承久3年(1221年)8月9日は三善康信の命日です。
古くから源頼朝に仕え、最終的には【承久の乱】まで見届けた、鎌倉幕府の生き字引のような人物。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では小林隆さんが演じられましたが、正直、畠山重忠のように華のある武将ではなく、本職は文官という地味そのもののタイプですね。
しかし、承久の乱に際しては、北条義時と泰時の背中を押すような役目も担っていました。
そんな三善康信は史実でどんな人物だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。

三善康信の出自は明法家
三善康信は保延六年(1140年)、太政官書記を務める明法家の家に生まれました。
明法家とは「明法道=律令法」を修めた人のこと。
いかにも堅苦しく、とっつきにくい感じがしますかね?
太政官は、司法や行政、立法といった統治の実務機関であり、現代風に言うなら、康信の家は「代々官僚を務めるマジメな一族」でしょうか。
しばらく太政官に務めた後、応保二年(1162年)に正六位上・中宮少属となりました。
この頃の中宮は藤原育子、天皇は二条天皇で、注目は“応保二年”という年。
平治元年(1160年)末に【平治の乱】が起き、平家が急速に政治力を付け始めた時期でした。

平治の乱を描いた『平治物語絵巻』/wikipediaより引用
となると、官僚だった康信にも平家の影響が……と思うところですが、実はそうでもありません。
康信の母の姉が源頼朝の乳母であり、伊豆へ流された後も支援を続け、月に三度も頼朝へ連絡していたといいます。手紙一つ届けるにも日数のかかる時代のことですから、かなりの頻度でしょう。
平清盛は、そんな彼らを見て見ぬ振りをしていたのか、お咎めを受けることもなかったようです。
承安二年(1172年)、清盛の娘・平徳子が中宮になりました。
その翌年、康信の主人である育子が崩御したため、康信は散位(位階は持っているが官職についていない状態)となってしまっています。
決して豊かとはいえない状況で、康信は頼朝への音信は欠かしませんでした。
そして治承四年(1180年)5月、時代が動きます。
以仁王が平家打倒を掲げて挙兵したのです。
清和源氏の源頼政が協力していたこともあり、他の源氏の者たちにも追討令が下されると、

以仁王(左)と源頼政/wikipediaより引用
康信は頼朝に知らせ、一刻も早く東北へ逃げるように勧めました。
わざわざ自分の弟である三善康清に仮病を使って仕事を休ませ、伊豆への使者として遣わしたとか。
もしかすると、京都が再び戦乱に巻き込まれることを危惧して、弟に血筋を残させようとしていたのかもしれません。
いずれにせよ康信は、頼朝に挙兵を進めたわけじゃない。
にもかかわらず頼朝は逃げるどころか、逆に自ら平家打倒の兵を挙げて【石橋山の戦い】へ。
大事な緒戦で大敗してしまいますが、結果的に関東武士たちの協力を得られることとなり、房総半島をまとめ上げて再起しました。
康信はこの間、京都にとどまっていました。
養和元年(1181年)頃に出家して”中宮大夫属入道善信”と名を改めています。
そのため『吾妻鏡』をはじめとした記録類では”善信”と記載されていることが多いのですが、この記事では”康信”で統一させていただきます。
朝廷や寺社との交渉あるいは文書作成など
上総広常や千葉常胤など。
有力武士たちの助力を得た頼朝は鎌倉へと進み、その後、【富士川の戦い】で平家に快勝すると、いったん関東の地固めにかかっていました。
その間に平清盛が病死します。

高熱にうなされる平清盛/wikipediaより引用
一応、父の仇討ちを果たしたことになる頼朝が、講和を申し出こともありましたが、平家方が断固拒否。
今際の際に清盛が「頼朝の首を我が墓前に供えよ」と言い残していたといい、依然として京都には不穏な空気が漂っていました。
治承五年(1181年)閏2月、三善康信から頼朝への手紙の中で
「世情が落ち着いてきたら、鎌倉へ参りたいと思います」
と記されています。
康信は、頼朝への連絡を続けながら、慎重に好機を待っていて、同年、治承五年3月の手紙では、
「甲斐源氏の武田信義に、頼朝様への追討が命じられるようです」
と知らせています。
これを受けた頼朝は、信義の真意を問いただすべく鎌倉へ召喚し、直接会ったことで当面の危険はないと判断したのか、この件はすぐに収まりました。

韮崎市役所前の武田信義像/photo by タイスキ大好き
頼朝にとって康信の情報は非常に貴重で、かなり信頼していたようです。
京都の情報提供者から、鎌倉での政務担当へ。
頼朝政権で重要なポジションを担う三善康信は、いつ鎌倉へ渡ったのか?
吾妻鏡では、元暦元年(1184年)4月となっています。
しかし、それより前の養和二年(1182年)2月、頼朝が伊勢神宮へ奉納する願文については、康信が草案を作っています。
もともと10日に一度は連絡をしていた間柄ですから、草案を依頼すること自体は難しくありません。
しかし、余計な手間を考慮しても康信に作らせたというのは、信頼の現れでしょう。
康信の鎌倉到着は、元暦元年(1184年)4月14日とされています。
翌15日、頼朝が鶴岡八幡宮に詣でた後、回廊で康信と対面し、
「この鎌倉に住んで、武家の政治や事務を手伝ってもらいたい」
と依頼され、鎌倉に移り住むことを決めたのだそうです。
これまでの経緯を考えれば、どのような仕事を任されたとしても、康信は鎌倉にとどまったでしょう。
こうして康信は、大江広元らと共に頼朝の政務を補佐するようになります。

大江広元/Wikipediaより引用
主に西国や朝廷、寺社に関する交渉・外交に関する場での協議だったり。
文書を作る際の草案・清書をした人物の一人だったり。
いかにも文官という働きをしており、さらには公家出身らしく、縁起を重んじるエピソードや、多芸ぶりがわかる逸話も残されています。
三善康信の人となりがわかるエピソードを2つほど見てみましょう。
流行り歌や催馬楽を歌ったことも
文治二年(1186年)11月5日のこと。
頼朝が義経と決裂し、追手をかけていた頃です。

源頼朝と源義経/wikipediaより引用
当時、義経に味方した者や、静御前などは捕えたものの、本人は一向に捕まっていませんでした。
頼朝はいらだち始めていたらしく、関東申次(幕府と朝廷の連絡役)を務めていた公家の吉田経房にこんな手紙を送っています。
「公卿や役人たちが鎌倉武士を嫌って、義経に協力しているのではないか? 藤原範季と仁和寺宮守覚法親王にその疑いがある」
藤原範季は藤原南家の人で、後白河法皇の側近の一人。
娘の重子が順徳天皇を産んでいるため、皇室の外戚でもあります。
源氏との接点としては、頼朝の弟・源範頼を養育していた時期があり、以仁王の協力者だった源頼政と従兄弟だったことが挙げられます。
この時期は後白河法皇の命で義経を匿っていたので、頼朝の疑念はもっともでした。

後白河法皇/Wikipediaより引用
一方、守覚法親王は後白河法皇の皇子で、嘉応元年(1169年)に仁和寺の門跡となっていた人です。
確たる記録がないので、義経との接点は大々的なものではなかったと思われますが、著書の一つ『左記』で義経を高く評価していました。
日頃の言動に義経びいきなところがあったのでしょうか。
康信は、これらの人々を義経派であると疑う頼朝に対し、次のように諭しています。
「義行という名は、読み替えると『良く行く』になります。だから上手く隠れて捕まらないのでしょう」
突然出てきた“義行”というのが、わかりにくいと思うのですが……。
当時の義経が記録上は”義行”や”義顕”と改名させられたことによります。
ややこしいわ~!
と思ったのは当時の人もそうだったようで、九条兼実が”義経”に戻すよう命じたと言います。
もう一つのエピソードは文治二年(1186年)12月1日、吾妻鏡の記述です。
この日、千葉常胤が下総から鎌倉へやって来たので、宴会が開かれることになりました。

『本朝百将伝』千葉常胤/国立国会図書館蔵
酒が回ってから常胤が舞を披露し、康信が流行り歌や催馬楽を歌ったのだとか。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』ではいかにも地味そうなおじさんキャラだけに、意外な芸達者っぷりですよね。
また、当人はかなり記憶力も良かったようで、こんな話も残されています。
文治五年(1189年)3月5日に「平時忠が亡くなった」という知らせが鎌倉に届いたときのこと。
「平家にあらずんば人にあらず」という発言で有名な人ですので、現代ではあまり良いイメージがないかもしれません。
しかし、政治家としてはなかなかの人。
例えば時忠は、壇ノ浦で捕虜となった後、義経に接近して庇護を得るため娘を差し出したり、それを頼朝に見咎められると大人しく配流先の能登に行ったり、”これ以上意地を張るとまずいライン”を見極めて動いていたような印象があります。
頼朝もその知恵者ぶりには一目置いていたらしく「朝廷にとっては惜しむべき人だ」と言っていたそうです。
人が亡くなれば、享年に関する話題もつきもの。
しかし鎌倉の人々は時忠の年齢を知らなかったらしく、康信に尋ねたのだそうです。
康信によれば「62歳のはずです」とのこと。
時忠の生年は現代でも不明のため、享年には60説もありますが、大きく外れてはいませんね。
和みジョークで頼朝の機嫌を直す
この後、奥州合戦や、頼朝の初上洛など、鎌倉幕府初期の重要な出来事が続きます。
三善康信はいずれも裏方のような立場でしたので、彼の働きがあまり話題に登ることはありません。
しかしその仕事ぶりは広く認められており、建久二年(1191年)1月に「政所・侍所・問注所」が正式に設置された際、康信は問注所の執事(長官)に任じられました。
名実ともにエラくなった康信ですが、人柄はあまり変わらなかったようです。
建久二年(1191年)6月9日の『吾妻鏡』に、こんな記述があります。
一条能保の姫が九条良経に嫁ぐことになり、その衣装について鎌倉幕府が世話をすることになりました。
能保の正室である坊門姫が、頼朝の同母姉妹だったことによると思われます。
公家のお姫様が嫁ぐのですから、当然、地味な輿入れというわけにはいきません。女官や侍たちも大勢出席します。
そこで女官の衣装は中原親能・大江広元が京都で調達するようにと命じられ、侍たちの分については関東で手配し、仕立てることになりました。
すると、絹の手配が遅れ、頼朝の機嫌が斜めになってしまいます。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
世間体もあり、頼朝にとっては姪の慶事という私的にも喜ばしいことですから、幸先が悪くなれば気分を損ねるのも無理のないこと。
責任者が呼び出されたときには、皆が恐れおののいていた……と記録されていますので、はた目から見てわかるほど機嫌が悪かったのでしょう。
そこで康信がこんなフォローを入れます。
「先に届いた絹は早馬でした。次の絹はきっと”練り歩いている”から遅れているのでしょう」
絹の製造工程で、汚れや細かい不純物を取り、光沢を出す作業を”練る”といいます。絹独特の光沢が生まれる作業でもあります。
これと”練り歩く”をかけたジョークだったわけですが、これが頼朝のツボに入ったらしく、なんとか機嫌を直せたとか。
それを見た人々は、再び雲行きが怪しくなる前に急いで絹を届け、この件は落ち着いたのだそうです。
康信のこうした知的さと茶目っ気の共存するところは、おそらく御家人たちにとっても好ましかったことでしょう。
ただし、この頃になると康信も既に50代に入り、激務はなかなか堪える頃合い。
建久五年(1194年)10月1日に頼朝は、三善康信の末子・三善行倫に、裁判の記録係をするよう命じています。
これも元は康信の仕事だったのですが、他の要件が重なることも多いので、息子を推薦したのだとか。
康信が、晩年まで大きな病気をしたという記録がないのは、こうして早くから業務負担を減らしていたからなのかもしれません。
では頼朝の死後、三善康信はどうなったか?
頼朝の時代は康信邸で裁判
建久十年(1199年)1月に頼朝が逝去すると、4月1日に、問注所(裁判所)が幕府の外に設置されました。
実は頼朝の時代、訴訟は「康信の家」で行われていました。
人ん家で裁判するなよ!
とツッコミたくなりますが、ではなぜそんなことになったのか?というとキッカケがあります。
熊谷直実と久下直光という二人の御家人です。
親族でもあり、土地や生い立ちを巡って諸々の事情があるこの二人。
建久三年(1192年)に直実と直光が対決した際、直実が劣勢となりました。
直実は平家物語の「敦盛の最期」で有名な人ですね。

熊谷直実/wikipediaより引用
もともと口下手なタイプだったらしく、上手く反論できずに怒りを爆発させた結果、御所の西にあった侍所で突如髷を切り、蓄電してしまったのです。
以来、訴訟の際は、問注所の執事だった康信邸が使われることに。
しかし、いつまでも個人の家を使うわけにはいきませんので、問注所の建物が新たに建てられ、改めて康信が執事に任じられた……というわけです。
同年4月12日には十三人の合議制も設置され、康信もその一員に選ばれました。
とはいえ仕事はあまり変わっていません。
頼朝の存命中と同様、問注所の仕事や朝廷との連絡・応接、寺社関係などの役割が主要な業務だったようです。
十三人の合議制は、常に13人揃って会議をしていたわけではありませんし、康信はこれまでにも他の御家人たちとの協議の場に出ていましたので、大差がなかったのでしょう。
同年秋から冬にかけては、梶原景時の追放事件が起きています。

『本朝百将伝』梶原景時/国立国会図書館蔵
翌正治二年(1200年)1月に景時が一族を率いて上洛した際、康信は
「景時は謀反を起こすために京都へ行ったのだと噂されている」
と報告を受け、北条時政や大江広元らと共に協議を行いました。
結果、三浦義村・比企能員などによる追討軍が出されました……が、梶原一門は駿河で既に討死・自害しています。
この事件は少々後を引きました。
およそ一ヶ月後の正治二年2月22日、康信は大江広元と共に幕府へ、以下のように重要な報告をしているのです。
「先日の梶原景時の件、京都に知らされていました。
上皇の御所では五大明王に護摩を焚いて祈祷を始めたそうです。
景時のことを誰かが上皇のお耳に入れたのでしょう。
あるいは、景時はあらかじめ上皇に連絡をとっていたのかもしれません。
何をお祈りされたのかはわかりませんが、いずれにせよ景時と何らかの関係があるでしょう」
この一件で思わぬトバッチリを食らったのが芝原長保。
景時との関与を疑われ、問い詰められます。
「景時は播磨の守護なので、私が幕府へお仕えするにあたって推薦を頼んだことはあります。しかし、私はこの度の件に関与しておりません」
長保は必死の思いで弁解。
しかし疑いは消えなかったようで、長保は小山朝政に預けられることになります。
【梶原景時の変】は、頼家に代替わりして初の大きな事件だったため、事後処理には念を入れていたようです。
頼家の暴挙をなだめ
父親の源頼朝からは絶大な信頼を得ていた三善康信。
息子で二代将軍である源頼家との関係は、可もなく不可もなくといったところでしょうか。

源頼家/wikipediaより引用
康信と頼家が直接関わったポイントを少し見ておきたいと思います。
ひとつは、正治2年(1200年)12月28日のこと。
頼家が、御家人たちにとってはトンデモな考えを提案してきました。
「平家との戦い以降に所領が500町を超えた者は、500町を超えた分を取り上げ、所領が少ない者に分け与えよう!」
一見、慈悲ある処置に思えますが、取り上げられるほうにも家があり、家臣がいて、とんでもない暴挙でしかありません。
ですので、これを聞いた広元や康信たちは必死に諌めました。
それによってひとまず延期となりましたが、頼家は諦めず「来春には施行する」と言い張っていたそうですので、康信もハラハラしていたことでしょう。
なんせ御家人たちにとって所領は命も同様です。
それを思いつき一つで右から左へ動かされては一気に政権を傾けかねない暴挙となります。
もうひとつは、康信というより彼の弟・三善康清と源頼家の関係です。
建仁2年(1202年)1月12日、康清が自宅の蹴鞠場に初めて”懸りの木”を植えたと聞き、頼家が興味を持って出かけたことがありました。
懸りの木というのは、蹴鞠場の四隅に植える
【梅・松・柳・楓】
のことです。
以降、頼家はたびたび康清邸へ出かけ、蹴鞠を楽しむようになります。
彼らの間でどのような会話があったのか、詳細は記録されていませんが……おそらくは康清と頼家の関係は良好な部類だったのでしょう。
なにせ、この年10月には秋雨が降ったり止んだりする中、康清邸へ出かけているくらいです。
これらのことからすると、頼家は三善兄弟や大江広元といった公家出身者とはあまり隔たりがなかったと考えて良いのではないでしょうか。
もちろん、頼家の母である北条政子からの信頼も得ていました。

北条政子イメージ(絵・小久ヒロ)
少々リアリティは……という類の話ですが、吾妻鏡に出ているので取り上げます。
ある日、政子は、会ったことのない舅・源義朝の夢を見ました。
沼間というところに義朝がかつて住んでいた屋敷があったのですが、彼は死後もそこに霊としてとどまっていたというのです。
政子の夢枕に立った義朝は、

源義朝/国立国会図書館蔵
こんなことを言ってきたとか。
「私はずっとここにいるのに、近くの海で漁師が殺生をするので浮かばれない。どうかこの屋敷を寺の中に移築してほしい」
いや、そのお願いは頼朝が生きているうちにお願いすればよかったのに……。
そうツッコミたくなりますが、頼朝はこの屋敷を父の唯一の名残として「しばらく取り壊してはならない」と周囲に命じていたため、トーチャンも空気を読んだのかもしれません。
いずれにせよ夢や占いなどが重要視された時代のことです。
政子は目が覚めてすぐに康信へこれを知らせ、栄西の寺に沼間の屋敷を移築させることにしました。
康信が寺社に関する手続きを多く担当していたからだと思われます。
この移築は建仁二年(1202年)2月29日に行われ、これまた公家出身の二階堂行光が指揮を取りました。
珍しくほのぼの百舌鳥狩り
源頼家が追放&暗殺され、源実朝が三代将軍となる――。
このとき康信が大きく関与したという記録はありません。
頼家の暗殺についても同様です。
次に将軍となった実朝は早いうちから先例に倣い、立派な将軍になるための努力を重ねていましたので、康信や大江広元などにとっては、前向きな気持ちになれたかもしれません。

源実朝/Wikipediaより引用
その中で、ちょっとほのぼのする話題があります。
元久三年(1206年)3月13日のこと。実朝が北条義時との雑談の中で、こんなことを言いました。
「桜井五郎という者が、モズに他の鳥を獲らせると聞いた。ぜひとも見てみたいのだが、ただの噂だろうか」
”少年将軍が叔父にわがままを言った”と見ると、ちょっとかわいいですね。
これに対し、義時は答えます。
「源斉頼が昔、同じことをやっていたそうです。その技が子孫まで伝わっていたら奇特な話ですが、もしただの噂だったら桜井殿の恥になりますから、こっそり聞いてみましょう」
と、そこへ当の本人がやってきた。しかも、左腕にモズを乗せているではないか。
すかさず義時が声をかけます。

北条義時イメージ(絵・小久ヒロ)
「実朝様がお前のモズ狩りをご覧になりたいそうだ。すぐお見せせよ」
これが幕府の中でちょっとした騒ぎになったらしく、康信や大江広元などもやって来ました。
五郎は見事モズを使ってスズメを三羽捕えさせ、皆を驚嘆させたとか。実朝も喜び、褒美に刀を与えたといいます。
実に平和な光景ですね。
彼によると「小鳥を捕るのは容易いことです。雉も捕れますよ」とのことですが、モズ狩りが鷹狩りのように定番化しなかったところを見ると、やはり個人の才覚による面が大きいのでしょう。
政治的には全く重要ではありませんが、鎌倉幕府では珍しいほのぼのエピソードなので紹介させていただきました。
康信は、自宅の裏に文庫を建て、書類を保管していたと言います。
問注所執事という役職柄、記録や文書類、裁判記録や公家の日記なども大量に保持していたのです。
しかし承元二年(1208年)1月16日の火事で、家も記録も全て焼けてしまい、康信は涙をこぼして嘆いたとか。
あまりの落ち込みように、皆お見舞いを言うほどだったといいます。
吾妻鏡を見る限り、毎年、年頭は鎌倉で火事が頻発していますが、このように感情的な記載があるのは珍しいことです。
吾妻鏡の編纂には三善氏も一枚噛んでいるという説がありますので、そのためでしょうか。
源実朝との関係は?
三代将軍・源実朝が、公家文化を好み、皇室を重んじるような姿勢だったせいか。
代替わりしてからの鎌倉は、三善康信だけでなく、幕府全体に上方へ気を遣っていた印象があります。
承元四年(1210年)7月20日、上総の役人がこんなことを訴えてきました。
「藤原秀康という人が朝廷から上総の国司に任じられてきたのですが、何かと先例を無視して好き勝手に振る舞うので、皆困っています。諍いの末に農民を斬り殺したこともあります」
協議にあたったのは三善康信と北条義時、そして大江広元。
当然、藤原秀康を問い詰めるのだろう……と思いきや。
「秀康は後鳥羽院の北面の武士出身だし、朝廷と事を構えるのは得策ではない。幕府ではなく、院へ訴えよと伝えよう」
東国だからといって、完全に武士の支配下ではなかったことがよくわかりますね。
上総は親王任国でもあるため、他の土地より朝廷に対する刺激が強いと判断されたのかもしれません。
では源実朝と三善康信の個人的関係は?
というと良くも悪くも”普通”といった印象です。
建暦元年(1211年)12月10日、実朝が日本や中国の武将のうち、大きな功績のある人について調べさせ、康信や広元に読み上げさせたことがありました。
疑問があればその場で何度も聞いていたそうですから、教える側としてもやりがいがあったことでしょう。
こういった仕事はやはり、公家出身者の出番ですね。
一方で、康信たちは知識がある故に、前例や縁起を重んじすぎるところもあったようです。
建暦二年(1212年)2月28日、「相模川の橋のうちいくつかが破損している」という報告が入り、三浦義村が修理を提案したことがありました。
康信は義時・広元らとともにこれを協議。

大江広元/Wikipediaより引用
「この橋は建久九年(1198年)に稲毛重成が亡き妻の供養として造ったものだが、その落成記念に訪れた頼朝様が帰路で落馬してしまわれて、その後亡くなられた。
稲毛重成もその後、畠山重忠の件で三浦氏に殺されてしまった。どうにも縁起が良くないので、作り直さなくても良いのではないか」
そんな結論を出しました。
しかしこれを実朝に上申すると、
「父上の死は位を極めた後の寿命によるものであり、重成はいとこの重忠を裏切ったから殺されたのだ。
橋とは何の関係もなく、不吉ということにはならない。
あの橋があれば、二所詣でに来る者や周辺に住む者の多くが助かるだろう。
完全に壊れてしまう前に、早く修理せよ」
と言われ、一転して修理することになりました。
この合理的な考えは、康信にとっても斬新だったのではないでしょうか。
一方で実朝が信心深いタイプだったことも、康信にとっては好感が持てたのではないかと考えられます。
承久の乱
頼朝の死が突然過ぎたせいか。
源頼家と合議制のメンバー13人たちは、良好な関係を築いたとは言えません。
これが源実朝の時代になると、将軍を中心に団結しようという空気が感じられます。
建保三年(1215年)12月16日のことです。
星の運行に何らかの異常がみられたらしく、天文学者から「凶事の前触れなので、実朝様はお慎みください」という報告がありました。
これに対し康信は、北条義時や大江広元、二階堂行光らと共に
「実朝様が良い政治を行って、長生きできるようにお支えしていこう」
と言い合っていたそうです。
実朝が暗殺されるのは、これからおよそ3年後のこと。

実朝に斬りかかる公暁/国立国会図書館蔵
この件に関する康信の動向は、吾妻鏡に記載されていません。
寄る年波もあってか、そもそも康信の名が表に出てくることも少なくなっています。
この時期の記録は、吾妻鏡に二件ほどありますが、どちらもあまり良い出来事ではありません。
一つは、承久三年(1221年)1月25日の午前二時頃に、大町大路の東から出火し、康信の家が燃えてしまったという記述です(13年ぶり二回目)。
またしても記録類が焼失してしまい、冬場の失火対策の難しさが垣間見えますね。
そしてもう一つが、康信最期の働きともいえる場面です。
承久三年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は流鏑馬を名目として美濃~但馬14カ国の兵と、近畿周辺の僧兵を呼び寄せました。
そして翌15日に「義時追討」と「全国の守護・地頭を自らの支配下に置く」という内容の院宣を出します。
ご存知【承久の乱】のはじまりです。

後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)/wikipediaより引用
朝廷の強行な態度に、鎌倉幕府の面々は大いに動揺しましたが、北条政子の声明によってまずは応戦することにします。
しかし、前例のないことで、幕府側も簡単には方針をまとめられません。
打って出るべきだ!と大江広元は主張しましたが、その意見を容れて出陣の準備をしているうち、弱腰になる者も出始めるという始末。
「こちらから攻め込むと決まったのに、日にちが経ったせいで後ろ向きな案が出てきてしまった。今夜にでも泰時殿が率先して出陣すれば、御家人たちは皆後に従い、後に付いてくるだろう!」
康信はこのころ老いもあって病みついていたそうですが、政子に呼ばれると、力強くこう主張します。
「協議は大切だが、このようなときは直ちに出発するべきです!」
義時もこれで覚悟を決め、嫡男の泰時をさっそく出発させました。

北条義時イメージ(絵・小久ヒロ)
二人の言う通り、幕府軍は西へ向かうに従い、続々と人数を増やし、勢いそのまま6月14日に京都になだれ込み、あっという間に勝利を収めます。
7月には後鳥羽上皇をはじめとした首謀者たちが流刑となり、始末がつきました。
康信は、乱の始末を見届けた後、8月9日に亡くなります。
享年82という長命。
死の直前である8月6日まで問注所執事の座にあったそうですから、本人はまだまだ仕事をしたかったのかもしれません。
康信のような文官タイプの人物は、なかなか注目されにくいものです。
それが2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれ、感慨深いものがありました。
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【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)





