安徳天皇

安徳天皇/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

1歳で即位して6歳で壇ノ浦に沈んだ安徳天皇|清盛に振り回された生涯

2024/11/11

日本史で一・二を争う悲哀な生涯をたどった子供。

それが入水という悲劇的な死を迎え、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも大きな話題となった安徳天皇ではないでしょうか。

源平の争い……というか主に平清盛ら平家に巻き込まれ、幼くして亡くなった天皇として有名ですね。

治承2年(1178年)11月12日はその誕生日。

安徳天皇の肖像画

安徳天皇/wikipediaより引用

現代の我々からしても過酷すぎる、その生涯をおさらいしてみましょう。

 


1歳9ヶ月で即位した安徳天皇

安徳天皇は、父が高倉天皇

母が清盛の娘・平徳子(建礼門院)だったため、ゴリ押しによって生後一ヶ月で皇太子となり、治承4年(1180年)2月、2歳にもならない1歳9ヶ月で即位します(数え歳で3歳の即位)。

※以下は平徳子の生涯まとめ記事となります

平徳子(建礼門院)
日本史上屈指の不幸な女性・平徳子|安徳天皇を喪い自身は生き永らえ

続きを見る

もちろん実権などあるわけありません。

清盛が平家に都合の良い政治を行うための傀儡だったわけで、実はこの頃にはもう、平家の独占禁止法なやり口に反感を持つ人も多くなっています。

月岡芳年が描いた平清盛/wikipediaより引用

安徳天皇もまた、成長してからも福原遷都(未遂)で連れ出されるわ、とんぼ返りさせられるわ……清盛に振り回され、源平の争いでバタバタする中で西国へ落ち延びることになりました。

屋島にいた頃には、現在の屋島東町の高台に行宮(あんぐう・一時的な天皇の住まい)が作られています。

ここには今も安徳天皇を祀る神社が建てられていて、近代の皇族も訪れたことがあります。

現在は民家も多く、残念ながら見晴らしが良さそうには見えません。

神社の奥側なら違うかもしれませんが。

 


祖母と共に入水し最期を迎える

どんなに負けても安徳天皇を手放さなかった平家。

源義経が指揮する【壇ノ浦の戦い】で、結局、祖母の二位尼(清盛の妻・時子)と共に入水することになってしまいました。

『安徳天皇縁起絵図』壇ノ浦の戦い/Wikipediaより引用

二位尼が「極楽浄土にお連れいたします」というと、安徳天皇は自ら手を合わせ、東(伊勢神宮)を拝し、続けて西に向かって念仏を唱えたといいます。

まだ6歳(数え歳で8歳)だったことを考えると……。

成長していたら聡明な君主になったであろう行動ですね(´;ω;`)ブワッ

せめて母の建礼門院と一緒であれば……という気もしますが、建礼門院は自らも身を投げた後、源氏に引き上げられているので、一緒に入水して一人だけ助かっていたとしたら、それも辛い話です。

 

山口県下関市伊崎町へ流れ着いた遺体は御旅所で安置

平家は全滅でも仕方ないにせよ、安徳天皇や建礼門院は、送り返すこともできたはずなんですよね。

名誉が命より重んじられる時代のこととはいえ、皇族を道連れにすることに対して罪悪感はなかったのでしょうか。

少々アレな話になりますが、水死体というのは一度沈んでも、いずれ浮き上がってくるものです。

命の灯火が消えた安徳天皇の体も、流れ流れて現在の山口県下関市伊崎町へ流れ着き、地元の漁師たちによって引き上げられました。

そして”御旅所(おたびしょ)”に一度安置したといわれています。

御旅所とは、神様や神輿の休憩所のことです。

皇室の生まれ=神の子孫ということで、安徳天皇もそういった扱いをされたものと思われます。

グーグルマップでは「赤間関神宮小門御旅所」となっていますね。

文字通り目の前が海なので、この言い伝えにはとても現実味が感じられます。

安徳天皇の異母弟である後鳥羽天皇は、幼くして亡くなった(おそらく)見たことのない兄の霊を慰めるため、下関で”先帝祭”を催しました。

現代まで続いていて、祭りの行列で先頭を務める中島家の人々は、当時、安徳天皇の遺体を引き上げた漁師の子孫なんだそうですよ。

伝統が千年以上続いているだけでスゴイですが、それをずっと同じ家の人が務めているのもまた歴史の重みを感じますね。

ちなみに、安徳天皇は退位しないまま京を去った(拉致された)ため、後鳥羽天皇とは二年ほど在位期間がかぶっています。

後鳥羽天皇がわざわざ”先帝祭”と題したのは、自分が唯一の帝になったことを示したり、兄を敬う意味もあったのかもしれませんね。

安徳天皇が落ち延びた説も各所にあります。

それはどんなものだったのでしょうか?

 


三種の神器の一つ・天叢雲剣も行方不明に

安徳天皇が落ち延びた伝説――。

多くは「落ち延びて静かに暮らし、若くして亡くなった」ことになっており、中には「出家の後、宋(中国)に渡って仏法を修め、帰国してから寺を開いた」とか「対馬の戦国大名・宗氏の先祖となった」など、なかなかダイナミックなものもあります。

おそらくは同時期に都から落ち延びてきた貴人の話が混ざっているのでしょう。

そして、安徳天皇自身に同情した人が多かったのだろうということもうかがえます。

そりゃ天皇とはいえ6歳の子供がとばっちりで水死したのでは、同情しないほうがおかしい話ですもんね。

一方、源氏のほうでも安徳天皇の水死は、三種の神器の一つ・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が行方不明になったことと合わせて問題になりました。

もっとも、このとき壇ノ浦に沈んだ剣は形代(レプリカみたいなもの)で、天叢雲剣の本体は今も熱田神宮(愛知県名古屋市)に現存しているという説もあります。

熱田神宮本宮

ヤマトタケルが東国征伐の際に使い、妻のミヤズヒメにとっては形見となったのは熱田神宮にあるほうで、安徳天皇とともに沈んだのは、それ以前に作られて皇居にあった形代だ……という説があるのです。

熱田神宮で実物を見ると目が潰れるといわれていますので、さすがの源頼朝も確かめようとはしなかったようですが。

 

頼朝は安徳天皇を気にかけていた

源頼朝自身が亡くなるのは、安徳天皇の死から14年後のことです。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

普通に考えれば十分な期間が空いていて呪いや祟りの類は関係なさそうですが、一方で「亡くなる間際に清盛や安徳天皇の霊に怯えているかのような言動があった」ために「とり殺されたのだ」とする説もあります。

祟りの真偽の程はさておき、頼朝が安徳天皇入水を悔やんでいた節があったからこそ、このような話ができたのではないでしょうか。

頼朝は壇ノ浦の戦いが起こる2ヶ月ほど前に「安徳天皇や建礼門院に危害を加えるな」という命令も出したことがあります。

源氏も皇室から分かれた家ですし、頼朝自身宮中に出入りしていたこともあるので、皇族への畏敬は多少なりともあったでしょう。

その後悔が、亡霊という形で見えたのかもしれませんね。

 

女帝説を唱える人も

上記の通り、安徳天皇は信心深く聡明な少年だったようなので、化けて出てきそうなタイプではありません。

三大怨霊の皆さん(菅原道真平将門崇徳天皇)と比べるとね……。

京都市東山区泉涌寺(せんにゅうじ)所蔵の安徳天皇の肖像は、玩具で遊んでいるらしき年相応の姿が描かれています。

この姿が女の子のように見えなくもないことから、女帝説を唱える人もいるようです。

まぁ、性別・年齢を問わず、戦乱に巻き込まれる事自体が悲しいことですけどね。

特に安徳天皇のような幼い子供が……となると、さらにこう、胸が詰まる話ですね。


あわせて読みたい関連記事

平徳子(建礼門院)
日本史上屈指の不幸な女性・平徳子|安徳天皇を喪い自身は生き永らえ

続きを見る

栄華を極めた平清盛の手腕|各地で蜂起する源氏の軍勢にはどう対処した?

続きを見る

壇ノ浦の戦い
決戦 壇ノ浦の戦い!源氏vs平家の最終戦は実際どんな戦いだったのか?

続きを見る

源義経
戦の天才だった源義経の生涯|自ら破滅の道を突き進み奥州の地に果てる

続きを見る

天才軍略家義経
義経の強さが突出していた理由|世界の英雄と比較して浮かぶ軍略と殺戮の才

続きを見る

【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon
安徳天皇/Wikipedia
壇ノ浦の戦い/Wikipedia
御旅所/Wikipedia
Shimonoseki.TV(→link
いつもNAVI(→link
源頼朝/Wikipedia

TOPページへ


 



リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

-源平・鎌倉・室町
-,

右クリックのご使用はできません
目次