あくまで武家が中心の話であって、朝廷や貴族は二の次……なんてお考えの方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、他ならぬ源頼朝が娘の入内にこだわるなど、決して無視できないのが京都の政局です。
「日本一の大天狗」と評された後白河法皇を筆頭に、丹後局や九条兼実など、ドラマでもなかなかキャラが濃いメンツが居揃っていた中、さらに一人の公家が登場していました。
土御門通親(つちみかどみちちか)です。
俳優の関智一さんが演じたこの通親、史実では建仁2年(1202年)10月21日が命日。
和歌の名人としても知られますが、一方で頼朝や兼実、あるいは後白河法皇などにも負けぬ政治力を有した実力者でした。
知名度の低さに反し、後の【承久の乱】にも繋がるような面白い存在だったりします。
そんな土御門通親の生涯を史実面から振り返ってみましょう。
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藤原摂関家のライバル 久我源氏
土御門通親は、まずその名前に注目です。
というのも、例えばGoogleで検索をかけ、上位に出てくるWikipediaの表記をご覧ください。
『源通親』になっています。
鎌倉殿の13人では「土御門」なのにどういうことか?
と、これは何も間違いではなく、通親は第62代村上天皇の皇子を祖とする村上源氏の出身でした。
臣籍降下した貴族の中でも頂点にいた一族です。
ゆえに正しくは源通親であり、土御門というのは通称。
彼の邸宅があった地名から名付けられ、いわば「土御門に屋敷のある通親」という意味ですが、ここで同時に見ておきたいのが、通親のライバルの呼び名です。
九条兼実(くじょうかねざね)――。
兼実は、藤原摂関家の“藤原兼実”ですが、九条に邸宅があったため、九条兼実と呼ばれました。
九条兼実との整合性を踏まえると、ドラマの中で土御門通親と表記されたのは妥当でしょう。
『鎌倉殿の13人』はただでさえ源氏が多く、もしも「源通親」で登場していたら、頼朝らの河内源氏と混乱して、勘違いされる視聴者が続出したかもしれません。
この二人はライバル貴族でした。
九条兼実が藤原摂関家で、土御門通親は久我源氏(村上源氏の本流)として、一族から皇室に女子を送り込み、政治の実権を争う――そんな構図を繰り広げていたのです。
しかし、現在の知名度は
九条兼実>>>>>土御門通親
という感じで大きく異なります。
権力争いで九条が勝ったから……ではなく、そこはむしろ逆。
現実主義者という割り切りのできた土御門通親が、朝廷内での発言力を確立しています。
その一方、藤原摂関家は史料を大量に残しました。
平安末期から鎌倉時代前期にかけて、同家には藤原頼長、九条兼実、兼実の弟・慈円といった文筆家がいたのに対し、久我源氏は比較して少ない。
ゆえに摂関家目線での見方が優勢となり、現代での知名度に影響しているのですね。
鎌倉時代の史書『吾妻鏡』にも、九条兼実の著作である『玉葉』等を参照したとされる記述があります。
それでは土御門通親の生涯を振り返ってみましょう。
親平家の華麗なる貴公子
土御門通親は久安5年(1149年)、父・土御門雅通32歳の子として生まれました。
母は身分の高くない女性だったのでしょう。美福門院女房とか八条院女房といった説があります。
彼ら貴族は、如何にして娘を皇室に送り込み、天皇や上皇の権威にどう潜り込むか?が最重要事項。
父・雅通もそんな典型的な公卿の一人でした。
鳥羽院が権勢を振るう時代には藤原得子(美福門院)に取り入り、後白河院が権勢を振るう時代となればそちらに向く――。
一見、不義理な対応も、身の処し方としては自然なこと。
土御門通親が記録に登場するのは、保元3年(1158年)、従五位下に叙された10歳のときでした。
以来、父子は、上り調子の平家に接近します。
仁安3年(1168年)に平家一門の平滋子(建春門院)が後白河院の后となると、雅通は皇太后宮大夫となります。
そして通親は二人目の妻を平家一門から迎え、覚えめでたい貴公子となるのです。
いわば親平家派の公卿で、保身のためにも重要な戦略でした。
平家が力を増してくると、源氏に親しい公卿は、それが理由で失脚することもあったのです。
平家とバッサリ縁切り
治承3年(1179年)11月――平清盛が後白河法皇を幽閉し、院政を停止する【治承3年の政変】が起こりました。
平家の栄華に対する不満がいよいよ発露し、時代が動き始めます。
西暦でいうと翌年から
といった大きな事件が立て続けに勃発。
事件の合間には、関東でも源頼朝の挙兵があり、公卿たちもただ呆然と眺めていたわけではなく、評議に励んでいました。
中でも九条兼実は、確固たる己の信念と鋭い舌鋒で丁々発止の議論を繰り広げており、そのことを日記に書き留めています。
前述の通り、土御門通親はそうした記録が少ない。
ただし、そんな通親でも、治承5年(1181年)に高倉院がまだ21という若さで崩御した際、その死を悼む歌を残しています。
喪に服した後は安徳天皇に仕えることになりました。
源平が火花を散らす【治承・寿永の乱】の中、通親は公卿として精勤に励み、京都での存在感を確実に増してゆきます。
しかし寿永2年(1183年)7月、平家が安徳天皇と三種の神器を携えて都落ちをすると、キッパリと縁を絶ちました。
後にも出てきますが、通親はこういう場面での判断力が抜群にいいですね。
朝廷としても、そのままにはしておけないので、安徳天皇が退位していないことも無視して、取り急ぎ新しい天皇を立てることとしました。
問題は後継者の選定です。
要は「誰にするか?」ってことなんですが、ここで異例の事態に発展します。
木曽義仲が以仁王の子・北陸宮を強く推してきたのです。
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