九州の戦国武将と言えば、どの一族を思い浮かべますか?
やはり最初に挙がるのは島津家でしょう。
義久・義弘・歳久・家久の四兄弟はインパクトがあるし、何と言っても鎌倉時代の島津忠久から続く超名門――九州で彼らに勝てる一族など他にいま……した。
大友家です。
さすがに島津に勝てるとまでは申しませんが、大友家のルーツとなる初代・大友能直(おおともよしなお)は鎌倉時代の武将。
三代目の大友頼泰以降、豊後(大分県)を中心に勢力を拡大させ、戦国時代には大友宗麟が九州エリアの半分を制するにまで躍進するのです。
九州は島津家だけじゃない!
むしろ大友家の方が面白いかもしれない!
実はキャラクター揃いの大友軍団。
今回はその中から、大友宗麟を支えた吉弘鑑理(よしひろあきただ)に注目します。
詳細は後述しますが、この鑑理、豊臣秀吉から“戦国最強“と称えられた立花宗茂の祖父なのです。

立花宗茂イメージ(絵・小久ヒロ)
大友氏一族・田原氏の分家に生まれた吉弘鑑理
吉弘鑑理(よしひろあきただ)の生まれた吉弘家は、血筋がいささか複雑です。
大友氏の一族に属し、かつ田原氏一族の分家筋というもの。
父は吉弘氏直で、彼が活躍した時代には既に忠臣として大友家の歴代当主に重用されていました。
しかしながら鑑理の生年は不明。
青少年期についても詳しいエピソードが現存しておらずハッキリしたことはわかりません。
天文3年(1534年)に大友氏と大内氏の間で発生した【勢場ヶ原(せいばがはら)の戦い】によって氏直が戦死してしまったため、恐らくこのころ家督を継承したものと思われます。
ただし、彼が大友家で存在感を増してくるのは弘治年間(1555年~)に入ってからですので、1534年に家督を継承したときは幼子だった可能性もあります。
その場合は、成人するまでは誰かしらの後見があったかもしれません。
なお「弘治年間からの存在感」というのは、大友家の重大事件に影響を受けています。
天文19年(1550年)に当時の主君・大友義鑑(よしあき)が【大友二階崩れの変】によって殺害され、その息子である大友宗麟(大友義鎮)が家督を継ぐという出来事があったのです。

大友宗麟こと大友義鎮/wikipediaより引用
鑑理の活躍が始まったのは、宗麟の家督継承や台頭と時期が重なっており、後に九州の半分を支配する大友家の栄光を支えていたことがわかります。
古処山城の戦い
大友宗麟のもと、軍事や政治など多方面で活躍した吉弘鑑理(よしひろあきただ)。
歴史の舞台に登場した頃から猛将かつ智将としてその名を轟かせていました。
その一例が【古処山城(こしょさんじょう)の戦い】です。
古処山城とは筑前国(現在の福岡県)にある難攻不落の山城。
秋月氏の拠点であり、当時は秋月文種(あきづきふみたね)が九州エリアの大友氏と中国エリアの大内氏に割って入るようにして独自の立場を築いていました。
やがて大内氏が滅亡すると、文種は「秋月本家の再興!」をスローガンに掲げ、弘治3年(1557年)、毛利氏らと結託して大友に反抗する姿勢を見せます。
古処山城は標高約1,000メートルに位置する堅城ですから、守りには相当な自信があったのでしょう。
文種は大友に対して挙兵すると、周辺の国衆に支援を呼びかけ勢力拡大を狙いました。
この古処山城の攻略を命じられたのが吉弘鑑理でした。

絵・小久ヒロ
『正攻法で落とすのは難しい……』
難攻不落の堅城を前にした鑑理は、調略による切り崩しを目論見ます。
結果、作戦は見事に成功し、秋月氏の家臣である小野四郎左衛門尉という人物が文種を殺害。
息子である秋月種実(たねざね)は取り逃がしてしまったものの、鑑理の働きにより大友氏はこの地の支配権を手にします。
【豊後三老】の一角として
永禄2年(1559年)には毛利氏と通じた筑紫惟門が博多を占拠。
これに呼応した国衆たちがまたもや蜂起します。
吉弘鑑理(よしひろあきただ)もこの鎮圧に参加しましたが、最大8か国の守護職を務める大友家の支配地域ではこうした反乱が頻発しておりました。
詳細は不明ながら、敵対する国衆を鎮圧するため、鑑理が戦場を駆け回っていたのは間違いないでしょう。
永禄元年(1558年)ごろになると、鑑理は大友家家臣の中で最高の役職である「加判衆」の一員に列せられるほどで、評価の高さがうかがえます。
なんせ鑑理は、
立花道雪
臼杵鑑速(うすきあきすみorあきはや)
と並び【豊後三老】の一角として数えられるほど。

立花道雪/wikipediaより引用
その名に劣らず宗麟の側近として大友家の領土拡大に貢献し続けました。
永禄5年(1562年)には、毛利氏の手に落ちてしまった豊前(現在の福岡県)地域を奪還すべく遠征を敢行し、立花道雪とともに門司城の城兵を多数討ち取るという功績も挙げています。
ただし、このときの敵は謀将として名高い毛利元就。
城そのものを得ることはできず、元就の巧みな外交手腕に翻弄され、なかなか講和もまとまりません。

毛利元就/wikipediaより引用
そうこうしているうちに、宗麟が信頼を置いていた家臣に裏切られるという大きな事件が発生してしまいました。
大友家の岩屋城・宝満城の管理を任されていた高橋鑑種(あきたね)です。
立花城を占拠
岩屋城・宝満城の高橋鑑種は、永禄5年ごろから毛利氏と密かに協力関係を築いておりました。
鑑種は目立たぬように周辺勢力の国衆を味方につける工作を進めていたのですが、この知らせを耳にした宗麟は嘆き悲しみます。
この一件で猜疑心を煽られたのでしょう。宗麟はさらなる寝返りを警戒しました。
立花鑑載(あきとし)です。
高橋鑑種に続かれてはたまったものではない。
そう考えた宗麟は永禄8年(1565年)、吉弘鑑理(よしひろあきただ)と道雪に命じて立花城を占拠させ、立花鑑載の動向を絶えず監視することにしました。
事態が動いたのは永禄10年(1567年)のこと。
高橋鑑種が兵を挙げ、筑紫広門(つくしひろかど)や龍造寺隆信が呼応する動きを見せました。

龍造寺隆信/Wikipediaより引用
岩屋城から宝満城に移動して立てこもる鑑種を鎮圧するため、吉弘鑑理・立花道雪・臼杵鑑速の三老全員が派遣され、城に圧力を加えたものの、抵抗は根強く攻め落とすまでには至りません。
すると高橋鑑種の動きに乗じる形で、先に攻め滅ぼしていた秋月文種の息子・秋月種実が挙兵し、鑑理らはそちらにも対応せねばならなくなりました。
息子の弥七郎が高橋家に入り“紹運”に改名
三老は兵を秋月種実のいる古処山城へと進めます。
しかし、奇襲に遭うなどして攻略は一筋縄では済みません。
道雪の奮戦などで秋月勢との戦は一進一退を繰り返しながら、筑前一国が反乱勢の手に落ちかねないほど押されていきました。
コトここに至って、大友勢はさらなる裏切りによって危機的状況を迎えます。
兵を挙げたのは、以前から裏切りを警戒していた立花鑑載(あきとし)です。
大友勢からすれば「案の定」という気持ちだったのでしょうか。
知らせを耳にした道雪らは立花城へと急行、永禄11年(1568年)に総攻撃を仕掛け、見事、同城を攻め落とします。
その後、立花城の管理を任されたのが他ならぬ吉弘鑑理(よしひろあきただ)でした。
ただし、依然として高橋鑑種の籠もる宝満城は陥落できず、さらには立花城奪還を目論む毛利勢が攻め込んできて、激しい戦いが繰り広げられます。
一連の戦いにカタがつくのは翌年のこと。
立花城督である吉弘鑑理が和睦交渉を進めた結果、鑑理の次男である弥七郎が【高橋紹運】と名を変えて高橋家の養子に入り、高橋鑑種に代わって岩屋城・宝満城を監督することになりました。

高橋紹運/wikipediaより引用
この高橋紹運(じょううん)という名を聞いたことがおありでしょうか。
寡兵で島津家相手に奮戦し、壮絶な死を遂げた武将であり、豊臣秀吉に戦国最強と称えられたという立花宗茂の実父でもあります。
つまり鑑理は宗茂の祖父ということになりますね。
祖父・吉弘鑑理
│
父・高橋紹運
│
子・立花宗茂
ちなみに、毛利方との戦いにおいては長男の吉弘鎮信も多数の功を挙げており、この一族は猛将揃いと言えましょう。
戦場に散った息子たち
立花城をめぐる戦いの終結後、吉弘鑑理(よしひろあきただ)は引き続き龍造寺討伐戦や筑前地域の統治に活躍します。
が、この時期にはすでに加判衆の面々から外れており、一線を退いていたと考えるほうが自然です。
単純に高齢のためか、息子たちの活躍に安心したか、あるいは度重なる裏切りに辟易としたか……。
いかなる考えで身を引いたのかは不明ですが、彼の引退時期と重なるように大友家は衰退の兆候を見せるようになります。
元亀2年(1571年)に鑑理は亡くなり、跡を継いだのは長男の吉弘鎮信(しげのぶ)です。
この元亀年間から天正年間初期にかけては、同じく三老の一角を形成した臼杵鑑速と【宗麟の知恵袋】と称された吉岡宗歓が立て続けに亡くなっており、大友家の体制が大きく変わりつつありました。
以後、彼らは急成長を遂げる島津氏の猛攻にさらされ、危機的状況を迎えるようになっていきます。
特に、天正6年(1578年)に勃発した【耳川の戦い】で大敗を喫すると、多数の将兵を失った大友家の戦力は一気に傾いてしまうのです。
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耳川の戦い1578年|島津軍が釣り野伏せで大友宗麟に完勝!九州覇者へと躍り出る
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この戦には父譲りの猛将として知られていた鎮信も参戦しました。
が、歴戦の重臣を立て続けに失っていたことで命令系統に支障が出たためか、戦の方針をめぐって大友家臣団は強硬派と慎重派に分裂。
まとまりを欠くまま、敵・島津の伏兵戦術に翻弄され、鎮信を含め多数の家臣が亡くなるという大惨事を迎えてしまうのでした。
★
広大な九州エリアの半分を制し「九州の覇者」と目されていた大友家。
島津に大敗を喫してからは勢力に陰りを見せ、再び周辺国衆の反乱に苛まされるようになります。
しかし次男の高橋紹運、立花道雪、その息子・立花宗茂によって奮戦は続くのです。
亡くなった嫡男・吉弘鎮信にも、これまた猛将と呼べる息子・吉弘統幸(むねゆき)がいて、彼らと共に島津に対抗します。

吉弘統幸/wikipediaより引用
関東や関西から距離のある“九州”が舞台のためなのか。
あまり話題にならない大友家は、実は島津家にも劣らぬキャラクター揃いです。
【吉弘鑑理―高橋紹運―立花宗茂】という三代で大河ドラマになったら、大きな話題になるのではないでしょうか。
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【参考文献】
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
外山幹夫『大友宗麟(人物叢書) 』(→amazon)
竹本弘文『大友宗麟 大分県先哲叢書』(→amazon)
三池純正『九州戦国史と立花宗茂』(→amazon)






