大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で昨年は大いに注目された鎌倉時代。
仁治三年(1242年)9月12日に順徳天皇が崩御されました。
「誰それ?」という方にはネタバレになってしまうかもしれませんが、和歌が好きな方は聞き覚えがあるかもしれません。
百人一首のラスト、
「ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」
の作者です。
【意訳】軒にしのぶが生えるほど皇居はうらぶれてしまったが、昔はどんなに素晴らしかったのかと思うとやりきれない
というような意味になります。
天皇や上皇から平家や源氏に実権が移り、それと共に皇居も寂れ荒んでいたことがよくわかる歌です。
そんな順徳天皇に一体何が起きたのか?
残念ながら『鎌倉殿の13人』では注目されませんでしたが、実は、後鳥羽上皇と承久の乱に深く関与した方でした。
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順徳天皇の父ちゃんは、かなり武闘派でした
順徳天皇はたしかに地味な存在です。
しかし、前述の通り歴史の観点から見ると、別の意味で非常に重要な方であり、鎌倉幕府打倒を狙った後鳥羽上皇の第三皇子(第二とも)。
順徳天皇自身も積極的に乱に関わっています。
※以下は承久の乱まとめ記事となります
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承久の乱直前に退位して上皇になっていますが、この期間の「上皇」は後鳥羽上皇のイメージが強いと思われますので、順徳天皇表記で統一させていただきます。
彼はお兄さんである土御門天皇が温厚なタイプだったのとは対照的に、幼い頃から気性の激しいことで有名だったようです。
まだ土御門天皇が若く健康なのに譲位されたのも、父である後鳥羽上皇がより気性の合う順徳天皇と倒幕をしたかったからもしれません。
実は、後鳥羽上皇もかなりの武闘派で、武士にも負けない腕力を有していた――なんてエピソードもあります。
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異母兄弟ですし、土御門天皇は母親似、順徳天皇は父親似だったんですかね。
藤原定家が歌の先生ではイクサには弱く
順徳天皇は、単に好戦的というわけではなく、作法の教科書を書いたり、和歌や詩を多く詠んだりと文学的な才にも長けていました。
百人一首に入選したのも、順徳天皇の歌のお師匠様が選者の藤原定家だったというのが大きいでしょう。
皇室って基本的に文武両道といいますか。あまり偏ったところがない方が多いんですよね。
たまに強烈な個性の人が出てきますが、まあそれはそれで。
そんな感じでいろいろとやる気のある方だったわけですが、戦はさすがに専門外。
源氏将軍の三代目・源実朝が甥っ子に殺されるという最悪な内ゲバが起きたのを見て、「今こそ好機!」と承久の乱を起こしました。
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しかし、鎌倉武士の結束は想像以上に固く……。
実朝の母でもあった北条政子が「頼朝殿の恩を忘れたのですか!」と叱咤したこともあり、御家人たちも“京都に威張らせるのではなく俺たちの坂東を守る”という気持ちもあったでしょう。
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また、後鳥羽上皇も順徳天皇も院宣(上皇・法皇の命令)を絶対視しすぎていて、対策が後手後手にまわっていたのが最大の敗因でした。
「常に最悪の事態を想定する」という戦のセオリーを全く考えていなかったかのような展開です。
緒戦がほぼ奇襲に近い状態で勝っていたこともあり、「出鼻をくじいてやったし、院宣出したんだから武士どもは皆こっちの味方になるに決まってる!」と思い込み、幕府側が反抗することすら予測していなかったとか。
一方、一枚岩と化した幕府側は、最終的に19万もの大軍になったと記されています。
さすがに19万という数字は何倍も盛っているとされますが、幕府に勢いがあったのは間違いないでしょう。
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