吉弘統幸

吉弘統幸/wikipediaより引用

大友家

吉弘統幸の生涯|戦国九州で名を馳せた宗茂の従兄弟は黒田軍に突撃して散った

2024/09/12

慶長5年(1600年)9月13日は吉弘統幸(よしひろ むねゆき)が亡くなった日です。

九州の武将であるせいか、あるいは主君の大友家が残念な終わり方をしたせいか。

一般的な知名度は低いですが、少し深掘りするとこの一族丸ごと凄まじく、例えば西の戦国最強と称される立花宗茂とは従兄弟の間柄。

もっと多くの戦国ファンに知られて欲しい武将たちであります。

その中で吉弘統幸はどんな活躍があったのか?

吉弘統幸/wikipediaより引用

生い立ちから振り返っていきましょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

吉弘統幸は紹運の甥で宗茂とはイトコ

吉弘統幸は永禄六年(1563年)、大友氏の家臣・吉弘鎮信(しげのぶ)の嫡男として生まれました。

父の鎮信と、立花宗茂の父・高橋紹運(じょううん)は兄弟なので、前述通り、その息子である統幸と宗茂は従兄弟の関係となります。

この時代の大友家臣はあっちこっちに養子に行き、婚姻関係も複雑にからんでますので、以下に、省略した系図で確認しておきましょう。

戦国武将としては若い世代に入る吉弘統幸。

この吉弘家は祖父の吉弘鑑理(あきただ)も名将として知られ、吉岡長増、臼杵鑑速(うすき あきすみ/あきはや)と合わせて【大友三老】あるいは【豊後三老】などと呼ばれます。

吉岡長増の代わりに立花道雪が入ることもありますが、いずれにせよ吉弘統幸も大友家の中枢に生まれたことがご理解いただけるでしょう。

しかし、その道は決して平坦ではありませんでした。

天正六年(1578年)に島津軍と対峙した【耳川の戦い】で大友家が大敗を喫し、父の吉弘鎮信が戦死、15歳の若さで統幸が家督を継ぐことになります。

すると、早くも天正八年(1580年)、同じく大友家臣の田原親貫(たばる ちかつら)が反乱を起こし、統幸は戦功を挙げていますので、家中からは「頼もしい若者」と思われていたことでしょう。

その後、大友家が豊臣秀吉の傘下となり、島津征伐が行われたときも、活躍しています。

緒戦である天正十四年(1568年)【戸次川の戦い(へつぎがわ)】です。

 


戸次川の戦いで殿をつとめた吉弘統幸

戸次川の戦いは「豊臣家からの現場司令官・仙石秀久の失策により、九州・四国の諸将が敗れた」ということで有名です。

仙石秀久の肖像画

仙石秀久/wikimedia commons

この敗戦の中で、吉弘統幸は獅子奮迅の働きをしました。

島津軍の追撃を受ける主君・大友義統(よしむね)や長宗我部軍、仙石軍らを救援するため、たった300の手勢で殿(しんがり)役に抜擢。

300を三隊に分け、

一陣:鉄砲
二陣:弓
三陣:長槍

の三段構えを取り、島津軍の渡河を中断させたといいます。

残念ながら長宗我部軍では嫡男の長宗我部信親が奮戦の末に討ち死にしてしまいましたが、大友義統は無事引き上げさせることができました。

また、これによって島津軍の府内侵攻を一日遅らせることに成功しています。

このとき統幸23歳。

あの精強な島津軍を相手に、実に鮮やかな戦ぶりです。

おそらく、この後に従弟である立花宗茂が島津への攻勢でさらに大きな戦功を挙げたため、吉弘統幸の働きは目立たなくなってしまったのでしょう。

撤退戦を成功させるのはスゴイ才能のはず。

少なくとも、金ヶ崎の退き口(金ヶ崎の戦い)と同等の評価を受けてもいいと思うのですが、知名度と主君のレベルが違いすぎるんですかね。なんせ大友義統が……。

 

秀吉の怒りを買って大友義統はアッサリ改易

吉弘統幸らの働きによって命と立場を拾った義統。

その後、天正二十年(1592年)【文禄の役】で大ポカをやらかしてしまいます。

小西行長からの救援要請が来たとき、直後に「小西隊全滅」の誤報も来たため、救援に行かず撤退してしまったのです。

小西行長の浮世絵

小西行長/wikimedia commons

これが秀吉の怒りを買い、あっさり改易されてしまいました。

といっても、小西隊からの救援要請をスルーした大名は他にもいたので、秀吉に報告される途中で何らかの恣意が働いたんですかね。

あるいは「(元から能力が疑わしい)義統に、九州北部という(唐入りに関しての)前線地域をずっと任せておけない。今度のことは改易する良いキッカケだわ」と判断されたのかもしれません。

大名本人がアレでも、家臣が優秀で生き残ったという例はいくつもあるんですけどね……大友家臣の優秀さは折り紙付きですし。

その後、義統はあっちこっちの大名にたらい回しにされ、同家の家臣については助け舟が出されました。

吉弘統幸もその一人で、黒田如水(黒田官兵衛)に招かれ、黒田家の重臣・井上之房の家に一時預けられています。

ほとぼりが冷めると、柳川城主として秀吉の直臣大名になっていた立花宗茂の元へ身を寄せて仕え、2000石を与えられました。

【慶長の役】では、立花軍の一員として参加しています。

そりゃ立花隊が強いわけですわ。

 

旧主を見捨てることができず関ヶ原では西軍へ

慶長五年(1600年)の時点で、吉弘統幸は立花家におりました。

しかし、当時の大友家当主・大友義乗(よしのり)は、このころ徳川家に仕えており、家康に「今度の戦で手柄があれば、豊後一国で大名に復帰させても良い」と言われたこともあり、東軍で働く決意を固めていたといいます。

そのため、吉弘統幸も立花家を辞して東へ向かい、義乗の下へ馳せ参じようとしていました。

そこで運命の歯車が狂い始めます

隠居していた大友義統が西軍につき、力尽くで旧領を取り返そうと考えたのです。

大友義統の浮世絵

大友義統/wikimedia commons

あれだけ優秀な家臣がいて改易されたのに、随分と大それたもの。

しかし旧領に戻ると、旧大友家臣や周辺の有力者がぞろぞろ集まってきたというのですから、名家の威光ってやつでしょうか(あるいは担ぎ上げられたか)。

東へ向かっていた吉弘統幸も途中で義統と出会い、話を聞くと「義乗様は徳川方につくおつもりですから、どうかご一緒に」と進言しました。

これを義統は聞き入れません。

旧主を見捨てることもできず、統幸は義統に従います。

引き返すことのできない最後の分岐点でした。

 


黒田の先鋒隊に快勝も

吉弘統幸は、細川家の重臣・松井康之が留守を預かる杵築城を攻撃。

しかしその途中で黒田家の援軍がやってきて、城攻めを中断して野戦となります。

戦場となった場所の地名をとって【石垣原の戦い】と呼ばれています。

ここでも吉弘統幸は奮戦し、黒田軍の先鋒隊相手に大勝利を収めました。

ただ……黒田軍のトップである黒田官兵衛がいつ救援に向かってくるかもわからず、大友軍の士気はイマイチ上がりきりません。

黒田官兵衛の肖像画

黒田官兵衛/wikimedia commons

基本的にどんな戦でも、総大将が来れば士気は急上昇するものです。

そのタイミングがつかめないと、相手側にとってはハラハラしっぱなしになるわけで、心理戦術の一つともいえましょう。

元から士気が高ければ、「敵の総大将が来る前にコテンパンにしてしまえ!」ということもできますが、統幸はともかく大友軍のトップは義統。

「あとはわかるな?」状態です。

 

三十ほどの騎兵を率いて黒田隊に突撃

かくして士気がジリ貧になる中、吉弘統幸は覚悟を決めてしまいます。

義統に今生の別れを告げると、三十ほどの騎兵を率いて黒田軍に突撃し、見事討ち死にするのです。

最期はかつて黒田家に預けられていた際、世話になっていた井上之房に功績を与えるため、自刃した後に首を取らせたとか。

井上之房の肖像画

井上之房/wikimedia commons

真田幸村(信繁)も大坂夏の陣の際、そんなエピソードが残っておりますが、後世の者達が勇者の最期を称えたい願望が反映されるのかもしれません。

※幸村の最期は混戦のドタバタで誰かに討ち取られたとか、福井藩士・西尾仁左衛門に討ち取られたとも伝わります

また、壮絶果敢な最期は、叔父である高橋紹運の死に様も彷彿とさせますね(高橋紹運は【岩屋城の戦い】で島津家の大軍相手に寡兵で戦い抜き、戦死)。

大友義統は黒田家に降伏して生き延びました。

ただし、秋田実季の預かりという情けない状態で……。

 


名家・大友家は高家旗本として存続している

その後の大友家は、一時断絶してしまったものの、【高家旗本】として復帰・存続しています。

「高家旗本」とは、朝廷の接待や寺社との連絡などをする旗本で、由緒ある家柄しかなれないとされる役職です。

有名どころでは元禄赤穂事件(忠臣蔵)の被害者・吉良義央(きらよしひさ)や、今川直房(今川氏真の孫)などですね。

彼らは足利家の流れを汲む名家のため、高家にふさわしいとみなされていました。

大友家も元は藤原氏系で、鎌倉時代から豊後守護を務めていたため、充分に名家と言えます。だからこそ義統の残念さと、家臣たちの優秀さが際立つのでしょう。

現在、統幸をはじめとした吉弘家の人々の軌跡は、豊後高田市の【都甲地域歴史資料展示場】で見ることができます。

せっかくですから吉弘統幸・紹運・宗茂ゆかりの地を連続して訪れたいものですけれども、全てを一回の旅行で見るには距離がありすぎてなかなか難しそうです。

季節限定で直通の高速バスなどがあれば嬉しいのですが。

大友家の家臣にはそれぞれに根強いファンがいますし、大友家全体で大河化でもすれば希望が持てますね。

そうすれば、一般的に大河での懸念事項とされている朝鮮の役もあまりクローズアップしなくて済むでしょうし、ぜひその方向でお願いしたいものです。

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とにかく魅力的な方ばかりですからね。

ちなみに先程の大友三老(豊後三老)である

・吉弘鑑理(よしひろあきただ)

・臼杵鑑速(うすきあきはや)

・吉岡長増(立花道雪)

たちも、毛利家の吉川元春・小早川隆景と真っ向勝負【多々良浜の戦い(1569年)】を行っており、結果は引き分けでした。

両軍合わせて数万という規模の戦いからして、いかに大友家の家臣たちが有能かご理解いただけるでしょう。

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【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
山本大/小和田哲男『戦国大名系譜人名事典 西国編(新人物往来社)』(→amazon
吉弘統幸/wikipedia
地域の戦国武将・吉弘統幸の基礎知識/豊後高田市
都甲地域歴史資料展示場/豊後高田市

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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