治承4年(1180年)10月21日は源頼朝と源義経が初めて顔を合わせた日。
同時にこの日は、源平合戦で大活躍をすることになる天才軍略家としての義経が生まれた日とも言えるでしょう。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、敵をあざむく作戦を次から次へと披露し、自ら実行に移すと、それまで散々侮辱されていた梶原景時でさえ、思わずこう漏らしていました。
「戦神……八幡大菩薩の化身のようだ……」
平家にとっては、人を人とも思わない殺戮の悪魔とでも申しましょうか。
同時に彼には問題がありました。
義経は大河ドラマの公式サイトにも「性格に難あり」と記されるほど常識が通じない人物像であり、史実を見ても、とにかく厄介な存在だったのです。
近年の歴史研究では織田 信長も同様の評価が与えられることがあり、凄まじい軍略の才能がありながら、一方で信頼していた家臣に裏切られるのも「自業自得だよね」と考えられたりする。
しかも、この手の天才軍略家たちは、義経や信長だけでなく、世界史レベルで見ても確かに存在してきました。
彼らにはある共通点があるのですが、それが何なのか。
古今東西に目を向けながら、天才軍略家・義経の実像に迫ってみたいと思います。
戦争の天才は大量殺戮を得意とする
近代――ナポレオン戦争を経て、ヨーロッパ各国では徴兵制度が有効であると気付きました。
貴族のみならず、市民も兵士にすればよい。
かくして日本も含めた世界各国で、徴兵制が広がってゆきますが、いざ訓練を始めると、ある問題につきあたりました。
兵士は簡単に敵を撃てない。目を逸らしてしまう。あるいは閉じてしまう。
いざ戦場から家に帰っても、帰還兵が精神を病んでしまう。
臆病だからなのか?
と思ったら、どうもそうではないようだ。
人間は殺人に対して大きな抵抗感がある。
そんな結論に達します。
しかし、さらに時代がくだると、全人類が必ずしもそうではないことも理解され始めます。
ごく少数ながら、人を殺すことにためらいがなく、戦争に向いている者がいる。
軍人家系とかそういう環境ではなく、先天性の要素もあるようだ。
戦争の行方を左右するのは、そんな心の作用もあるのではないか?
そんな風に考え始めたのです。
むろん、戦闘の勝敗には、武器のスペックが大きく影響します。それは間違いではありません。
しかし、同じ武器同士ならばどうか?
如何にして効率的に敵を殺戮するか――そんな心理が左右するという結論に達します。
要は躊躇なく大量殺人をできる者であり、歴史上には、その才能が抜きん出た人物が現れました。
味方からは英雄と称えられ、敵からは悪魔と恐れられる。
一体どんな人物がいたのか?
源義経もその一人と考えられますが、せっかくですので世界レベルで見てみましょう。
孫子:兵は詭道(きどう)なり
以前、古代ギリシャ研究家である藤村シシン先生と『三国志』に詳しい金田淳子さんが語り合っていました。
中国の合戦は不意打ちや謀略をするのに対し、古代ギリシャはそうではない。
古代ギリシャ人が善良なのか、高潔なのか。
そして古代中国人が奸悪なのか?
むろん、そんな単純な結論ではありません。
「宋襄(そうじょう)の仁」という言葉があります。
春秋時代の紀元前638年に【泓水の戦い(おうすいのたたかい)】がありました。
楚軍が川を渡り切らないところを攻撃すべき――そう進言された宋の襄公が、卑劣であるとしてその作戦を採用しなかったのです。
そのため「宋襄の仁」は無用な情け、無意味な仁義を意味する言葉となりました。
しかし、本当にそれは意味のないことだったのか?
当時は戦争の儀礼として「軍令」があったとされています。スポーツにおけるルールのようなものです。
そう考えると襄公は「ドーピングはよくない」と考えたと言える。
ルールを無視し、負傷兵、戦意のない者を襲い、敬意も何もない状態になれば野獣同士の殺し合いとなり、後世にまで大きな禍根を残しかねません。
当時は、そうした礼儀があったのです。
しかし、それが破れた時代があります。
兵は詭道(きどう)なり――戦争とは、相手を騙すものだ
そう言い切った『孫子』です。
この書物は紀元前5世紀の中頃から紀元前4世紀の中頃に成立したと推察。
著者の孫武は、自説の正しさを証明するため、呉王・闔閭(こうりょ)の女官たちを調練し、彼女らが「従わないから」として、指揮官役の寵姫を斬り捨てたという逸話があるほどです。
孫子をドラマにする際、色々と脚色され、扱いが極めて難しい逸話であり、言うことを聞かせるには効率的ですが、外道といえばあまりに外道。
戦争の天才とは「思い切った残虐さを発揮する」と証明する内容でもあります。
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曹操:乱世の奸雄
後漢末期の乱世の最中、多忙な曹操が常に書物を手放さなかったと、子の曹丕が回想しています。
常に勝利を渇望していた曹操は、ありとあらゆる兵法書を収集。
中でも最も気に入ったのが『孫子』であり、時間を見ては注釈を入れてました。
そうして出来上がったのが『魏武注孫子』です。
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当時は、竹簡と木簡だけでなく、紙が普及し、情報量が増えていく時代です。
曹操は文学の発展に力を入れ、文章を通して思考を整理。そうして自分なりに整理した戦術は極めて冴えていました。
部下たちは、曹操の指示書に従って戦っていたのです。
曹操が『孫子』を読み、地形や条件を分析した命令書のもとで戦えば、とにかく強かった。
諸葛亮の『出師表』には、諸葛亮も曹操の軍略にはかなわないとみなしていたことが記されています。
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曹操の戦術を貶める記述は、後世のフィクションに登場。
油断からなのか、曹操自身が孫子のセオリーを忘れ、失敗することがあります。
孫子が「冬の戦争は避ける」ように記していたにも関わらず、【赤壁の戦い】を起こし、大敗している。
自分を見にきた群衆に対し、曹操はこう返しました。
俺は見た目がすごいわけじゃない。頭の中身がちょっと違う――。
確かにその通りでしょう。彼の頭の中には、他の人とは異なる何かが詰まっていたのです。
しかしそれは時に災厄をもたらしました。
徐州での大殺戮、【官渡の戦い】後の敵兵処刑、荀彧を死に追いやったこと……自分を怒らせたもの、意にそぐわぬものへの処断は苛烈でした。
優れた戦術と同時に残酷さが、曹操の頭の中には詰まっていました。
武田信玄:風林火山
孫子の教えを使いこなした人物筆頭として、武田信玄があげられます。
宋代には「宋版」と呼ばれる印刷術が定着。
書籍の流通が増え、明から甲斐国まで『孫子』が到達したのでしょう。
『孫子』を読んで、どこがどう優れているのかわかったからこそ、信玄は使いこなせた。
この時代となれば、他にも『孫子』を手に入れた大名はいたはずです。
しかし、旗にまで記すとなれば思い入れが違う。
戦場で頭に血が上りそうになっても、旗を見れば、リマインダーとしての役割を果たせたことでしょう。
信玄のもとで兵法を学んだ武田の将たちが、旗により孫子の極意を思い出す。地形を見るだけでどこに布陣をすればよいのか即座に判断できる!
そうなれば、武田軍団が強くなるのは当然のことと言えます。
甲斐の地形は険しく、農業生産性が高い土地ではありません。海にも接していない。
地理条件では不利だらけの武田家を、あそこまで強くしたものは、信玄の頭の中に詰まっていたのでしょう。
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これが時代がくだり、甲州流軍学となると怪しさを帯びてきます。
なんだか神秘的で凄い兵法があったと想像され、荒唐無稽な装飾がなされるものです。
曹操ではなく諸葛亮こそ兵法の達人だと思いたい――そんな中国の人々は、道教と組み合わせ、妖術めいた兵法を、フィクションにおいて諸葛亮に使わせました。
そうした後世のつけたしを削れば、そこにあるのは『孫子』はじめ兵法をどれだけ深く読み込んだかと言えるでしょう。
ヘンリー5世:戦場では虎の如く振る舞え
イギリスの歴史で織田 信長に最も似た人物は誰か?
そう問われて真っ先に浮かんでくるのがヘンリー5世です。
若い頃は遊び回り父を嘆かせたものの、即位後は、時に烈火の如く怒り、時に冷徹な戦術を用いて【アジャンクールの戦い】で大勝利をあげる。
いかがでしょう? まさに信長ではありません?
と言いたいところですが、これはシェイクスピアの筆(脚色)がそれだけ達者であったというところ。
フィクションでの描写ゆえに人気が飛び抜けている点でも共通しています。
ヘンリー5世が王子時代に父・ヘンリー4世と対立したことは史実とされていますが、別に息子が遊び呆けていたからではなく、政治的なものとされています。
大勝利とされる【アジャンクールの戦い】も、百年戦争に与えた影響からすると、過大評価されているのでは? と冷静にみなされることもあります。
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シェイクスピアが書いた「聖クリスピアンの日の演説」(アジャンクールの戦闘前に演説する場面)があまりに素晴らしすぎて、その印象があまりに強い。
義経にせよ、信長にせよ、ヘンリー5世にせよ。後世の文学による顕彰の影響は見逃せないところです。
この演説で、ヘンリー5世は「戦場では虎のように振る舞え」と言います。
人が獣のように規範を忘れたらどうなるのか?
史実のヘンリー5世は示しています。
ヘンリー5世の戦術には斬新かつ残虐な行為がありました。
捕虜の大量処刑です。
それまでのヨーロッパでは、戦場で捕虜となった貴族を丁重に扱いました。捕虜交換をする目的もあります。
敵に捕まった同程度のものと交換するか。あるいは身代金を支払うか。そうして捕虜交換をすることが「騎士道」であるともされました。
敵地に攻め込んだイングランド軍は、物量と兵士の補給において不利を抱えています。自軍に捕らえられている捕虜が叛逆したら、挟み撃ちにあう。それを懸念したヘンリー5世が、大量処刑を命じたのです。
貴族や騎士は、自身が持つ騎士道ゆえ、捕虜の処刑はためらいます。
しかし、百年戦争で活躍をし始めた長弓兵にそんな倫理はありません。捕虜を平気で殺せた。
彼らは戦斧や大槌で頭を叩き割られ、喉を切り裂かれました。
名誉ある貴族の残虐な死に、フランス軍は恐れ慄くばかり。とにかく性質が荒すぎて「倫理が通じない」という嫌悪と恐怖もあったでしょう。
ヘンリー5世のあと、百年戦争の主力武器は火器になります。
馬に跨り槍を振るう騎士の時代は終わりを告げ、時代の変革を先取りしたような決断でした。
英断か? 戦争犯罪か?
これは現在でも議論にのぼるテーマですね。
捕虜殺害がタブーである意識はシェイクスピアの時代だって存在します。英雄王に勝利をもたらした要素が、そんな騎士道に反する残虐行為であるとするのはよろしくない。
そこで、英雄的なスピーチや描写が生まれ、定着して行ったのでしょう。
シェイクスピアの影響から脱し、近年のフィクションで描かれるヘンリー5世は、冷酷で容赦がない性格となりつつあります。
幻想を壊されると不満を感じる読者もいるでしょうが、史実に近づけた結果、そうなっているのです。
シャカ・ズールー:儀礼を戦争に変えた
世界史上、これほど戦争における発想の転換の意義について知らしめた人物はいない――。
そう思えるのが、シャカ・ズールーです。
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槍と盾で近代イギリス軍を殲滅|ズールー族のインピとシャカ伝説に注目
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南アフリカの小部族に生まれ、“虫ケラ”と呼ばれた少年は、部族同士の戦争における概念を根底から変えました。
それまでは儀礼的であり、観戦する女性すら周囲にいた。それが彼らの戦争でしたが、シャカは「インピ」と呼ばれる戦士たちに戦術を叩き込みました。
武器こそ、槍と盾という原始的なものながら、そこに組織の編成、陣形、行軍速度、信賞必罰……と、近代軍さながらの戦術を取り入れたのです。
結果、シャカの率いるインピは圧倒的な強さを誇りました。
周囲の部族も次々に併呑してゆき、その数は300を超えるとされています。
しかし偏執的な性格であるシャカは、部下に恐れられ疎んじられ、最終的に謀殺されました。遺骸がどこに埋められたのかすら、わかっていません。
それでも戦術を身につけたインピは圧倒的な強さを誇り、ズールー戦争の【イサンドルワナの戦い】という緒戦においては、近代装備をしたイギリス軍すら撃破しました。
戦いは、軍備の性能だけではなく、卓越した戦術で勝敗が左右されると証明された一戦です(最終的には物量戦に持ち込まれて戦争自体は敗北)。
英語圏では、そうしたインピの強さが鮮烈だったのでしょう。
『シヴィライゼーション』シリーズに登場するシャカ・ズールーは、理不尽なまでの強さを誇っています。
シャカ・ズールーが変えた戦争のルールは、人類の進化を辿る上でも大事です。
武器、技術、生産性において優位性がなくても、戦術を変える発想があれば勝利をもたらす。そう証明したのです。
源義経:安徳天皇を入水させた“武士“らしからぬ戦術
そして源義経です。
『孫子』を活用していた曹操は、個人的武勇を誇示した張遼を「将の為すことではない」と嗜めました。
曹操は自分の護衛を務めた典韋(てんい)や許褚(きょちょ)をこよなく愛していたものの、将には個の力に頼った英雄的活躍を求めていません。
そんな曹操からおよそ千年を経た日本では、まだまだ素朴な個人的戦闘力をもとにした合戦が行われていました。
「やあやあ、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ」
こんな名乗りは、まさしくその象徴と言えるでしょう。
『鎌倉殿の13人』では、山内首藤経俊が矢に名前を書いているのが印象的でした。
そのせいで、源頼朝を裏切って攻撃までしたことが後に判明するため、現代人からすれば「一体何をしているのか?」と疑念を覚えるかもしれません。
しかし当時の感覚なのでしょう。
敵にせよ、味方にせよ。こんな強弓の使い手がいるとは! そう栄誉になると意識してこそ、自身の名を矢に記したのでしょう。
名誉と不名誉は紙一重です。
義経の父である源義朝は、奇襲や闇討ちを「恥ずかしいことだ」として藤原頼長に却下されることが往々にしてあります。
正々堂々と戦うのではなく、背後から襲い掛かること。
一ノ谷にせよ、屋島にせよ。
後世の脚色された義経伝記ならば輝かしい勝利そのものですが、当時の感覚からすれば相当な困惑があったことでしょう。
【壇ノ浦の戦い】での平家は、安徳天皇を船に乗せていました。
帝のおわす、いわば聖戦であるにも関わらず、義経はおそろしい戦術を展開します。漕ぎ手に攻撃を仕掛けたのです。
帝のおわす前で、非武装の者を殺す――。
確かに効果はありました。
漕ぎ手を失った船は翻弄され、平家軍には絶望が広がります。
理屈が全く通じない連中が向かってくる! 捕らえられたら何が起こるかわからない!
まるで猛獣、怪物、あるいは現代人にとっての宇宙人のような、得体の知れない存在がそこにいるのです。
フィクションでは、幼い安徳天皇を抱えた二位尼(時子)が凜然と突き進む姿が描かれがちですが、ワケのわからない化け物を目にして、そんな大胆な行動が出来たかどうかわかりません。
いずれにせよ、あまりのことに安徳天皇は抱えられて入水してしまいます。
結果【壇ノ浦の戦い】は、源氏の勝利で終わりました。
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しかし、こんな“卑劣”な勝利をおさめたからこそ、不穏な情勢が芽生えます。
源頼朝は、帝が溺死し、三種の神器を海に落とされることまで想定していたかどうか?
帝は出家でもさせてしまえばよい。三種の神器のことは全くわけがわからない。平家は確かに悪い。問題があった。
されど、ここまで虐殺される必要はあったのか?
そう疑念を抱かれたからこそ『平家物語』が痛ましく語られたともいえましょう。
義経はフェアプレー精神を欠く、オーバーキルの天才と言えます。
奇跡といえば聞こえはよい。
後世の人々は義経の悲劇性をクローズアップして、美しくしてきた。
しかし原点回帰をすれば結論は異なる。
義経は、ルール無用の残虐さを用いて敵を殺傷する。
彼もまた、乱世の姦雄だったのです。
天才軍略家は理解されない
三代目将軍・源実朝が非業の死を遂げると、都では「平家に対しあれだけの悪事をしたのだから当然」という声が溢れたと言います。
哀愁感に満ちた『平家物語』でも、残酷に殺されてしまった者たちへの想いが凝縮されています。
これほどの涙を流させ、悪評を流布した一因に、壇ノ浦での悪夢のような殺戮もありました。
源義経のルール違反として、那須与一「扇の的」があげられます。
扇の的を射る与一の姿までは、美しく優雅、フェアプレー精神があります。
しかし、それを讃えるために舞っていた老人まで射殺するとなると、ドス黒い後味の悪さが湧いてくる。
源義経のルール違反は、味方からですら危惧されていました。
そんな義経は、一体どこで戦術を身につけたのか?
「鬼一法眼伝説」があります。陰陽と兵法に通じた法師から『六韜』(りくとう)という兵書を授かったというものです。
もしかして何らかの手段で『孫子』でも入手したのかと考えたくもなりますが、そうでもないでしょう。
『孫子』には、こう書かれています。
将、軍に在れば君命も受けざる所有り。
前線の将軍は君命であっても受け入れられないことはある。
つまり、原則としては君命が上位にあることが前提です。
頼朝と義経の不和には、義経が頼朝の「君命」を無視していることがあります。
だからこそ梶原景時が報告したのでしょう。義経は兵法の常識すら破っていると思えるのです。
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自分の子孫を残すことが生き物の本能であり、それが戦の原動力であり原理となるのか。と問われたら、決してそうではないでしょう。
大昔から敵を倒すことに特化した「殲滅(せんめつ)の天才」がいます。
たとえば獲物を獲るとき、あてもなく動物を待ち続けるより、効率的に取り組んだ方がいいのは当たり前ですよね。
そのために、風向き、日の傾き方、足音、風の音、匂いなど、ありとあらゆる要素から動物の行動法則を見い出し、効率的に狩る――そんな天才狩人は少数ながら人間の集団に存在しました。
人間同士が争うようになると、そうした天才が殺戮に才能を発揮します。
しかしその天才の流儀が伝染し、真似し続けていくと危険です。
ゆえに天才は往々にして排除されるのです。
天才が切り拓き変えた世界を築いてゆくのは、別の才能の持ち主が担うことです。
義経には先天性の才能があった。
彼が何を考えていたのか。
それこそ孫子やら曹操のように兵法書にまとめていれば別でしょうが、それはできません。
後世、彼を美化して美しい悲劇の英雄にしたせいで、余計に実像がわかりにくくなりました。
彼の天才性や、悲劇の物語はもう再生産しなくてもよいでしょう。
いかに彼がおそろしかったか。そのおそろしさゆえに滅びたのか。『鎌倉殿の13人』ではその恐怖感に挑むのではないか?と期待しています。
壇ノ浦の海で、まさかこんなことになるとは思わなかったまま、“化け物”から逃れるため、海に飛び込む平家の女性たち。
震えながら流した涙のことを視聴者が想像して、わかることもあるのでしょう。
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【参考文献】
小島毅『義経の東アジア』(→amazon)
佐藤信弥『戦争の古代中国史』(→amazon)
渡邉義浩『三国志運命の十二大決戦』(→amazon)
石原孝哉『ヘンリー五世』(→amazon)
マシュー・ホワイト/住友進『殺戮の世界史: 人類が犯した100の大罪』(→amazon)
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