氏)
となります。
坂東八平氏には、三浦氏の他にも御家人の名門としてよく登場する人々がいて、ざっと以下の通り。
◆房総半島の千葉氏・上総氏
◆武蔵周辺の秩父氏・畠山氏
◆相模周辺の梶原氏
おおまかに「鎌倉幕府創立の前から関東にいた名族たち」と捉えておくと良さそうで、さらに三浦氏の支流には和田氏がいます。
こちらも十三人の合議制に入っている和田義盛で有名ですね。
血縁関係としては、以下の図にありますように、三浦義澄が「叔父」で、和田義盛が「甥」という関係になり、

三浦義澄の話題には、甥である義盛もたびたび登場します。
ただし、義澄の前半生については、あまり記録がありません。
平治元年(1159年)【平治の乱】では、源義朝の庶長子・源義平に従っていたようですが、平家方に敗れて三浦まで落ち延びたといわれています。
平治の乱は旧暦12月に発生。
追手と雪の厳しさが相まって、源氏方の負傷者・脱落者が少なくありませんでした。
当時十代前半だった頼朝も、途中ではぐれて捕まってしまいます。
そんな状況で逃げ切れたのですから、当時の三浦義澄はまだ目立たない存在だったのかもしれません。
この時点では数多くいる源氏サイドの一人に過ぎませんから、それが不幸中の幸いだったといえます。
頼朝の挙兵
長寛二年(1164年)、兄の三浦義宗が亡くなると、すぐ下の弟である三浦義澄は家督を継ぎました。
そこからしばらくは目立った記録がなく、具体的に何をしていたのかはよくわかっていません。平家が隆盛していく中で、時代に適応していたのでしょう。
そして源頼朝が挙兵。
治承四年(1180年)に頼朝が兵を挙げると、義澄はすぐに応じていて、心情的にはずっと源氏寄りだったのではないでしょうか。
しかしこの時は運の悪いことに、頼朝の下へ向かう途中の酒匂川が増水しており、【石橋山の戦い】には間に合いませんでした。
さらに、撤退の途中で平家方についていた畠山氏の軍と遭遇。
互いに旧知の仲であることから戦を避けよう……という話になりかけたのですが、連絡の行き違いにより戦闘が始まってしまいます。
何とかその場は収まりながらも、互いに数十人の被害が出ているため、そう簡単に割り切れるものでもありません。
畠山軍としては、平家への体面も考えなければなりませんでした。
そのため畠山重忠・河越重頼・江戸重長らは、翌日になって三浦氏の本拠・衣笠城まで攻め込み、前日の疲労から回復できてない三浦・和田両氏は苦戦を強いられます。
そこで上記の系図にもいた義澄の父・三浦義明が、自ら一人で城に残ると言い、義澄らを逃すのです。

三浦義明と三浦義澄(勝川春亭画)/wikipediaより引用
義澄以下、多くの一門衆が涙ながらに別れた……と『吾妻鏡』には書かれており、『平家物語』の延慶本では次のように記されています。
「義明が城に残ろうとするのを無理に輿に乗せて連れて行った。
しかし、途中で腰を担ぐ者たちが追手を恐れて逃げてしまい、義明は非業の死を遂げた」
さすがにこの展開では可哀想なので、吾妻鏡の説を信じたいところです。
こうして全滅を免れた三浦氏と和田氏は、舟で房総半島に渡り、態勢を整えることになりました。
道中にあたる海上では北条時政らと合流し、阿波にたどり着きます。
ここで頼朝を迎え、上総氏・千葉氏などに働きかけて再度平家打倒の兵を挙げるために動きました。
この頃、安房国の長狭常伴(ながさ つねとも)が頼朝を襲撃しようとしたのを、義澄は事前に察知して返り討ちにしたといわれています。
常伴は義朝の時代にも源氏に従わず、平家方を通していたことがありました。
また、三浦氏とも因縁があったため、義澄は安房に来た時点で長狭氏の動きを警戒していたのかもしれません。
富士川の戦い
無事に兵が整い、石橋山の戦いの際は平家方だった武士たちも源氏方へ。
勢いを得た源頼朝は鎌倉入りを果たします。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
同時期には、畠山重忠・河越重頼・江戸重長も頼朝についていますが、義澄や義盛ら三浦一族にとっては、父や祖父の仇。
頼朝も【衣笠城の戦い】のことは知っていたようで、三浦氏一門に対して
「平家を討つという大きな目的のため、遺恨を残してはならない」
と言い含めたようです。
当の義澄らも遺恨を持ち続けていなかったようで、頼朝の提案を素直に受け入れ、席次等でも問題はなかったとか。
重忠にとって三浦義明は母方の祖父ですし、あの時点では平家への義理立てがあったという事情を汲んだのでしょう。
こういったときの身の振り方などから、義澄の冷静さが伝わってきます。
10月の【富士川の戦い】にも、義澄はもちろん参加。
このとき平家方の伊東祐親(すけちか)が捕らえられるのですが、義澄の妻が祐親の娘、つまり舅であり、その預かりを申し出ます。

伊東祐親の像(物見塚公園)
また、このころ北条政子が懐妊したという知らせも届きました。
慶事に際して敵を助命するというのはよくある話なので、義澄も舅・祐親の助命を願い出ました。
頼朝も依存はなかったらしいのですが、祐親は自害を選んだといわれています(頼朝がやむなく処刑したという説もあります)。
これにはちょっとした事情があります。
かつて祐親の娘・八重姫が頼朝といい仲になり、子供(祐親にとっては孫)も生まれていました。
しかし祐親は平家に憚ってその子を殺してしまった。そのため頼朝の子供に免じて……という点に耐えられなかったのだろうというわけです。
また、このときは祐親の次男・伊東祐清(すけきよ)も捕らえられていました。
祐清は頼朝の乳母・比企尼の娘を妻としており、かつて娘とこっそり通じていた頼朝に対して祐親が激怒して討とうとした際、頼朝を逃したことがあります。
頼朝はその恩を忘れておらず、
「あのとき与えられなかった恩賞を今授けたい」
と言いました。
しかし祐清は、
「父が捕らえられたというのに、どうしてその子が恩賞をいただけるでしょうか」
と断り、あくまで平家方を通したといいます。親子揃って非常に義理堅い人物だったのでしょうね。
三浦介(みうらのすけ)
富士川の後、頼朝は西上しようとします。
そこで三浦義澄は千葉常胤・上総広常らとともに以下のように献言します。
「常陸の佐竹氏がいまだ平家方であり、兵力も多数揃っています。他にも動向の読めない家がいくつかありますので、どうにかしておかないと背後が危険です」
頼朝はこの意見を容れて、ひとまず関東の地固めを優先することにします。
同じ頃、源義経が頼朝の下を訪れ、いわゆる「黄瀬川の対面」を果たしていますが、これに関する義澄の反応は記録されていません。

源義経/wikipediaより引用
富士川からの帰途、頼朝は初めての論功行賞を行いました。
義澄もこのとき賞されたうちの一人で、所領を安堵されると共に新しい領地をもらい、さらに”三浦介(みうらのすけ)”という呼称を許されました。
もともと義澄の父である義明が「三浦大介(おおすけ)」と自称していたことによるものと思われます。
”大介”は国司が署名する際に用いることがあった自称のひとつなのですが、それを頼朝が公認することによって、三浦一帯を安堵する意味を強めたのでしょうか。
また、このとき長尾定景という平家方の武士を三浦氏で預かることになっています。
彼はこれ以降は三浦氏の郎党となり、およそ30年後に実朝暗殺事件が起きた後、下手人である公暁を討ち取りました。
11月には他の御家人たちとともに、義澄も佐竹氏攻略に参加しています。
正面から戦っては損害が大きいということで、縁者にあたる上総広常が騙し討ちや離間をしかけるなど、頭脳戦の面も強い合戦。
そのためか、同合戦における義澄の功績はあまり語られていません。
椀飯(おうばん)の役
その後、鎌倉へ。
12月には、新造されたばかりの頼朝の御所で、義澄が椀飯(おうばん)の役を務めています。
椀飯とは、この場合家臣が主人に食事を振る舞うことです。
元は公家社会で行われていた習慣ですが、鎌倉幕府創立後は武家の行事として長く広く行われるようになっていきます。
ちなみに江戸時代頃になると主君から家臣へ食事を振る舞うことを指すようになり、これが民間にも広まって「大盤振る舞い」と変化しました。
義澄が何を振る舞ったのか。
そこまでは『吾妻鏡』に書かれていませんが、このときに限らず『吾妻鏡』では衣食住に関する記述がほとんどないのが特徴のひとつです。
公家の日記とは違いますし、この時代ですとまだ武家には「自分たちの記録をつける」という習慣が根付いていないので、重要な件以外の記述があっさりしているのも仕方ありません。
三浦氏の本拠地である三浦半島は三崎港をはじめとした良港に恵まれていますし、鎌倉も海が近いので、海産物が多かったかもしれませんね。
この後も義澄は椀飯振る舞いをたびたび行っていますが、あまりにも回数が多いので省略させていただきます。
治承五年(1181年)1月。
頼朝が鶴岡八幡宮へ初詣に出かけた際にはお供を務めました。
また、同年3月にはまだ去就がハッキリしていなかった武田信義が、鎌倉で頼朝に謁見しており、そのとき義澄や梶原景時が同席しています。

韮崎市役所前の武田信義像/photo by タイスキ大好き
さらに6月には頼朝が三浦で避暑をすることになったため、義澄たち三浦一門が気合を入れてご馳走を用意していました。
このとき、酒が進んでから上総広常と岡崎義実の間でしょうもない言い争いが起き、刃傷沙汰になりかけたところで義澄の弟・佐原義連が仲裁したという出来事もありました。
そのため、頼朝の覚えがめでたくなったといいます。
義澄はこういうときにあまり表に出てきませんので、一歩引いたところから物事を見るような人だったのかもしれませんね。
頼朝は公然と三浦氏に目をかけていましたから、他の御家人からやっかみを買わないように気を配っていたのでしょうか。
この三浦訪問から頼朝が帰る際、義澄はお土産として兜や馬を献上しています。
馬は「髪不撫(かみなでず)」という名のもので、義澄はこれに乗って何度も戦に出ており、負けたことがなかったとか。
壇ノ浦の戦い
次に義澄が戦場へ赴くのは、元暦元年(1184年)8月のことです。
頼朝の弟・源範頼に従って西へ向かう征伐軍の一員に加わりました。

源範頼/wikipediaより引用
翌文治元年(1185年)に範頼が豊後に渡る際は、周防の警備のため留守を命じられています。
これもひとえに義澄や三浦氏に対する信頼感から来るものでしょうが、義澄は先陣で華々しく戦う気満々だったので、待機させられることには不満だったようです。
守備を務めている間に、屋島の戦いを終えた義経軍が周防までやってきたので、義澄は義経に接触。
義経は義澄に案内役と先鋒を命じられました。
【壇ノ浦の戦い】に関しては、戦闘以外のところでも義澄の名が登場します。
義経と梶原景時が先陣を巡って言い争いをし、ヒートアップした双方の郎党までもが殺気立ったとき、義澄が義経に組み付いて同士討ちをやめさせた……というものです。
武士としての意地も持っていますが、やはり義澄はどちらかというと一歩引いたところから物事を見るような、冷静なタイプだったのでしょう。
となると個人としての武勇は伝わりにくいため、目立ちにくくなってしまいますね。
平家滅亡後の義澄は、武士というよりも政治家のような働きが目立ってきます。
どの御家人にも共通ではありますが、その中でもうまく適応していった一人かな、という感があります。
いくつか簡単にご紹介しましょう。
鶴岡八幡宮の放生会(ほうじょうえ)
文治元年(1185年)10月。
義澄は、勝長寿院の落成供養に向かう頼朝の警護役を務めました。
警護役も大変ですが、地盤固めに余念がない頼朝も大変です。
こうした政治的な仕事としては、文治二年(1186年)6月、「戦続きで疲弊した農民のため」という頼朝の命で、義澄が相模の百姓に米を配ったこともあります。
庶民の暮らしを安定させ、都への税を滞りなく遅れるようにすれば、頼朝や関東武士への信用が高まるのは必然。
評判を買うための先行投資といったところでしょうね。
さらに文治三年(1187年)2月には、頼朝が義澄邸を訪問し、酒宴が開かれています。
ちょうど信濃・保科の遊女の長が訴訟のため鎌倉に来ていたので、この宴席に呼び出して歌を歌わせて楽しんだそうです。

画像はイメージです(『前九年合戦絵巻』鎮守府将軍の源頼義と息子・源義家の前に御膳が/国立国会図書館蔵)
文治三年(1187年)8月には、鶴岡八幡宮の放生会(ほうじょうえ)に参加しています。
この放生会(ほうじょうえ)については特別なエピソードがあり、梶原景時の記事に詳細がありますので、よろしければ後ほど併せて御覧ください。
端的に言えば「弓術に長けた金刺盛澄」が流鏑馬で数々の神技を炸裂させています。
義澄の息子・三浦義村も流鏑馬の五番手として選ばれましたので、父として誇らしかったことでしょう。
その他の事績について、以下にざっと記させていただきますと……。
文治四年(1188年)1月20日
→頼朝が伊豆山権現・箱根権現・三島大社へ参詣の旅
→義澄が道中の相模川に船橋を作るよう命じられる
文治四年6月11日
→奥州藤原氏から朝廷献上の馬や黄金などが届く
奥州藤原氏については少し補足が必要ですね。

藤原秀衡/wikipediaより引用
この時点での彼らは源義経に通じており、鎌倉側から信用されていませんでした。
そのため義澄は、馬と黄金を没収すべきかどうか、頼朝に尋ねます。
『吾妻鏡』では、頼朝が「公のものだから没収してはならない」というところで記述が終わりますので、おそらくそのまま京都へ運ばれたことでしょう。
逃げる藤原泰衡を追い
いかがでしょうか。
公の仕事から私的な宴まで、幅広い場面で義澄の名が登場。
長老格とみなされていたこともあってか、この時期から次世代と関わる場面にもたびたび登場してきます。
例えば文治四年(1188年)7月、萬寿(後の二代目将軍・源頼家)の鎧初めの儀式です。

源頼家/wikipediaより引用
義澄は、畠山重忠や和田義盛と共に、萬寿が馬に乗るための手助けをしたばかりでなく、翌文治五年(1189年)4月には、北条時政の三男・北条時連の元服式にも参加。
頼朝は、義澄の弟・三浦義連に加冠役を務めるよう命じました。
義澄ほか名だたる御家人の多くが居合わせていたため、義連は当初遠慮したのですが、頼朝が指名の理由を以下の通りに並べ、
周囲の人々も納得したので、義連が加冠を務めたそうです。
義澄も誇らしかったでしょう。
同じく文治五年夏の【奥州征伐】では、阿津賀志山での奮戦が知られています。
平泉に向かって逃げる藤原泰衡を追い、義澄らは暴風雨の中を追撃し、その道中で泰衡の有力な郎従・若次郎を討ち取ったそうです。
頼朝軍はそのまま平泉へ入りましたが、肝心の泰衡が見つかりませんでした。
その捜索は、義澄・義連・義村ら三浦一族に任せます。
すると9月6日になって河田次郎という泰衡の郎党が主人の首を持ってきたため、それ以上の進軍は取りやめになりました。
ちなみに次郎は頼朝に
「泰衡を討つのは時間の問題だったので、お前のやったことは手柄にならない」
と言われて処刑されています。
おそらく、頼朝の父・義朝が家臣の長田忠致に首を取られたことを思い出し、不快になったから……というのもあるでしょう。
狩衣の下に腹巻を装着
建久元年(1190年)にも頼朝が上洛。
御所へ入る際、頼朝の牛車の前を行く三騎の先頭を義澄が務めました。
武門としては相当誉れ高いことだったでしょう。

頼朝上洛の図/国立国会図書館蔵
この後日、石清水八幡宮への参詣などにも随行していますが、このころ頼朝は、数十日間の滞在で8回も後白河法皇と会談しています。
実はこの二人、親密だったんですね……というワケでもありません。
『吾妻鏡』11月29日の記述では、後白河法皇への拝謁では、義澄を含めた12名の御家人が頼朝に随行したと記録されていて、そこに
「御家人たちは、みな密かに狩衣の下に腹巻を身に着けていた」
とも書かれているのです。
現代でいえばさながら防弾チョッキですかね。当時の緊張した空気がうかがえます。
しかし、そんな心配も束の間、12月11日になると、頼朝の推挙で10名の御家人に官職が与えられました。
後白河法皇から「20人選べ」と言われたのを、憚って10名にしたとされています。
義澄もその一人に選ばれましたが、息子の三浦義村に譲り、さらには三浦義連も左衛門尉(さえもんのじょう)に任ぜられています。
興味深いことに、このとき頼朝の実弟である源範頼は任官されていません。
このときの任官が後白河法皇の意向であり、頼朝の本意ではなかった可能性も考えられますね。
源義経という前例がある上、頼朝にとって数少ない血縁者をわざわざ法皇や朝廷に近づけたくなかったのでしょう。
ただし、源範頼は、頼朝が大納言に任じられた際の拝賀では先駆けを務めているため、決して軽んじられたわけでもありません。
頼朝が一族の統率に一層気を配っていたことがうかがえるのではないかと思います。
この任官の後、頼朝は鎌倉への帰路につきました。
武勇伝語りの会
建久二年(1191年)8月1日。
大庭景能(かげよし)の主催で宴会が催され、頼朝の命令で年配の御家人たちが武勇伝を語ることになりました。
義澄も参加しており、一体どんな話が聞けたのか?
というと、これが非常に緊迫する場面でした。
景能が戦った相手が、同時代最強の武士と目される源為朝だったからです。

源為朝/wikipediaより引用
この時代の武士は弓馬、つまり弓術と馬術に優れた者が戦場で優位に立つことができ、その中でも源為朝は飛び抜けて屈強な肉体を持ち、非常に強い矢を放つことができました。
景能は、そんな弓の名手・為朝と対峙することになり、しかも互いに正面から矢を撃ち合いそうな場面になります。
互いの弓の威力を考えれば絶体絶命と言えましょう。
そこで景能は、馬を左へ急旋回。
死角を奪おうとするのですが、相手はさすがの最強武士ですからそう簡単にはいきません。
為朝は瞬時に向きを変えるや矢を放つ――と、景能の左膝を切り裂きました。
距離にして50m以上。
通常は10~20mとされる当時の射程範囲を大きく超えてくるものですから、為朝の凄まじい威力のほどがご理解できるでしょう。
そんなレジェンド武士と一騎打ち、しかも生き残ったのですから、それだけでも十分称賛に値するものだったようです。
景能は弓だけでなく馬術の大切さを若武者たちに説きました。
為朝は、頼朝にとっては叔父にあたります。
流刑になった伊豆大島でさらに反乱を起こして討伐軍に攻め込まれ、自害――とまぁ頼朝の前で話すネタでもない気がするのですが、景能の話を聞いた皆が感心し、頼朝も褒めていたそうなので問題はなかったのでしょう。
頼朝の命で相撲
建久二年(1191年)閏12月7日にも、頼朝が義澄邸を訪問、宴となりました。
このとき三浦義澄の息子・三浦義村や、甥・佐原景連など比較的若い世代の御家人が呼ばれ、頼朝の命で相撲を取ったそうです。
勝敗については書かれていませんので、褒美をかけた勝負というよりは、ちょっとした余興でしょうか。
頼朝と義澄の間には、単なる主従にとどまらない、良い意味での気安さがあったように感じられます。
それがうかがえそうな出来事として、建久三年(1192年)7月の実朝誕生前後に注目したいと思います。
このとき、母である北条政子は名越の屋敷へ移っていて、7月24日に頼朝が屋敷を訪れた際は、義澄が接待をしました。
本来ならば政子の実家である北条氏が接待すべき場面。
それを義澄が行っているのです。
実はこのとき、頼朝には征夷大将軍の官職が与えられることになっていました。
名越で頼朝を接待した数日後、義澄は頼朝の代理として、鶴岡八幡宮で征夷大将軍の辞令を受け取っています。
比企能員など、他の重鎮を多く従えてのこの役目は、義澄が名実ともに御家人の筆頭格であることを示すものでした。
また、8月9日に無事、源実朝(さねとも)が誕生すると、二夜目の儀式は義澄が担当しました。

源実朝/Wikipediaより引用
わずか半月ほどの間に何度も重要な役を任され、義澄も三浦一門も大忙しだったことでしょう。それ以上に晴れがましい気持ちも強かったに違いありません。
建久4年(1193年)5月に頼朝が行った【富士の巻狩り】にも義澄は参加しています。
この狩りは非常に規模の大きいもので、名のある御家人以外の武士も多く参加しており、人数は数え切れないほどでした。
しかも頼朝にとっては嬉しいことに、愛甲季隆(あいこうすえたか)という武士が巧みに追い込んだ「鹿」を息子の源頼家が射止めるのに成功。
政子にこれを報告したところ
「武士の子ならそのくらいできて当たり前です」
と呆れられたエピソードは割と有名かもしれません。
兄弟親戚を何人も葬ったせいか――頼朝にはどこどなく冷徹なイメージもありますが、こうして見ると時には家臣と楽しく遊び、息子には親バカっぷりを発揮し、なかなか人間臭い一面もあったのではないでしょうか。
ただしこれも、単なるレクレーションだけでなく、狩りや宴などを経て、息子・源頼家の側近を見繕っていた可能性も感じます。
愛甲氏は、武蔵七党と呼ばれる有力武士団の一員でした。
季隆は後に畠山重忠を討ち取ったり、和田合戦で和田方についたり、重要な事件でもたびたび登場。その彼が頼家の狩りに積極的ということは、有事の際にも頼りにできて喜ばしいことです。
頼家の狩りの成功については、政子への伝え方が悪かったのか。政子がその意図を受け取れなかったのか。理由は不明ですが、何らかのすれ違いがありそうですね。
また、この巻狩りの間に日本三大仇討ちの一つ・【曾我兄弟の仇討ち】があり、建久四年(1193年)5月29日に取り調べが行われました。
この場にも、やはり義澄や北条時政などの重鎮衆が集まっています。
義時の息子に孫娘を嫁がせる
その後も頼朝が寺院に出かける際の随行として、義澄の名は頻繁に登場します。
江戸幕府でも似たようなことがいえますが、義澄のように戦場の最前線で活躍してきた武人が、平和な時代に適応するのは中々難しいもの。
トラブルが頻発していないだけでも上々でしょう。
鎌倉幕府の御家人の場合、治承・寿永の乱以前から地元に根付いていた者が多いので、比較的やりやすかったのではないかとは思われます。
頼朝としても、三浦氏一門は子々孫々に至るまで幕府の中枢にいてもらいたい……という意向があったのではないでしょうか。
建久五年(1194年)二月に北条義時の息子・頼時(のちに北条泰時と改名)が元服し、この席に義澄を始めとした多くの御家人が参加していました。

和田合戦の北条泰時(歌川国芳作)/国立国会図書館蔵
この席で、頼朝は義澄に
「頼時を婿にしてはどうか」
と勧めています。
これによって頼時(泰時)は最初の正室として、義澄の孫娘・矢部禅尼を娶ります。
残念ながら建暦2年(1212年)頃までに離婚していたようで、北条氏と三浦氏のかすがいとはなりませんでしたが……。
少なくともこの時点での頼朝は、
妻の実家であり、次代以降の将軍の外戚である北条氏
三浦一帯を取り仕切り、一族も多く、揃って功績や忠義心に問題のない三浦氏
を幕府の両輪とみなしていたのではないでしょうか。
頼朝が三浦氏を一門衆の次にあたる立場とみなしていそうな出来事として、もう一つ挙げておきましょう。
一条高能と頼朝の娘・大姫との縁談話は……
建久五年(1194年)閏8月1日、頼朝が外甥の一条高能を連れて三浦へ出かけたことがありました。
この地へ山荘を建てるための下見だったようです。
昼は御家人たちが小笠懸(遠距離に置かれた小さな的を馬上から射る競技・流鏑馬よりも難易度が高いとされる)を演じ、夜は義澄の主催による盛大な宴会が催されています。

笠懸/wikipediaより引用
実はこの直前、一条高能と頼朝の娘・大姫との縁談が持ち上がっていました。
しかし大姫が最初の婚約者・源義高(木曽義高)を忘れられず、激しく拒絶したために破談となっています。
高能に対してこれがどのように伝えられたのかはわかりませんが、この遠出や宴は、頼朝からの詫びの気持ちも含まれていたのではないでしょうか。
例によって宴会の料理については詳細が書かれていませんが、吾妻鏡では
「良い酒や珍味が出され、景色も素晴らしく、良い宴だった」
と書かれています。
おそらく義澄も貴人のもてなしという以上に気を遣ったのでしょう。
ちなみにこの宴、夕方になってから政子・頼家・大姫の三名もやってきています。
高能と話したのかどうか――残念ながらそのあたりについては記録がありません。
翌2日も小笠懸が行われた後、船上で宴会が催され、猿楽の芸人や遊女などが呼ばれて「上下の人々が大笑いした」といいます。
頼朝と高能が鎌倉へ戻ったのは3日ですので、この「大笑いした」中に二人も含まれていたのでしょう。
となるとやはり単なる物見遊山ではなく、高能への接待という面が強かったのではないでしょうか。
頼朝自身がかなり気に入っていたのでしょう。
同年9月にも三浦の別荘へ出かけると、個人的にもこの場所をかなり気に入っていたようです。
この時期の頼朝は「歯痛に悩まされていた」という記述が散見されるので、気晴らしを求めていたのかもしれません。
義明山満昌寺
9月29日、頼朝は【衣笠城の戦い】で散った三浦義明を偲び、義明山満昌寺(まんしょうじ)を開きました。
ここには頼朝の手植えとされるツツジの木があり、その下をくぐると頭痛が治るという伝えられています。
『吾妻鏡』にはこの後も頼朝の歯痛に関する記述がたびたび見られるため、残念ながら本人へのご利益はなかったようです。
まぁ、当たり前ですが、歯痛の数日後に三浦に来たこともあるので、頼朝本人は期待していたのかもしれませんね。
建久六年(1195年)1月25日にも頼朝は三浦へ出かけ、義澄らが船上の宴でもてなしています。
頼朝は寺社への参詣や開眼供養、上洛の他に外出したという記録があまり多くないのですが、三浦の何かをよほど気に入っていたのでしょうか。
この年は三浦から帰って間もない2月2日に上洛の支度を始めているので、義澄と何らかの相談をしたのかもしれません。
この上洛の際も義澄はお供をしています。
ただし、3月27日の頼朝参内や4月15日の石清水八幡宮参詣の際は、義澄ではなく息子の義村が従っていました。
他の御家人たちも代替わりしている家が散見されるため、頼朝と義澄の間で打ち合わせをしていてもおかしくはなさそうです。
同じく建久六年9月28日には、平清盛の弟・平教盛の子である天台宗の僧侶・忠快(ちゅうかい)を三浦に招いています。
『吾妻鏡』では「義澄は仏教を厚く信仰しているため、忠快を引き受けた」とあります。
義澄は既に70歳を迎えようという頃合いになっており、来世を考えることが増えていたのでしょう。
それからおよそ一ヶ月後、10月26日には頼家が鶴岡八幡宮と三浦の久里浜大明神(おそらく横須賀市久里浜の住吉神社)に参詣。
翌日帰る際、義澄が引き出物を献上し、帰路で和田義盛の屋敷へ寄っています。頼家とのパイプもでき始めていたという感じでしょうかね。
頼朝としては、おそらく自分が健康なうちに将軍職を頼家に譲り、院政に倣う形で後見役を務めていくつもりだったでしょう。
しかし建久九年(1198年)12月27日のことでした。
相模川の橋供養に出席した帰路で体調を崩した源頼朝は、翌正治元年(1199年)1月13日に亡くなってしまいます。
『吾妻鏡』ではほとんど触れられておらず、死因は未だに不明。
先述のように、頼朝が数年前からたびたび歯痛に苦しんでいたことから、現代では「歯周病の悪化による誤嚥性肺炎ではないか?」という説が出ており、今後の研究成果が待たれるところです。
頼朝死後の政治体制は
義澄ら幕府草創の功臣たちは、頼朝の跡を継いだ源頼家に引き続き仕えました。
しばらくは頼家の親裁も行われていましたが、将軍職継承から半年も経たない正治元年4月には十三人の合議制を設置。
義澄もこの一員に加わりつつ、別の仕事も担当しています。
頼朝は亡くなる直前まで、次女・乙姫(三幡)を入内させるべく、朝廷や公家へ働きかけていました。
既に女御の称号は与えられており、入内は秒読み同然となったところで頼朝が亡くなったため、先延ばしになっていたのですが……当の乙姫が、頼家の将軍就任からまもない2月に病気になってしまいます。
入内が決まった女性でしたので、院宣によって名医と名高い丹波時長が鎌倉へ下ってきました。
この時長の接待を、義澄や時政が順繰りで行っています。
十三人の合議制は常に13名揃って会議をしていたわけではないため、おそらく時長が鎌倉にいる間は、訴訟などへの対応は他の人が主に行っていたのでしょう。
乙姫は一旦小康状態になったものの、この年の夏に再び容態が悪化。
時長も「これはもう医師の手には負えない」と匙を投げ、京へ帰ってしまいます。
そして程なくして乙姫は世を去り、源氏には他に年頃の娘がいなかったため、入内をきっかけに朝廷との関係を深めることができなくなってしまいました。
乙姫の乳母父だった中原親能(なかはらのちかよし)は出家し、亡骸は親能の屋敷近くに葬られました。
埋葬の際は義澄ら重臣たちが参列したそうです。『吾妻鏡』では「多くの人々が嘆き悲しんだ」とありますので、重臣たちの中にも涙をこぼした人がいたのかもしれません。
そして、なんとも不穏な空気の中で、御家人たちの間に暗雲が垂れ込めてきます。
正治元年12月の梶原景時排斥事件です。

馬込万福寺蔵の梶原景時像/Wikipediaより引用
梶原景時につきましては、以下の記事に詳細はがございますが、
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なぜ梶原景時は鎌倉御家人たちに嫌われたのか|頭脳派武士の無惨な最期
続きを見る
このとき66名もの御家人が景時に対する弾劾状に名を連ねており、その中に義澄も含まれていました。
景時と義澄の間に具体的なトラブルがあったかどうか?
目立つ記録はありません。頼朝の随行などを共に務めることは多々ありましたので、日常における言動の中で、義澄が景時にあまり良い印象を持っていなかった……というのはあり得るかと思います。
この弾劾状は少々時間を置いて頼家に提出され、景時は地元の相模一ノ宮へ。
ひとまず落ち着いた正治二年(1200年)1月、三浦義澄は生涯最後となる椀飯の役を務めています。
そして1月23日に亡くなりました。
梶原一族の件について報告が届いたのは、義澄が亡くなった日の夕方だったといいます。
景時はいかなる目的からか、一族を率いて上洛しようとしていました。その道中である駿河で、地元の武士に襲われ自害した……ということになっています。
三途の川で義澄と景時が鉢合わせていたら、そこでもひと悶着あったかもしれませんね。
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【参考】
笹間良彦『鎌倉合戦物語』(→amazon)
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)
ほか






