『三国志』で人気上位の人物といえば?
時代や国による違いもあり、歴史の影響もあります。
ただ、確実にランク上位に入る人物も何人かいて、その一人が諸葛亮ですね。
たとえ『三国志』に興味がなくとも、字の“孔明”はなんとなく聞いたことがおありでしょう。
最近は、タイムスリップをして現代で活躍する漫画もあるほどですが、一体なぜ諸葛亮はそれほどまで人気を得ているのか?
実は日本では「明治以降人気が急上昇した」と以下の記事にて書かせていただきました。
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「待てあわてるな」日本人は天才軍師・諸葛亮(孔明)をどう見てきた?
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フィクションでは話が盛られすぎて、結果、被害を被ってしまう他の人物が多数いることもまた特徴です。
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三国志フィクション作品による「諸葛亮 被害者の会」陳寿が最も哀れなり
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要するにフィクションで誇張された――と言いたくなりますが、実はそれだけでもありません。
諸葛亮と曹操には、大きな特徴があります。
文才です。
例えば関羽や張飛は、正史を読むとそこまで記述がなくて、ちょっとガッカリしたりするものです。どういう人なのか?ということすらわかりにくい。
一方、諸葛亮と曹操は違います。
彼らが自分で考え、きっちりと残した文章があるがゆえに、どういう人柄か見えてくるのです。
文筆家・諸葛亮としての名文といえば、やはり『出師表(すいしのひょう)』でしょう。
「これを読んで泣かない人はいるか!」
「これぞまさしく忠義!」
そう熱く語られてきた格調高い名文であり、内容も感動的で、書道の題材としても人気があります。
まさしく諸葛亮を知るための格好のテキストであり、中国史に残る名文とされてきました。
◆楷書前後出師表巻(かいしょぜんごすいしひょうかん)東京国立博物館蔵、祝允明筆(→link)
※英語版もあります
出師表
出師表は建興5年(227年)、諸葛亮が劉禅に対して、出陣前に提出したものです。
以下に私なりの意訳を現代語訳で掲載させていただきましたが、あくまでわかりやすさを優先したものであり、ご興味を持たれた方は各自読み下して翻訳に挑んでいただければと思います。
三国のうちでも、最も資源に乏しく、苦境に立たされている蜀。
どうすれば敵である魏に勝てるのか?
そう悩み苦しみつつも、漢の再興こそが主である劉備の遺志であると思いつめた諸葛亮。
「三顧の礼」から半生を振り返り、危機感と悲愴感を劉禅に伝える――そこに込められた思いが、今でも人を動かす。
読む者を感動させてきた名文が、そこにはあります。
※書き下し文→現代語訳へと続きます
出師表 書き下し文
臣亮言す。先帝業を創(はじ)めて未だ半ばならずして、中道に崩殂(そうそ)したまえり。今、天下三分し、益州罷弊(ひへい)せり。此れ誠に危急存亡の秋(とき)なり。然れども待衛の臣、内に懈(おこた)らず、忠志の士、身を外に忘るるは、蓋(けだ)し先帝の殊偶(しゅぐう)を追いて、之(これ)を陛下に報ぜんと欲すればなり。
誠に宜(よろ)しく聖聴を開張し、以て先帝の遺徳を光(かがやか)し、志士の気を恢弘(かいこう)すべし。
宜しく妄(みだ)りに自ら菲薄(ひはく)し、喩(たと)えを引き義を失いて、以て忠諫(ちゅうかん)の路(みち)を塞ぐべからざるなり。
宮中府中倶(とも)に一体たり。蔵否(ぞうひ)を陟罰(ちょくばつ)するに、宜しく異同あるべからず。若し姦を作(な)し科(とが)を犯し、及び忠善を為す者有らば、宜しく有司に付して其の刑賞を論じ、以て陛下平明の理を昭(あき)らかにすべし。宜しく偏私して、内外をして法を異に使(せし)むべからざるなり。
待中、待郎の郭攸之(かくゆうし)、費褘(ひい)、董允(とういん)等は、此(これ)皆良実にして志慮忠純なり。是を以て先帝簡抜(かんばつ)して以て陛下に遺せり。愚以為(おも)えらく、宮中の事は、事大小と無く、悉(ことごと)く以て之に咨(はか)り、然る後に施行せば、必ず能く闕漏(けつろう)を婢補(ひほ)し、広益する所有らん。
将軍の向寵(こうちょう)は、性行(せいこう)淑均(しゅくきん)にして、軍事に暁暢(ぎょうちょう)せり。昔日に試用せられ、先帝之を称して能と曰いたまえり。是を以て衆議、寵を挙げて以て督と為せり。愚以為(おも)えらく、営中の事は、事大小と無く、悉(ことごと)く以て之に咨(はか)らば、必ず能く行陣をして和睦し、優劣所を得しめん。
賢臣に親しみ小人を遠ざくるは、此れ先漢の興隆(こうりゅう)せし所以(ゆえん)なり。小人に親しみ賢臣を遠ざくるは、此れ後漢の傾頽(けいたい)せし所以(ゆえん)なり。先帝在りし時、毎に臣と此の事を論じ、未だ嘗(かつ)て桓・霊に嘆息痛恨せずんばあらざるなり。待中、尚書、長史、参軍は、此れ悉(ことごと)く貞亮にして、節に死するの臣なり。願わくは陛下之に親しみ之を信ぜば、則ち漢室の隆(さか)んならんこと、日を計りて待つ可きなり。
臣は本(もと)布衣(ふい)、躬(みずか)ら南陽に耕す。苟(いやし)くも性命を乱世に全うし、聞達(ぶんたつ)を諸侯に求めず。先帝、臣の卑鄙(ひひ)なるを以てせず、猥(みだ)りに自ら枉屈(おうくつ)し、三たび臣を草蘆(そうろ)の中に顧(かえり)み、臣に諮(はか)るに、当世の事を以てしたまえり。是(これ)に由(より)て感激し、遂に先帝に許すに駆馳(くち)を以てせり。後に傾覆(けいふく)に値(あ)い、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ずるに、爾来(じらい)二十有一年なり。先帝は臣が謹慎なるを知る。故に崩ずるに臨(のぞ)み、臣に寄するに大事を以てしたまえり。
命を受けて以来、夙夜(しゅくや)憂嘆(ゆうたん)し、付託の效あらずして、以て先帝の明を傷つけんことを恐る。故に五月濾(ろ)を渡り、深く不毛に入れり。今、南方已(すで)に定まり、兵甲已(すで)に足る。当(まさ)に三軍を奨率(しょうそつ)し、北のかた中原を定むべし。庶(こいねが)わくは駑鈍(どどん)を竭(つ)くし、姦凶(かんきょう)を譲除(じょじょ)し、以て漢室を興復して、旧都へ還(かえ)さん。此れ臣の先帝に報いて、陛下に忠なる所以の職分なり。
損益を斟酌(しんしゃく)し、進んで忠言を尽くすに至っては、則(すなわ)ち攸之(ゆうし)、褘(い)、允(いん)の任なり。願わくは陛下、臣に託するに討賊興復の功を以てせよ。功あらずんば、則ち臣の罪を治(ち)して、以て先帝の霊に告げよ。若し徳を興すの言無くんば、則ち攸之、褘、允等の慢(おこた)りを責めて、以て其の咎(とが)を彰(あきら)かにせよ。陛下も亦(また)宜(よろ)しく自ら謀りて、以て善道を諮諏し、雅言を察納(さつのう)して、深く先帝の遺詔を追うべし。臣、恩を受け感激に勝(た)えず、今、遠くを離るるに当たり、表に臨みて涕零(ていれい)し、言う所を知らず。
出師表 意訳
先帝(劉備)は、創業をして志半ばにしてお隠れになりました。
今、天下は三分しています。私たちの益州が、一番苦しい状態にあります。
もう、これ以上の予断はできない。危急存亡のときという状態です。
それでも、我々家臣たちはあきらめません!
仕事に励み、戦場では忠義のために命も惜しまぬ勇士が任務を果たしております。それはやはり、先帝への恩顧あればこそなのです。
だからこそ、陛下にきっちりとこの臣下の言葉が届くことを祈っております。
私も真剣に訴えますので、どうかお聞きいただければと思います。ご自身を過小評価なされないでください。言い逃れをして、諫言を避けぬよう、お願いする次第です。
宮廷にいる帝とその近臣と、丞相周辺に意見の相違があってはいけません。
給与や待遇、罰則規定において善を賞し悪を罰することにおいては、(宮廷と丞相府とで)差があってはならないのです。
もし犯罪行為、違法行為をする者、忠誠心を発揮する優秀で善良な者には、役人に命じて、罰則なり恩賞を決めて、私たちこそしっかりした公平正明な政治をしていると、天下に向けて示しましょう。
待中、待郎の郭攸之(かくゆうし)、費褘(ひい)、董允(とういん)等は、どなたも誠実で、考えることも正いものです。だからこそ、先帝が選んで陛下に残したのです。
宮中の事は、そのスケールや重要性に関わらず、どんなことでもこの人たちに相談した上で実行すれば、間違えてしまうこともなく、ちゃんと成功するはずです。
将軍の向寵(こうちょう)は、人当たりが良く誠実で、しかも軍事的な才能に溢れています。かつて先帝が採用された際には、「彼は有能だ」と認めていたのです。だからこそ推挙され、近衛軍長官としてつとめあげております。
軍事については彼にご相談のうえで、実行に移しましょう。そうすれば全軍チームワークを発揮し、目標を達成することができるでしょう。
賢臣を優遇し、しょうもない者は遠ざけたこと。これが前漢が成功した原因です。
これとは逆に、しょうもない者をえこひいきして、まともな家臣の言うことを聞かなかった結果が、後漢の没落です。
そもそも私は一介の平民でした。
南陽で自分が食べていけるだけ農作業をする。どうせ乱世だし、無事に生きてゆければよい。そう投げ出しながら諦めて生きる存在であったわけです。
なまじ諸侯に仕官して名を挙げるよりも、自分なりの生き方を模索する方がよいと思っていました。
そういうただ生きているだけの私の元へ、先帝(劉備)はわざわざ訪れて来ました。
あんなに立派な方なのに、粗末な私の家まで三度も訪れ、今後の取るべき道について意見を求めてきたのです。
もう感動しかありません……。
だから、私は、この先帝について身を捧げると決めて、何がなんでも働いて尽くすと決めたのです。
そのあと当陽で曹操に敗れてしまい、敗走する途中で、命令を受けて呉まで使者として参りました。思えばあれからもう、二十一年も経つのですね。
先帝は、私が謙虚であることをご存じであったのか、最期にこの国を託してくれました。
その遺命を受けてから、あとはもう、朝から晩までこの国のことを考えて、一日として心休まる時はありません。
引き受けたことに応じられなければ、先帝の立派な志まで傷つけてしまう。そのことが怖いのです。
だからこそ、五月には瀘水(ろすい)を超えて、南の地まで遠征し、反乱を抑えたのです。
今、南方は従い、兵も武器も十分に準備できております。今こそ我らの軍により、この老体に気力を満たし、北の中原まで平定しなければなりません!
漢の王室を復再興し、洛陽を奪還せねばなりません!
これぞ先帝の志であり、陛下への忠誠心のあかしなのです。
損益を考えて、誤りのない助言をする者は、郭攸之(かくゆうし)、費褘(ひい)、董允(とういん)です。
ですから、この私には魏を討つべく、お命じいただければと思います。もしそれが叶わない時は、この罪を問い、先帝にご報告なさってください。
もし助言が得られなければ、郭攸之(かくゆうし)、費褘(ひい)、董允(とういん)の怠慢を責め、その罪を明らかにしてください。
陛下はわからない点があれば、臣下にお尋ねください。正しい意見は取り入れ、先帝の御遺志を実現すべく、努力してゆきましょう!
私にはあつい恩義があります、この感激が絶えることはありません。
今、遠征するにあたり、この文を書いているだけで涙があふれ、もう、これ以上何も申し上げることはございません。
後出師表
後出師表は建興6年(228年)に上奏したとされています。
ただ、こちらについては本当に諸葛亮本人が書いたのか、真偽には疑念が呈されています。
主な論点をまとめてみましょう。
◆『三国志』「蜀書」本文中に言及がない/陳寿『諸葛亮集』にもない
ただし、『三国志』そのものに収録できない史料が多いことは指摘されています。
呉の張儼(ちょうげん)『黙記』にのみ収録。裴松之はここから引用したとされています。
魏を露骨に敵視する文言があるからには、収録しにくい状況はあります。
◆まだ生きている趙雲(229年没)が「喪う」の中に入っている
「喪う」が死去ではなく、病気や老齢のため出陣できない状況であった。この程度の差異であれば、考えられることではあります。
◆その他にも、執筆当時の状況に一致しない、固有名詞の誤りや他の資料との不一致点がある
そこはケアレスミスかもしれません。
◆甥である諸葛恪(しょかつかく・呉に仕えた諸葛謹の子)の偽作説あり
こうした真贋論争がある書状として、ひとつ日本での有名な文章にあたってみましょう。
直江兼続の『直江状』です。
直江状も整合性に矛盾点があり、偽作説が囁かれております。
そして現在は
【後世、加筆したと思われる部分はあるが……元となる文書はあったのではないか? 全文が直江兼続のものでないにせよ、彼の手は入っているのでは?】
というところに落ち着いております。
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『後出師表』もそういうことかもしれません。
真贋論争は決着がついていないとはいえ、名文であることは確かです。
こちらもまた書き下し文→現代語訳で見て参りましょう。
後出師表 書き下し文
先帝は漢・賊の両立せず、王業の偏安せざるを慮(おもんぱか)る。故に臣に託するに賊を討つを以てせり。 先帝の明を以て、臣の才を量るに、故(もと)より臣の賊を伐つに才弱く、敵の彊(強)きを知れり。然れども賊を伐たざれば、王業も亦(また)亡ぶ。惟(ただ)坐して亡ぶるを待つは、これを伐つに孰与(いずれ)ぞ。この故に臣に託して疑わざるなり。
臣、命を受くるの日より寝(い)ぬるに席を安んぜず、食らうにも味を甘(あま)しとせず。北征を思惟(しい)するに、宜(よりし)く先ず南に入るべし。故に五月、濾(ろ)を渡り、深く不毛に入り、日を併(あわ)せて食らう。臣、自ら惜しまざるに非(あら)ざるなり。王業は蜀都に偏全(へんぜん)するを得ざるを顧(かえり)み、故に危難を冒して以て先帝の遺志を奉ずるなり。而るに、議する者謂いて計に非(あら)ずと為す。
今、賊適(たまたま)西に疲れ、又東に務む。兵法は労(つかれ)に乗ず。これ進趨(しんすう)の時なり。
謹んで其の事を陳(の)ぶれば左の如し。
高帝は明なること日月に並び、謀臣は淵深なり。然れども険を渡り、創(きず)を破り、危うくして然る後に安し。今、陛下は未だ高帝に及ばず、謀臣は(張)良・(陳)平に如かず、而(しか)るに長計を以て勝ちを取り、坐して天下を定めんと欲す。これ臣の未だ解せざるの一なり。
劉繇(りゅうよう)・王郎(おうろう)は各々州郡に拠る。安んぜんことを論じ計を言い、動(やや)もすれば聖人を引く。群疑(ぐんぎ)腹に満ち、衆難(しゅうなん)胸に塞がる。今歳(こんさい)戦わず、明年征せず、孫策をして坐(ざ)しながらに大となり、遂に江東を併(あわ)せしむ。これ臣の未だ解せざるの二なり。
曹操の智計は人に殊絶(しゅぜつ)し、その兵を用うるや、孫(子)・呉(起)に髣髴(ほうふつ)たり。然れども南陽に困(くる)しみ、烏巣(うそう)に険(けわ)しく、祁連(きれん)に危うく、黎陽(れいよう)に偪(せま)られ、幾(ほとん)ど北山(ほくさん)に敗れ、殆ど潼関(どうかん)に死せんとし、然る後に一時を偽定(ぎてい)するのみ。况(いわ)んや臣の才弱くして、危うからざるを以てこれを定めんと欲するをや。これ臣の未だ解せざるの三なり。
曹操、五たび昌覇(しょうは)を攻むれども下らず、四たび巣湖(そうこ)を越ゆるも成らず、李服(りふく)を任用するも李服これを図る。夏侯(淵)に委ぬれども夏侯(淵)敗亡す。先帝毎(つね)に(曹)操を称して能と為すも、猶(なお)この失あり。况(いわ)んや臣の駑下(どげ)なるをや、何ぞ能く必勝せん。これ臣の未だ解せざるの四なり。
臣、漢中に到りしより、中間朞(き)年のみ。然るに趙雲(ちょううん)・陽羣(ようぐん)・馬玉(ばぎょく)・閻芝(えんし)・丁立(ていりつ)・白寿(はくじゅ)・劉郃(りゅうこう)・鄧銅(とうどう)等及び曲長(きょくちょう)・屯将(とんしょう)七十余人、突将(とつしょう)、無前(むぜん)、賨叟(そうそう)・青羌(せいきょう)の散騎(さんき)武騎一千余人を喪(うしな)えり。
此れ皆数十年の内に糾合する所の四方の精鋭にて、一州の有する所にあらず。若(も)し複(ま)た数年ならば三分の二を損ぜん。当(まさ)に何を以て敵を図るべけんや。これ、臣の未だ解せざるの五なり。
今、民は窮し兵は疲る。而も事は息(や)むべからざず。事息むべからざれば則(すなわ)ち住(とど)まると行くと労費まさに等し。而るに今に及びてこれを図らず、一州の地を以て賊と持久せんと欲す。これ臣の未だ解せざるの六なり。
夫(そ)れ平らげ難きは事なり。昔、先帝、軍を楚に敗る。此の時に当たり、曹操手を拊(う)ちて、天下以て定まれりと謂(い)えり。然る後、先帝、東は呉越を連ね、西のかた巴蜀(はしょく)を取り、兵を挙げて北征し、夏侯(淵)の首を授けたり。(曹)操の失計にして、漢の事、将に成らんとするなり。
然る後に呉、更に盟に違(たが)い、関羽毀敗(きはい)し、秭帰(しき)に蹉跌(さてつ)し、曹丕、帝を称す。凡そ事は此(か)くの如く、逆(あらかじ)め見るべきこと難し。
臣、鞠躬(きくきゅう)尽力し、死して後已(や)まん。成敗利鈍(りどん)に至りては、臣の明の能(よ)逆(あらかじ)め覩る所にあらざるなり。
後出師表 意訳
先帝は、漢王朝と賊の勢力は両立しないとお考えになりました。王業を達成するためには西(蜀)に留まっているわけにはいかないとお思いでした。
だからこそ、私に魏の討伐を託したわけです。
先帝は賢明な方で、私の能力を測った上で、勝利をするためには私はまだ力不足であることと、敵が強大であることもわかっていたのです。
それでも、敵を倒さなければ漢王朝復興はありえない!
私とて、この身を惜しまないわけはありません。
しかし、王業を成し遂げて、ひなびた成都をさらに発展させようと思えば、危険だの辛いだの言っている暇はありません。
ただ滅びるのを待つよりも、こちらから討伐を起こさないといけない、だからこそ、私にこのことを託して疑おうとはしなかったのです。
けれども、これは上策ではないという意見もあるのです。
今日、敵は西では我が軍により苦しめられています。東は、呉の攻勢でこれまた苦しめられてもいる。「相手の疲れにつけ込め!」とあります。今こそ、進撃せねばなりません。
その理由を説明させていただきます。
高祖の聡明さは、まるで空の太陽と月のように輝かしく、家臣たちの策謀は深いものでした。
それでも危機を乗り越え、損害も受け、大変な状態に陥ってからやっと安定を得たのです。
陛下はまだ、高祖には及びません。家臣だって、張良や陳平ほどのものはいない。
それなのに、いつまでもぐずぐずと現実逃避をしていて、何もしないで天下が取れたらいかな程度の気構えでした。これが、私には理解できないことその一。
劉繇(りゅうよう)・王郎(おうろう)は自分の領地を長官として治めていましたね。
そして安全さえ確保できればいいと現実逃避して、すぐに聖人だのなんだのちょっといい話トークをしているだけで何かやったつもりになっていました。
そんなことしても何も解決できずに課題がたまるだけで、スルーばかりする。戦うことをなんやかんやと避けて、先延ばしにして、いつまでたっても戦わない。
だから孫策に即座に負けて、江東を支配されたわけです。これこそ私がわからないこと、その二です!
曹操の知恵と計略は、大したものですよ。
その用兵術は、孫子や呉起を思い出させます。
でも、それなのに南陽で苦戦し、烏巣(うそう)でも危なかったし、祁連(きれん)でもピンチに陥ったし、黎陽(れいよう)は敵軍が肉薄するわ、北山(ほくさん)は敗北するし、潼関(どうかん)では死にかけるし。
そこまで、苦労に苦労を重ねて、やっと天下にリーチをしたわけです。
ましてや才能で劣る私が、ノーリスクで天下を得られるわけがない。
これも私がわからないこと、その三です!
曹操は五回も昌覇(しょうは)を攻めても支配できず、四たび巣湖(そうこ)を越えても呉を得られず、李服(りふく)を任用したのに李服に背かれるし、夏侯(淵)に指揮を任せたら夏侯(淵)は敗死してしまいました。
先帝はいつも、曹操の才能を褒めていましたが、それでもこれだけ失敗しているのです。
ましてや私が常に勝ちを収め続けるなんて、期待されてもできるわけがありません。
これも私がわからないこと、その四です!
思えば漢中を支配して一年ほど。
それなのに、損害はこれだけ膨大なのです。
趙雲(ちょううん)
陽羣(ようい)
馬玉(ばぎょく)
閻芝(えんし)
丁立(ていりつ)
白寿(はくじゅ)
劉郃(りゅうこう)
鄧銅(とうどう)ら
曲長(きょくちょう)、屯将(とんしょう)※部隊長のこと:70余名
突将(とつしょう、突撃部隊)、無前(むぜん)、賨叟(そうそう)、青羌(せいきょう)の散騎(さんき)※異民族部隊、武騎(騎兵)1000人余り
この損失は精鋭であって、益州一州からのみ集めたわけでもないのです。
もしまた数年かかれば、三分の二は失ってしまうことでしょう。
それでどうやって敵と対峙しますか?
これも私がわからないこと、その五です!
もう民は生活苦に喘ぎ、兵は疲れ切っています。もう時間はないのです。もうやめられません。攻めるにせよ、守るにせよ、労力も費用も同じようにかかるのです。
今ここであきらめたら、益州一州だけで敵との持久戦に挑むこととなってしまう。
これも私がわからないこと、その六です!
もちろん天下平定が難しいことはわかっています。
かつて先帝が楚で敗れたとき、曹操はこれで天下が取れたと手を打って喜びました。
けれども、先帝は東の呉越と同盟し、西の巴蜀を取り、挙兵し北へ攻め上り夏侯淵の首をあげたのです。
これぞ曹操の誤算。漢復興が見えてきたのでした。
それなのに、蜀と呉は対立し、関羽は敗れ、先帝もお隠れになり、曹丕が帝位を簒奪しました。天下の流れとは、これほどまでに、まったく予想もつかないことです。
私は、先帝のご遺志を守り抜くため、あらんかぎりの力を尽くします。この挑戦は、死んでから終わるもの。一生涯続くものです。
勝敗がどうなるか、私から述べることは控えさせていただきます。
曹操の才を認め 本人は自信を持たず
『後出師表』を読んでわかるのは、諸葛亮自身が自分の軍事的才能にそこまで自信を持っていなかった、という点です。
そのことを「蜀書」で指摘されただけで、あそこまで叩かれた陳寿は一体どういうことなのか……そう言いたくもなりますが、それが史実であるとは思えます。
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三国志フィクション作品による「諸葛亮 被害者の会」陳寿が最も哀れなり
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むしろ劉備ともども、曹操の圧倒的な才能を認めていたこともわかります。
フィクションでさんざん敗北を誇張される曹操ですが、その軍事的な才能の評価は高い。なんといっても『魏武注孫子』があるほどです。
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中国の歴史には、曹操ほど軍事的な才能がなくとも、王朝を開いた人物はいるように思えます。
では、なぜ曹操は天下を統一できなかったのか?
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そのことは、歴史に残る謎です。諸葛亮もその謎を考えていたことがわかります。
彼本人の言葉からは、フィクションで肉付けされた像との違いも見えてきます。
彼自身、軍事的な才能はないとわかっている。
それでもやる!
その前のめりな決意が、随所に現れています。
この姿勢が、後世を生きる人々に勇気を与えてきました。
蜀に追い詰められた諸葛亮のように、故郷や国を失った人々。
目標や大志をつかめず、挫折を味わっている人々。
危急存亡のときを迎え、踏み出すために現実と直視する人々。
そんな彼らの胸に、この名文がどれだけ響いてきたことか。
普遍的な感動が、そこにはあります。
諸葛亮がいてよかった!
世界史の教科書で三国時代を調べ、わずか数行で終わる記述にガッカリしたことはありませんか?
諸葛亮が生きた時代は、長く続く魏晋南北朝時代の初期にあたり、史料も少なく、歴史的な重要性という意味ではあまり大きくありません。
劉備と諸葛亮の願いは叶わず、天下は乱れ続けます。
三国時代の英雄たちである劉備、曹操、孫権は、誰も結局は統一をつかめません。
後味の悪い魏の乗っ取りによって、司馬懿の子孫たちが東晋を建国。
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その東晋も長続きはせず、天下は乱れに乱れました。
人口の七割が激減したという見方もなされるほど、激動の時代です。
前漢から続く気候の寒冷化。
統計が乱れに乱れてしまうほど、乱れる政治。
人の命も生活も破壊され、何もかもが根底から変わってしまう――そんな困難が待ち受けていたのです。
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そんな苦い歴史を考えると、諸葛亮がいてよかったのだとしみじみと思えてきます。
あんな大変な時代に、命ある限り、忠義を尽くすために、困難に挑み続ける人物がいた――彼こそが諸葛孔明!
その姿を思い、文章から伝わってくる悲愴感を味わうと、どうしたって心を動かされてしまう。
道理でも勝敗でもない、人の心を動かすものが湧き上がってくる。
だからこそ、人はこの文章を読み続け、感動してきたのだと思えます。
この世界に困難と、それに挑む不屈の意思がある限り、『出師表』は今日も誰かを感動させ、諸葛亮の生き方は誰かを泣かせ続けるのでしょう。
後味の悪い司馬懿親子による東晋建国に至るまでのこと、そして初めて『三国志』に触れたときのことを思い出すと、しみじみと諸葛亮がいてよかったと思えてきます。
彼の生き方と『出師表』には、知恵だけではない、忠義や徳といった、めざすべき姿があると思えるのです。
諸葛亮の人生と言葉は、コロナ禍という危機に直面する現在を生きる人々のことも、きっと勇気づけてくれることでしょう。
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【参考文献】
守屋洋『中国古典の名文集』(→amazon)
『正史 三国志』(→amazon)
他












