嘉禄元年(1225年)6月10日は大江広元の命日です。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では栗原英雄さんが演じて大活躍でしたので、覚えていらっしゃる方も多いでしょう。
源頼朝の側にいて軍師のように策を提言。
序盤は、荒々しい坂東武者と軍略の天才・源義経を中心に源平合戦が描かれましたが、派手な戦いが落ち着くと、劇中では大江広元の存在感が増していきました。
いかにも知性的なキャラクターで頼朝に献策をしていた――あの姿は一体どこまで史実だったのか?
劇中では「朝廷から鎌倉へ下向してきた」という説明でしたが、実際に何をしたのか?
本記事で大江広元の生涯を振り返ってみましょう。

大江広元/Wikipediaより引用
秀才・大江広元
鎌倉幕府の重鎮として知られる大江広元。
彼はもともと武士ではなく、公家の中でも学者肌の家に生まれました。
ただし、位は低く、生年も不明。
嘉禄元年に亡くなった際の年齢から逆算して推定されることがほとんどで、例えば『吾妻鏡』だと享年78で、久安四年(1148年)生まれ。
『尊卑分脈』ですと享年83になり、康治二年(1143年)の誕生となっています。
久安三年(1147年)生まれの頼朝とは同世代で、その実年齢など関係ない頭脳の持ち主でした。
広元は大学寮で明経道を学び、明経得業生(明経道の成績優秀者)にも認められた秀才だったのです。

画像はイメージです
仁安三年(1168年)12月13日、広元は縫殿允(ぬいどのじょう)という官職に任じられ、役人としてデビューしました。
縫殿允というのは、縫殿寮(ぬいどのりょう)という役所のナンバー3にあたる職。
宮中の衣装を誂える機関で、後宮の女官統率も担当していました。
広元はこの仕事にはあまり長く就いておらず、嘉応二年(1170年)12月5日には権少外記に配置換えされています。
こちらは太政官・事務部局の一つで外記局の役人でした。
直接の上司は清原頼業という人で、外記の最高責任者の職を世襲していた家の人です。
広元はその人の下で、承安二年から三年にかけては伊勢神宮に関する仕事をよく担当していたようです。
その縁で、神宮上卿(伊勢神官に関する諸問題を担当した公卿)を務めていた九条兼実との関わりが増えました。

九条兼実/wikipediaより引用
九条兼実は、摂関家の超エリートですから、広元から見れば本物の殿上人です。
兼実の日記『玉葉』の中に、広元の記述も度々見られます。
朝廷と幕府のつなぎ役
その後、少しずつ出世していった大江広元。
ときは平家が崩壊しつつあった頃であり、その滅亡前に広元は鎌倉へ下向していたと考えられていますが、詳細な時期は不明です。
広元が史料上で初めて「頼朝のために活動した」と記録されるのは、『吾妻鏡』ではなく九条兼実の『玉葉』でした。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
寿永三年(1184年)3月23日の記述でこうあります。
「頼朝が後白河上皇に宛てた奏状の中で、”兼実を摂政・藤原氏長者に推挙する”旨が含まれている、と広元が伝えてきた」
ちょっとややこしいですかね。
少し分解してみると、こうなります。
①頼朝から後白河へ書状が送られた。
②その中に「九条兼実を藤原氏のトップに推挙する」ということが書かれていた
③上記を九条兼実に伝えたのが大江広元だった
前述の通り、兼実は広元よりずっと位が上の頂点貴族でした。
それが今や頼朝からの言伝を持って来られる立場にある。いったいコイツは東国で何をどうしたんだろう……と思ったことでしょう。
あるいは、野蛮な武士集団の中に朝廷のしきたりを知る者がいて、兼実も助かったと感じたか。
いずれにせよ、朝廷との渡り役もしっかり調整しておいた「頼朝の政治力」が発揮された場面ですね。
この辺りが大失敗だった木曽義仲とはモノが違う感じがします。
『吾妻鏡』における大江広元の初登場は元暦元年(1184年)6月1日。
この日、鎌倉を離れる平頼盛への餞別の宴が開かれました。
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平頼盛はその名の通り平家の一員ですが、母・池禅尼が頼朝の助命を嘆願したことや兄・平清盛と不仲だったことなどから、微妙な立ち位置にいました。
そのため寿永二年8月に鎌倉へ身を寄せ、頼朝の客人として遇されていたのです。
しかしこの年、頼盛が正三位・権大納言の官位に復帰が決まりました。こうなると、都へ戻って政務に励まねばなりません。
そういった経緯で、宴が開かれたのです。
吾妻鏡では、この宴で広元が
「平時家とともに頼盛に引出物を与える役を務めた」
と書かれています。
平時家も平家一門に名を連ねる人です。
しかも彼は「平家にあらずんば人にあらず」という発言で知られる平時忠の次男。
普通なら真っ先に処罰されそうなイメージですが、このとき時家は、継母(時忠の二番目の正室)と折り合いが悪く、讒言されて上総に流されてしまっていました。
しかも時家は、蹴鞠や管弦、儀礼などに通じていたためか、あの上総広常に気に入られて娘婿に迎えられた、という経緯があります。

上総広常/wikipediaより引用
当時が単純に「源氏vs平氏(平家)でもないことがわかりますね。
公文所別当だが同時に
朝廷における豊富な知識と普段のインテリジェンスから。
源頼朝に信頼された大江広元は、鎌倉幕府の要職に就きます。
元暦元年(1184年)に設けられた公文所の別当(長官)です。
公文所とは、鎌倉幕府の公文書を扱う役所のこと。元々は公家が家政を取り仕切るために設けていた機関を指します。
うってつけの役どころ……というか、そもそもこのために頼朝が呼び出し、広元が呼応したものですね。
他にも、当初の鎌倉公文所には寄人(職員)として、
・中原親能(広元の兄)
・二階堂行政
・足立遠元
・中原秋家
・藤原邦通
などが所属していました。
二階堂行政と藤原邦通は文官タイプで、足立遠元と中原秋家は東国出身の武士です。
上方の人間だけを揃えてないあたりがミソですね。
同じく元暦元年9月、広元は朝廷から因幡守に任じられていました。
これはどうも頼朝が推挙したわけではなかったらしく、経緯がはっきりしないのですが……鎌倉に下った後も広元が官人であったということを示しています。
また、元暦二年(1185年)5月24日に源義経が書いたとされる「腰越状」の宛名が広元であることからも、彼の立場の重さが垣間見えます。

源義経/wikipediaより引用
腰越状の真偽については、近年疑問が持たれていて、その点についてはここでは触れません
広元に関係があるかもしれないポイントとしては、腰越状を実際に書いたとされる義経の右筆・中原信康です。
中原信康は、広元の実家にあたる中原家と同じ名字ですが、信康は中原氏嫡流、広元の家は貞親流という別の系統だとされています。
この信康は、広元がまだ京都にいた頃の安元元年(1176年)正月、都の左京を担当する役人になっているため、広元と面識があっても不自然ではなさそうです。
こういった縁もあったからこそ、腰越状の宛名が広元になったのかもしれませんね。
しかし文治元年(1185年)6月29日、広元は自ら因幡守を辞しています。
広元の任官は頼朝の意向に沿っていたと考えられますが、義経の騒動で任官問題がナーバスになっていた事を考慮して、自ら辞職したのでしょう。
以降、文書上では、広元を指して「因幡前司」と書かれることが多くなります。
守護・地頭
文治元年(1185年)は、守護・地頭が設置された年でもあります。
吾妻鏡では、広元が長々と演説をし、それを頼朝が容れた……というような書き方になっています。
ゆえに近年までの書物では、そこが強調され
「守護・地頭が設置されたのは、広元の献言による」
とする事もままありました。
しかし、原型にあたる役職が既にあったことなどから、広元が独自に考えだした制度とは言いがたい……というのが現実のようです。
この間に【壇ノ浦の戦い(1185年)】で平家は滅亡しています。
広元は公家出身かつ文官であるため、戦そのものとは無関係であり、それは義経と奥州藤原氏を追い込んだ【奥州合戦】でも同じ。

毛越寺に所蔵されている奥州藤原氏・三衡(上が藤原清衡、向かって右が藤原基衡、左の法体姿が藤原秀衡)/wikipediaより引用
むしろ、戦後処理が本領発揮の場面です。
奥州合戦の場合は特殊な事情もありました。
頼朝は後白河法皇に奥州討伐の院宣を求めながら、朝廷では意見が割れ、なかなか院宣が出ませんでした。
焦れた頼朝は院宣なしでの出兵を決断。
奥州藤原氏が滅んだ後に院宣が届きましたが、体裁上マズいわけで辻褄を合わせなければなりません。
そこで広元が既成事実を正当化するため京へ交渉に向かいます。
迎える後白河法皇としても、すでに義経や奥州藤原氏が討たれ、頼朝と対立する理由や地盤はありません。

後白河法皇/Wikipediaより引用
そこで、頼朝や奥州合戦で功のあった御家人たちに対して「恩賞を与える」という意向を示しました。
頼朝は、広元にこう言い含めておきました。
「院からの恩賞は辞退せよ。ただし、特に功があった者については配慮するように」
なぜ頼朝はこのような言い方をしたか?
というと、御家人たちはあくまで頼朝の配下であり、後白河法皇とは無関係だから。
御家人たちに与えられる恩賞は、頼朝からでなければ、第二第三の義経が生まれないとも限りません。
そういった理由で、広元は
・頼朝の意向を汲み
・後白河法皇への体面を取り繕い
・御家人たちが不満を積もらせないように後処理をする
という胃の痛くなる仕事をすることになったのです。
文治五年秋、広元が京へ出発する際、多くの御家人が見送りに来たそうですから、どれほど期待されていたか……ますますプレッシャーですよね。
そしてそれから3ヶ月ほど経った翌文治六年(1190年)春。
京から広元が帰還しましたが、残念ながら具体的にどのような交渉を行ったのかまでは記録されていません。
まぁ、大過なく適切に対応したのでしょう。
広元は、その後、頼朝が上洛する際も、兄・中原親能と共に関係各所へ贈り物の手配などを請け負っていて、さらには頼朝よりも前に京へ出発。
滞在一ヶ月ほどで頼朝が鎌倉へ戻ってからも、しばらく広元は留まりました。おそらくや朝廷と幕府の間で様々な交渉を行ったのでしょう。
しかし、その存在感の強さが新たな問題を生んでしまいます。
後白河法皇が、広元に様々な官位を与えようとしたのです。
むろん頼朝はいい顔をせず、「職を辞すように」と広元に命じ、すぐに明法博士を辞任します。
全ての職を一度に辞めなかったのは、後白河法皇らへの配慮でしょうか。
この後、後白河法皇が病に伏した際、広元は見舞いの使者を務め、その京都滞在中に左衛門大尉と検非違使を辞任しています。
これで頼朝は溜飲を下げ、事態の悪化は避けられました。
頼朝の死
建久3年(1192年)3月に後白河法皇が薨去すると、頼朝はかねてから望んでいた征夷大将軍に任官。
あらためて御家人統制と政治機関の整備に取り掛かり、広元も実務に携わりました。
このあたりから、広元は御家人と頼朝の間をつなぐ取次役としての役目を強めていきます。
それは自らの立場を明確にさせると同時に、御家人たちの不満を直接受けることになりました。
現代の中間管理職のようなイメージでしょうか。
建久六年(1195年)には、東大寺の落慶法要と大姫入内の交渉のため、頼朝が二度目の上洛。

頼朝の上洛を描いた歌川貞秀『建久元年源頼朝卿上京行粧之図』/国立国会図書館蔵
広元も、東大寺や天王寺などへ参詣する頼朝のお供をしたことが記録されています。
ただし、朝幕関係が良好だったのもこの頃までで、両者の間には、徐々に暗雲が垂れこめていきます。
当時、政治を取り仕切っていた九条兼実が、源通親と後白河上皇の愛妃だった高階栄子(丹後局)によって、関白を罷免されてしまったのです。
通親と頼朝は大姫入内に向けて協調していました。
しかし、通親が先例を無視して強引に進めるところが目立つようになり、両者の関係は次第に悪化。
さらに、後鳥羽天皇が通親の外孫でもある土御門天皇に譲位したため、頼朝はこれ以上通親が権力を強めることに懸念を抱きます。
そこで、頃合いを見計らって自ら上洛し、兼実の政治復帰に向けて動こうとしていたようですが……建久十年(1199年) 1月、他ならぬ頼朝が急死してしまいます。
突然の頼朝の死。
源氏の家督と将軍の座は嫡男の源頼家が継ぎ、問題ありません。

源頼家/wikipediaより引用
しかし、いかんせん突然のことであり、不穏な空気が漂いながらのスタートとなります。
広元は、引き続き重臣として仕え、同年4月には十三人の合議制が発足、源頼家の政治主導が禁じられました。
この中に北条氏によって滅ぼされた御家人も数名いるため、同氏による独裁への第一歩とする向きもありますね。
広元や中原親能など、公家出身者も数名含まれています。
吾妻鏡では、
「頼家が従来の慣習を無視したので、それを止めるために合議制が作られた」
ということになっていますが、真相ははっきりしていません。
この三ヶ月の間に何があったのでしょうね……。
梶原景時の変
いずれにせよこの合議制は、頼家から見れば、13人ものうるさ型に監視されているようなもの。
大きく反発し、近習の若者たち5人を指名して、彼ら以外には目通りを許さないという強硬な姿勢を見せました。
たしかに身分は上ながら、経験が浅く、自負も強い頼家。
戦場で、あるいは政治の場で頼朝の時代を生き抜いてきた御家人たち。
その中で、広元は両者の仲立ちのような立ち位置になっていきます。
建久十年の秋、梶原景時の変が起きました。

馬込万福寺蔵の梶原景時像/Wikipediaより引用
このとき、景時を弾劾する連判状が作られ、その人数はなんと66人にも及んだといいます。景時の評判、推して知るべし。
そして、この連判状は、まず広元に提出されました。
先述の通り、頼家は近習の若者以外からの取次は受けないと言い張るほど反発していましたが、広元は別だったのでしょう。
しかし、広元からすれば実に処理に困る案件です。
景時は私欲のために事実を捻じ曲げるようなことはしていませんでしたし、この時点では貴重な「文字の読み書きができる武士」でした。
文官である広元としては、几帳面に記録や報告をしてくれる景時に、悪い印象はなかったでしょう。
ですが、66人もの御家人から恨みを買っているようでは、ここで不問にしたとしても禍根が残ります。
景時をかばえば広元、そして頼家に矛先が向く可能性もあり、幕府の崩壊にも繋がりかねません。
広元はしばらく連判状を手元にとどめておいたものの、御家人たちにせっつかれ、渋々頼家に取り次ぎました。
結果、景時は鎌倉から退いた後、正治二年(1200年)正月、景時は一族を率いて上方へ出発。
その道中で討ち取られ、なんともスッキリしない幕引きとなったのでした。
この結末について、広元がどのように報告を受けたのか、何を思ったか、そういったことは全くわかりません。
吾妻鏡でも、追討のあらましを頼家の前で記録として読み上げた、としか書かれていないのです。うーん。
一幡と千幡を使っての政争
景時が討たれた後、鎌倉幕府には一時的な平和が訪れました。
広元は頼家の鶴岡八幡宮参詣に付き添ったり、蹴鞠の達人を招いて頼家に披露させたりしています。

頼家は大の蹴鞠好きでしたので「政務でのストレスを発散させよう」という広元の親心めいた配慮だったのかもしれません。
また、この時期から広元の長子・親広が記録に登場するようになります。
親広の生年は不明ですので、この頃何歳くらいだったのかはわかりません。
この後、建仁三年(1203年)に源実朝の元服の際、儀式で使う道具の準備を北条義時とともに務めていること、広元が1140年代生まれであることから考えると、親広は1170~1180年代生まれが妥当でしょうか。
頼家は寿永元年(1182年)、実朝は建久三年(1192年)生まれですので、整合性も取れるかと。
おそらく年齢の近い、そして信用していたであろう広元の息子が出てきたことに良い刺激を受けたのか、頼家は政治への意欲を見せ始めます。
五百町(約5平方キロメートル、埼玉県蕨市くらい)以上の広い領地を持つ御家人から領地を一部分削り、困窮している他の御家人たちに分け与えることを命じました。
慈悲ある決定にも見えますが、土地を削られる側からすれば面白くないのもまた事実。
引き換えに何か果実を与えれば良かったのですが、頼家はそこまで気を回せなかったようです。
この命令は問注所の執事(長官)・三善康信が強く諫言したことによって取りやめとなり、一応、無事に済みました。
しかし、頼家には「何かをやろうとすれば止められる!」という不満が重なり、だんだん政治への意欲も失ってしまいました。
御家人たちも頼家への忠心を失っていきます。
そんな状況で迎えた建仁三年(1203年)、3月に頼家が病を患い、広元の邸で療養することになりました。
この時点で頼家の息子・一幡はまだ数え6歳。
もしも頼家が急死すれば、政治的混乱が起こるのは火を見るよりも明らかです。
当時12歳の弟・千幡(後の実朝)のほうが適任だったでしょう。この時代であれば元服してもおかしくない頃合いです。
そこで北条政子を含めた鎌倉幕府の重鎮たちは、
「関東の地頭と将軍職を一幡に、関西の地頭を千幡に」
という、分割統治策を取ろうと考えました。権力を分割することで、円満に解決しようとしたのです。
しかし、ここで頼家の妻であり一幡の母・若狭局とその実家である比企氏が、
「全て一幡が相続するべきです!」
と主張します。
比企能員の変
頼朝の嫡男である頼家から、嫡孫である一幡へ。
これはこれで問題のない相続ですが、先述の通り一幡はまだほんの幼児です。
比企氏が実権を握りたいためだけの主張であることは、誰の目から見ても明らかでした。
しかし現将軍の母である政子と、その実家である北条氏が、そんな意向を呑むわけもなく対立が激化。
こうした中で、広元はどうしたか?
非常に重要な局面で広元がチョイスしたのは、北条氏寄りの立場ながら、ハッキリと背中を押すようなものではない……要は曖昧な回答でした。
後に【比企能員の変】と呼ばれるこの事件。
吾妻鏡では、
「比企氏方が北条氏を討つ計画を立てた。これが政子にバレたので、北条氏が先手を打って比企氏一族を討った。その中には一幡も含まれていた」
とされていますが、その直前に
「北条時政が広元に意見を求めた」
と書かれているのです。

北条時政/wikipediaより引用
それに対し、広元が出したという曖昧回答がこちらです。
「私は頼朝様の時代から政治をお助けしてまいりましたが、兵法については門外漢です。比企氏を討つとおっしゃるのなら、よくよくお考えください、としか申せません」
もっともな言い分なんですが、後述する【承久の乱】とはだいぶ異なる印象なのです。
この直後、広元は政子の邸に呼び出されており、そのとき護衛役の飯富宗長という武士にこう言ったとか。
「さっき意見を申し上げたばかりなのに、また呼び出されるとは不審だ。もし何かあれば、お前が私を殺すように」
※吾妻鏡の版によっては「北条氏を殺せ」となっている
先述の通り、頼家は広元の邸で療養していたため、政子としては
「頼家が比企氏方であり、陰謀に関与しているのならば、広元が何か知っているはず。直接話を聞かなければならない」
という考えがあったのでしょう。
ただし、この呼び出しの際、どのようなやり取りがなされたのか?というのは不明です。
結果として比企氏と一幡は滅ぼされ、広元は生き残りました。
おそらくは広元に対する疑いは晴れ、頼家の処分はひとまず先送りになったものと思われます。
和田合戦と実朝暗殺
一幡と千幡の後継争いから、比企一族と北条氏の政争へ。
これに勝利した北条方により、将軍の座は千幡改め睹実朝のものとなり、三代将軍に就任となりました。
大江広元は、この元服を済ませたばかりの少年将軍を、引き続き補佐していきます。
この時期からは、北条時政との関係も重要になっていきました。
時政が政所別当に就任したからです。
頼家時代と異なるのは、実朝自身に政治への意欲があったこと、そして父の行いや先例を重んじる姿勢があったことです。
広元は実朝を守り立てつつ、北条氏と協調し、他の御家人たちとも円滑に政務をこなしていく――そんな胃の痛くなりそうな立場に再びなりました。
元久元年(1204年) には修善寺で頼家が暗殺され、翌元久二年(1205年) 畠山重忠の乱 ・牧氏事件、そして建暦三年(1213年) 和田合戦と……鎌倉幕府の中で目まぐるしく事件が続くのです。
多くの有力御家人が滅亡していく中、なぜ広元は生き残ることができたか。
和田合戦の際には、実朝からの信頼も勝ち得ていたことがわかる逸話が残っています。

和田義盛/Wikipediaより引用
この事件は有力御家人の一人・和田義盛と北条氏の対立が極まり、義盛が北条義時を討とうとして逆に討たれた……というものですが、実朝は全くと言っていいほど事の流れを知りませんでした。
そのため騒動が起きてから驚き、広元と共に頼朝の墓がある法華堂へ避難しています。
さらに実朝は、広元に事の沈静化を願う願文を書かせ、自分でも和歌を二首添えて、鶴岡八幡宮に奉納しました。
広元が緊急時でも頼りにされていたこと、実朝が文化人であると同時に信心深い人であったことなどが伝わってくる逸話ですね。
一方で、実朝に関しての懸念もありました。
実朝は何を思ったか、次第に焦るような言動を見せ始めるのです。
具体的には、宋から来たという僧侶・陳和卿の発言を信じて海を渡ろうとし、大船を作らせたり、若さや実績に見合わないほどの官位昇進を願ったり。
特に、昇進熱は異常とも呼べるほどで、将軍職に就いてから、ほぼ毎年・1年おきに位階が上がったり、上の官職を受けたりしていました。
最終的には父である頼朝までもを上回るようになっていたのです。
まだ若く実績のない実朝にはどう見ても不釣り合いであり、当時の価値観では不吉なこととされていました。
これに対し、広元も義時も実朝の身を案じて、建保四年(1216年)9月に諫言していたのですが……。

源実朝/Wikipediaより引用
当の実朝はこんな悲壮なことを言っていたとされます。
「私はきっと長生きできないだろう。源氏の血も絶えてしまうに違いない。だからせめて官位を上げて、家名を高めておきたいのだ」
広元は絶句してしまい、何も言えなかったとか。
先述の通り、この諫言後も実朝の昇進は続いていますので、彼の願いは叶ったのですが……。
なぜ実朝が逸っていたのか、その理由は定かではありません。
近年では「実朝には子供がいなかったため、将来的に皇族から養子を迎える計画があった。皇族の義父にふさわしい官位を得ておくというねらいだった」という見方も存在します。
また「実朝は『北条氏が源氏を絶やして名実ともに政権の主になりたがっている』と考えていたのではないか」とも。
建保七年(1219年)1月27日の鶴岡八幡宮参詣の際に実朝が暗殺されたため、後者の説を支持する方も多いようです。

実朝を暗殺した公暁(月岡芳年『美談武者八景_鶴岡の幕雪/wikipediaより引用
当日実朝に随行する予定だった北条義時が、直前になって体調不良を理由に欠席しているので、根拠のない話ではありません。
事件のあらましとは関係ないものの、広元は実朝が八幡宮へ向かう直前、何か不穏なものを感じていたようです。
吾妻鏡によれば、
「長じてから涙を流したことがないこの私が、なぜか涙が止まらない。不吉なことが起こるに違いない」
と言っていたとか。
そして念のために鎧をつけて行くよう進言したのですが、それは政所別当の源仲章に止められてしまい、悲劇を防げませんでした。
仲章は義時の代わりに急遽付き添い役を務めることになり、実朝と共に斬られてしまったので、なんとも皮肉な話です。
承久の乱
かくして源氏将軍を失った鎌倉幕府。
当然ながら、政治機関としての機能は続きます。
老体になってきた大江広元も、まだまだ引退はできません。
実は、源実朝の将軍時代、鎌倉幕府と朝廷の関係は良好になりつつありました。
実朝が元服する際に名を定めたのは、ときの治天の君(天皇・上皇・法皇の中で実際に政治を主導している人)だった後鳥羽上皇です。
これはまだ幼かった実朝の後見のような立場になることによって、鎌倉幕府が朝廷の下に置かれているのだということを広く知らしめる目的だったと思われます。
しかし、その実朝が暗殺された上、北条氏などが
「新たな将軍として、後鳥羽上皇の皇子をお迎えしたいのですが」
と主張したことによって、後鳥羽上皇は鎌倉幕府への心証を悪化させていきます。

後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)/wikipediaより引用
新将軍には、摂関家の一つである九条家から男子を出すことでまとまりましたが、その後は不気味な沈黙が広がりました。
後鳥羽上皇の腹は既に決まっており、粛々と軍備を進めていたのです。
そしてついに発令します。
「逆賊・北条義時を討て!」
【承久の乱】の始まりです。
鎌倉幕府討滅ではなく、義時追討というのがミソですね。

北条義時イメージ(絵・小久ヒロ)
これまで内部対立こそあったものの、朝敵扱いされた御家人たちの動揺は激しいものでした。
北条政子が一喝&演説したことで、御家人たちが団結と冷静さを取り戻した……という話は有名です。
※実際に大声を出したのは別の御家人
当初は箱根・足柄のあたりで上皇軍を迎え撃つという方針でしたが、ここで広元は主張。
「こうして話し合いで日を送っている間にも、どんどん情勢が動いて不利になる。運を天に任せ、とにかく出陣するべきだ」
文官かつ老人であり、兵力もほぼ持たない。
広元が言うと反感を買いそうなものですが……政子が賛成したためか、その点に関しては問題がなかったようです。
その後、準備に数日を費やす間、御家人たちは再び迎撃案に傾きかけました。
広元は再度主張します。
「言った通り、日を置いたせいで意見が割れたではないか。今夜、泰時殿一人ででも出陣すれば、御家人たちは皆ついてくる」
泰時は義時の嫡子であり、後に二代執権となる人物です。
次世代のトップが先頭に立つことによって、御家人たちの士気を上げようという主張だったのでしょう。
結果、幕府軍が勝利を収めて事は収まります。
ちなみにこのとき、広元の嫡男・親広は後鳥羽上皇方についたため、父子で敵対することになっています。
当然、戦後は親広も処分されていますが、父の所領の一つである出羽寒河江へ隠遁しているため、実質的には助命されました。
伊賀氏の変
朝廷軍と対立したことは、幕府に少々暗いものを残したようです。
承久の乱後、北条義時邸に落雷があり、下男の一人が命を落とす……という事故がありました。
義時はこれを「朝廷を打ち負かした報いではないか」と恐れ、大江広元に相談。
広元は冷静に答えます。
「奥州合戦の際も、幕府軍の陣に雷が落ちたと聞いています。ですから凶兆ではなく、むしろ吉兆でしょう」
広元が実務に加え、精神的な面でも鎌倉幕府の柱になっていたことがわかりますね。
その後、元仁元年(1224年)に義時が急死すると、その正室である伊賀氏と兄・伊賀光宗がこんな陰謀を企てました。
「次の将軍には一条実雅様に就いていただこう。執権には北条政村殿が適任だ」
一条実雅は当時の将軍・九条頼経の母の弟にあたる人物で、頼経が鎌倉に来る際随行し、そのまま補佐を務めていました。
北条政村は泰時の弟で、義時の生前から次期執権の座を狙っており、義時や政子と対立。
伊賀氏にとって都合の良い人物に目をつけたという感じですね。
政子は北条氏の内部分裂を危惧し、広元に諮問します。

絵・小久ヒロ
「時房に泰時の後見役になってもらって、北条氏の分裂を防ぎたいと思うのです。広元殿はどう思われますか」
北条時房は政子や義時の異母弟です。
奥州合戦の頃から活躍しており、また頼経の将軍就任に関する交渉も行っていて、経験豊富な人でした。
広元は政子の意見に対し、「それが良いでしょう。むしろ決定が遅すぎるくらいです」と答え、全面支持。
政子の采配で伊賀の方などが流罪となりました。
こうして鎌倉幕府の実質的トップである執権と、それを補佐する連署という構図ができていきます。
★
伊賀氏の変でさすがに騒動も落ち着いた……とホッとしたのか。
嘉禄元年(1225年)6月10日、広元は年来患っていた”痢病”によって世を去ります。
広元の死を知った多くの在京御家人が鎌倉へ下ったとも記録されており、存在の大きさがうかがえますね。
それから間もない同年7月11日、北条政子も亡くなり、鎌倉幕府初期からの重鎮は全員世を去りました。
以降は北条泰時と北条時房を中心にした、御家人の集合体である【評定衆】によって政治が主導されていきます。
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【参考】
上杉和彦『大江広元(人物叢書)』(→amazon)





