大河ドラマ『軍師官兵衛』には、印象的な三人の家臣が登場していました。
彼らは常に官兵衛を補佐してきた黒田家の重臣であり、以下の記事で栗山善助も母里太兵衛も取り上げられています。
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本日はラストの一人・井上九郎右衛門(之房・ゆきふさ)に注目。
寡黙でクール、智謀に長けており、静かな情熱を秘めた人物であり、時には一騎打ちを見せたり、そうかと思えば音楽を得意とする一面もあったり。
母里太兵衛のエピソードにはかなわないまでも、官兵衛の側近だけあってやはり面白い武将であることは間違いありません。
寛永11年(1634年)10月22日に亡くなった、九郎右衛門の生涯を振り返ってみましょう。
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小姓として官兵衛の父に仕えた井上之房
九郎右衛門(井上之房)は天文23年(1554年)生まれ。
官兵衛より8才年下、栗山善助から見ると3~4才の年下になります。
父は井上之正で、九郎右衛門の生誕地は、播磨国飾東郡松原郷(現・姫路市白浜町松原)でした。
奈良時代に建立された松原八幡神社から姫路城(室町時代)まで、現代の道路で約8km(22分)の距離。
当時であれば徒歩20分といった距離でしょうか。
九郎右衛門は、小姓として官兵衛の父・黒田職隆(もとたか)に仕えました。
職隆が隠居後も彼に仕えていたのですが、天正6年(1578年)、衝撃的な事件が起きます。
黒田官兵衛が荒木村重に監禁されたのです。
有岡城で織田信長に反旗を翻した村重を説得に出向いたときに、そのまま幽閉されたのでした。
官兵衛が仕えていた小寺政職(こでらまさもと)が裏切り、官兵衛の殺害を村重に頼んでいたとも伝わります。
このとき九郎右衛門は、母里太兵衛や栗山善助と共に、一致団結して家を守ることを決意。
留守職中連署起請文に名を連ねております。
九州平定後に6千石を拝領
有岡城での官兵衛・監禁生活は約1年にわたりました。
黒田職隆に仕えていた九郎右衛門(井上之房)も、有岡城での活動に携わったりましたが、その後しばらくの詳細は不明です。
豊臣秀吉に付き従って活躍した官兵衛の軌跡をザッと記しますと……。
・1579年 竹中半兵衛、死
・1579年 有岡城の戦いに勝利→官兵衛解放
・1580年 三木城を陥落させる(三木の干し殺し)
・1581年 鳥取城を陥落させる(鳥取の渇え殺し)
・1582年 備中高松城を包囲(水攻めを開始)
・1582年 本能寺の変
・1582年 山崎の戦いに勝利
・1583年 官兵衛、大坂城の縄張り
・1583年 賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝家に勝利
・1584年 小牧・長久手の戦い
・1585年 四国攻めで長宗我部元親が降伏(土佐一国に)
・1585年 秀吉、関白に就任
・1585年 石川数正が徳川家を出奔して秀吉の傘下へ
・1586年 秀吉、太政大臣に就任
目まぐるしく情勢が移り変わり、そして秀吉の出世していく様が見てとれますね。
九郎右衛門は、天正13年(1585年)に職隆が没すると、遺命によって官兵衛に仕えることとなりました。
天正15年(1587年)の九州平定後の豊前入国の際には、6千石を拝領。
ほどなくして発生した国人一揆では、黒田長政と共に城井鎮房を攻めて、敗北を喫しています。
このとき、九郎右衛門は長政の軽挙妄動を諫めたとされ、後に黒田家は城井一族を皆殺しにすることになります。
人質と引き換えに城井家の助命嘆願を秀吉に願い出ていたのですが、ついに許可が下りなかった末の決断でした。
その後。
文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵【文禄・慶長の役】にも参戦。
着実に黒田家重臣としての道を歩むこととなり、大河ドラマでも終盤にて、見せ場を用意されています。
それが吉弘統幸(あの立花宗茂の従兄弟)を相手にした一騎打ちです。
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