大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をご覧になられていたとき、こんな疑問を持ったことはありませんか。
義時が就任した“執権”って一体なんなんだ?
歴史の授業では“連署”ってのも習った気が……。
いずれも北条氏の支配体制の中で作られていった役職ですが、ドラマの中で丁寧に説明されたりはしませんよね。
鎌倉幕府には他にも“政所”や“侍所”などがあり、そんな言葉がチラッと登場するたび、頭の中でうっすら疑問に感じていた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
そこで本稿では、鎌倉幕府の役職や制度に注目し、手短にまとめてみました。
実は「幕府」という言葉も当時無かったものであり、では鎌倉政権のことを何と呼んでいたのか?
その辺りも一緒に振り返ってみましょう。
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征夷大将軍
ドラマでは、朝廷から任じられた源頼朝が、妻の政子と共に
「よっ、征夷大将軍!」
と喜んでいたこの官職。
本来は朝廷から見て夷狄である「蝦夷」討伐に任命された将軍を指し、東国に住む人々を抑えるという意味合いも持ちます。
名目上は、あくまで東を押さえつけ、西の朝廷に従わせることが目的ですね。
坂東武者の天下を目指す者からすると、この時点で矛盾した意味合いのある役職ともいえます。
幕府
当時は「幕府」という呼び方はなく、「鎌倉」が使われていました。
鎌倉殿=鎌倉幕府という概念を世間に浸透させたという意味でも『鎌倉殿の13人』は貴重な存在と言えるでしょう。
幕府とは本来「幕を張った場所」であり、将軍が指揮を取るためにいる場所という意味合いとなります。
それが将軍が政権を握ったから、現在のように拡大解釈されました。
英語ではShogunateと訳されます。ateは動詞として使われていて「将軍が統治する体制」という意味です。
英語でShogunは征夷大将軍で、なかなかロマンのある響き。
真田広之さんの手掛けたドラマ『SHOGUN』が、同名のタイトルである小説をもとに作られたのはよく知られた話ですね。
執権
執権については諸説ありますが、基本的には鎌倉幕府のナンバー2。
ただし、将軍がトップだったのは三代目の源実朝までであり、その後の実質的支配者は執権と見なされます。
政治を行う政所と、軍事力を司る侍所。
両者の権力を併せ持った存在であり、文官と武官を束ねる独裁的なトップと言えます。
『鎌倉殿の13人』では、父である初代執権・北条時政を追放した北条義時は、2代目就任に二の足を踏んでいましたね。
あれは何もドラマだけの設定でもなく、実際に義時は就任までブランクがありました。
執権はあくまで鎌倉幕府だけに存在しましたが、後世においては「権力者」という意味で使われることもあります。
一例を挙げますと、会津蘆名家の金上盛備(かながみもりはる)には「会津執権」という呼び名がありました。
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連署
将軍を支えるナンバーツーが執権ならば、その執権を支える役職が「連署」。
源実朝の死後は、執権が実質トップになったので、連署がナンバーツーということになりますね。
執権と共に並んで署名したため「連署」と呼ばれました。機能的には「副執権」と考えるとわかりやすいかもしれません。
北条泰時が3代目執権となった後、義時の弟・北条時房が連署になったのが始まりとされています。
独裁ではなく、話し合って政治を進める仕組みと言えるでしょう。
北条政村のように、執権と連署を交互に務めた例もあります。
尼御台・尼御所・尼将軍
北条政子のことです。
近年の研究では、実質的な4代目将軍は政子だと見なされていて「尼将軍」という表記が最も馴染みやすいかもしれません。
正式な職でこそありませんが、中世日本における女性権力を知る上で彼女は極めて重要な人物。
政治家としての政子は、かつては権力欲の強い悪女として解釈されましたが、現在は、当時の女性の地位を示すものとして評価されています。
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政所
前身は「公文所」。
内政を行う部署です。
初代政所別当をつとめた大江広元はじめ、文士がいてこそ成立しました。
京都からきた文士である二階堂行政の一族が、「政所執事」を世襲しています。
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侍所
政所が文士が司る部署ならば、こちらは御家人、すなわち武士を統制する部署です。
梶原景時、その死後は和田義盛が務め、義盛の死後に空白となると、北条義時が就任しました。
義時はすでに政所別当であったため、政治と軍事双方の頂点に立つのです。
これにより2代執権としての地位を確立し、以後の執権が司る役割を定めたといえます。
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