斎藤孫四郎

絵・小久ヒロ

斎藤家

なぜ道三の次男・斎藤孫四郎は兄の義龍に殺されたのか 骨肉の家督争いが勃発

「蝮の道三」こと斎藤道三には、十数名の子供たちがいたとされます。

しかし、テレビ番組やフィクション作品で注目されるのは、長男・斎藤義龍と、織田信長に嫁いだ帰蝶の2人だけ。

他のきょうだいたちは、これまでほとんど存在感ゼロでした。

そんなドマイナーだった道三の息子たちが、2020年大河ドラマ『麒麟がくる』でようやく出番が回ってきました。

斎藤道三の息子たち

【長男】斎藤義龍

【次男】斎藤孫四郎

【三男】斎藤喜平次

弘治元年(1555年)11月12日に亡くなった次男の斎藤孫四郎と三男の斎藤喜平次です。

本稿で注目したいのは、そのうちの次男・斎藤孫四郎。

『美濃国諸旧記』という史料では義龍のことを「道三の実子ではない」と明記しており、その場合、孫四郎が長男になる可能性もありました。

残念ながら『美濃国諸旧記』は誤りの多い史料であり、すべてを鵜呑みにするわけにはいきません。

それを踏まえた上で『美濃国諸旧記』の孫四郎像を確認していきましょう。

斎藤道三/wikipediaより引用

 


斎藤孫四郎に「左京亮」を名乗らせ跡継ぎに

まずは『美濃国諸旧記』における斎藤家・家督継承の流れを追ってみましょう。

――斎藤孫四郎は、道三の実子であり、お気に入り。家督継承順位の低い次男でも、孫四郎に後継を託したいと考えていた。

しかし、美濃国内にいた武士の大半は土岐氏に恩のある者たちである。

義龍の父とされる土岐頼芸はその当主であり、道三もやむなく義龍を後継者にしていた。

斎藤義龍/wikipediaより引用

ただでさえ道三は、土岐頼芸を追放して国内の土岐氏派閥に反感を抱かれている状況であり、これ以上、彼らの神経を逆なでするのはマズいという判断だったのであろう。

道三は仕方なしに義龍を後継者としたわけで、本心では孫四郎を気に入っていた。

同時に、孫四郎の弟である斎藤喜平次を寵愛していた。

そうした状況の中、美濃国内では次第に道三の権力が浸透しはじめ、義龍に家督を譲った時期に顔色をうかがっていた土岐氏派勢力を恐れる必要が薄れてくる。

道三はついにある決断をくだす。

息子である孫四郎に「左京亮」を名乗らせ、跡継ぎにしようと計画した。

道三にしてみればかねてからの悲願であり、同時に孫四郎にとっても悪い話ではなかった。

 


「あなたは道三の実子ではありません」

計画を練り上げた道三は「もう義龍なんぞどうでもイイ」と思ったのであろうか。

目に見えて態度を硬直化させ、さすがに義龍も違和感を抱き始める。

実はこの時まで義龍は「自分が道三の実子ではない」ことは知らず、父の態度の急変を受け、ついに近臣の日根野弘就、長井道利に相談を持ちかけたのだ。

そこで秘密を打ち明けられた。

「あなたは道三の実子ではありません。道三は、あなたの仇です」

かくして義龍は道三追討を決意するのであった――。

以上が『美濃国諸旧記』を参考にしてまとめた、斎藤家・家督継承の流れです。

ほかの史料と整合性が取れない部分も多く、すべてを鵜呑みにはできないのですが、道三が義龍を軽んじ、孫四郎を可愛がっていたという話までは、ある程度、信じてもよさそうな気がします。

問題は、義龍挙兵の動機でしょう。

義龍は弘治元年(1555年)の時点で、自身の名を【父殺し】を比喩する「范可(はんか)」と改名しています。

これは言うまでもなく自ら「道三を父と認めて」の改名であり、土岐頼芸の子であればわざわざ着ける必要ない――そう指摘されているのです。

そもそも「義龍が実子ではない」という説自体が江戸時代後期から確認されるようになったと言われています。

上記『美濃国諸旧記』の説は前提からかなりアヤシイんですね。

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