大河ドラマ『豊臣兄弟』で注目されている美濃三人衆。
文字通り美濃斎藤家を支える三人の戦国武将であり、ドラマでは竹中半兵衛の舅でもある安藤守就がクローズアップされがちです。
しかし、三人の中では稲葉一鉄(良通)が事実上の筆頭であり、織田家に降ってからも信長に最も信頼され、そして出世をしました。
美濃三人衆の稲葉一鉄とはどんな人物だったのか、振り返ってみましょう。
衝撃!父と5人の兄が牧田の戦いで戦死
稲葉一鉄は永正12年(1515年)生まれ。
美濃三人衆のうち安藤守就はそれより10年ほど早くに誕生し、氏家卜全はほぼ同世代と目されています。
一鉄の父は稲葉通則で、母は国枝正助の娘とされ、もともと稲葉家は伊予国(愛媛県)河野氏という名門の末裔を称していました。
それが祖父・稲葉通貞(塩塵)の代から美濃へ移り、土岐氏に仕える家臣となります。
一鉄は六男です。
当時の六男といえば家督を継ぐ可能性は低く、家臣として兄に仕えるか、他家に送られるか、あるいは出家の道を選ばされるのが常であり、案の定、一鉄も崇福寺という寺に預けられます。
何もなければ仏道で一生を送る予定だったでしょう。
しかし大永5年(1525年)、稲葉家にとっては悪夢が訪れます。
近江浅井氏との間で「牧田の戦い」が勃発すると、なんと、一鉄の父および兄5人が全員討ち死にしてしまったのです。
いくら戦国の世といえども、一度にこれだけの親兄弟を失った人物は他に例がないのでは? 何か狙われてたんじゃないか?
そう勘繰りたくなりますが、ともかく、こうなっては六男の一鉄に声がかかるのは当然のこと。
環俗して稲葉家に戻ると、祖父の稲葉通貞(塩塵)と叔父の稲葉忠通が後見となり、本拠地・曾根城主となりました。

稲葉一鉄(稲葉良通)/wikimedia commons
「棚からぼた餅」と言うべきか「不幸中の幸い」と言うべきか。
こうして歴史の表舞台に登場することになった一鉄は、自身の優れた能力を発揮して戦国の世を渡っていくことになるのです。
道三との姻戚関係で力をつけ
家督を継いだ稲葉一鉄は、当初は父と同様に土岐氏の配下となります。
そして斎藤道三の策略によって土岐頼芸が国を追われると、その後は道三に仕えて彼の出世が始まります。
一鉄の姉が道三の妻だっため、重用されたとか。
実際、史料にも頻繁に名が登場するようになり、安藤守就や氏家卜全らと連名で文書に署名をするなど、美濃国内でも有力な家臣に成長していくのです。
ところが弘治二年(1556年)、美濃に激震が走ります。
斎藤道三とその息子・斎藤義龍との間で「長良川の戦い」が勃発。

斎藤道三(左)とその息子・斎藤義龍/wikipediaより引用
一鉄は義龍とも近しい関係にあり、この合戦でも味方をしますが、道三の影響力を排除したい義龍にとっては疎ましくもあったのでしょう。
その後、氏家と安藤の名が文書の中に見えても、稲葉の名だけが不自然に登場しなくなります。
現代に喩えれば「社長に嫌われ、窓際に追いやられた」ようなものですかね。
ただし、彼の勢力や能力そのものが衰えたわけでありません。
永禄四年(1561年)に斎藤義龍が33歳の若さで急死すると、跡を継いだ斎藤龍興は何かと評判が悪く、美濃家臣団の結束にヒビが入り始めます。
そこへ接近してきたのが尾張の織田信長でした。
織田家でも重用された美濃三人衆
織田信長は、永禄三年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元の首を取ると、その直後(約2週間後)からすかさず美濃へ攻め込んだとされます。
しかし、当時の美濃はまだ盤石。
斎藤家臣団の守りは堅く、織田軍との攻防は一進一退が続きました。
そこで信長は永禄七年(1564年)辺りから美濃の東側へ調略を仕掛けるようになり、徐々に美濃の中央エリアへと手を伸ばしていきます。
同時に稲葉一鉄をはじめとする美濃三人衆に対しても、内応の呼びかけが行われていったのでしょう。
こうした調略活動においては豊臣秀吉らが暗躍したとされ、その間も織田家からの攻撃は続きながら、じわじわと美濃国内へプレッシャーがかけられていきます。
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも永禄九年(1566年)における墨俣一夜城や北方城での攻防が描かれました。
劇中で描かれた戦闘はあくまで創作ですが、執拗に繰り返される織田家の攻撃に対し、有効な手立てが打てない斎藤龍興の求心力が低下するのは避けられません。
そして遂に永禄十年(1567年)、稲葉一鉄をはじめ安藤守就と氏家卜全は、織田信長への投降を決心。
その意を告げるやいなや信長は織田軍を繰り出すと、稲葉山城を陥落し、斎藤龍興は伊勢へと逃げ出しました。

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)/wikipediaより引用
織田信長の勢力下に組み入れられた美濃。
稲葉一鉄たちも織田家古参の家臣らと同格に扱われ、柴田勝家や滝川一益と並び「美濃三人衆」という呼称が書名が確認できるほどです。
実際に三人衆として働いていたのですね。
しかし稲葉一鉄だけは特に信長に優遇されており、「一鉄が単独で」出陣している戦もいくつか確認できます。
例えば「伊勢大河内攻め」や「近江の一揆」あるいは「楼岸砦の守備」などがあり、こうした動きは安藤と氏家の二人には見られない特徴です。
元亀元年(1570年)姉川の戦いでは、一鉄をはじめとした稲葉家家臣団たちが大活躍し、比叡山を包囲した際には、彼らが中立を求める使者としても派遣されるほど。
実質的に一鉄は、三人衆筆頭と呼ぶに差し支えない実績を誇りました。
頑固一徹は信長に仕え続け
美濃を制した織田信長は永禄十一年(1568年)9月、足利義昭を奉じての上洛を果たします。
これにて無事に15代将軍となった義昭。
しかしその後の足並みは揃わず、結局、元亀四年/天正元年(1573年)に義昭が追放される頃になると、稲葉一鉄は仏門に入り、我々がよく知る「一鉄」の号を名乗るようになりました。
慣用句としてしばしば用いられる「頑固一徹」という言葉は、一鉄が非常に頑固な人物であったことを語源とされますね。
一方、信長からの重用にも変わりはありません。
越前攻めや伊勢長島攻め、雑賀攻めなど、信長が手を焼いた一向一揆衆との戦いでも存在感を発揮。
天正三年(1575年)には信長が事実上の天下人となり、家督を嫡男・織田信忠に譲ると、美濃時代から織田家に仕えていた人物たちは大半が信忠軍に組み入れられました。
むろん信長が隠居するということではなく、稲葉一鉄は数万石の大名のまま、信長直属の旗本のようなポジションで、その後も働き続けます。
美濃三人衆に大きな変化が訪れたのは天正八年(1580年)。
安藤守就が突如、織田家から追放されてしまったのです。
すでに氏家直元は元亀二年(1571年)に長島一向一揆での戦いで死亡していましたが、息子の氏家直通が跡を継いで三人衆の働きを継続していました。
安藤守就の場合は「昔、武田に内通しただろ」というかなり強引な理由で、父子ともども追放されてしまい、もはや居場所どころの話ではありません。
同時期に林秀貞や佐久間信盛も追放されていますので、おそらくリストラだったのでしょう。
このころ稲葉一鉄は、すでに六十代半ばというかなりの高齢であり、ようやく息子の稲葉貞通に家督は譲ったようです。

稲葉貞通/wikimedia commons
それでも合戦や外交には顔を出していますので、信長の信頼が高いばかりでなく、当時としては恐ろしいほどのタフネス爺だったと言えるでしょう。
本能寺以後は秀吉の元へ下り、最後まで頑固一徹を貫いた
天正十年(1582年)6月2日、織田家にこれ以上ない激震が走ります。
京都で本能寺の変が勃発。
織田信長と、家督を継いでいた織田信忠が二人揃って明智光秀に討たれてしまいました。
一説に明智光秀は美濃出身ともされ、同じ道三に仕えていたという話もありますが、稲葉一鉄が光秀に味方する縁はありません。
それどころか、一鉄の親戚であった斎藤利三を光秀が引き抜いたという説もあるほどで、両者はむしろ仲が悪い可能性のほうが高いでしょうか。
稲葉一鉄は急いで岐阜に戻り、北方城を支配しようとしていた安藤守就親子を攻め滅ぼすと、清州会議では織田信孝の軍勢に属することが決められました。
しかし、織田信孝と豊臣秀吉が対立すると、即座に秀吉方へと鞍替え。
以後は秀吉の家臣として賤ヶ岳の戦いでも味方をし、徐々に秀吉の天下が近づいていく最中、一鉄は新たに岐阜城主となった池田恒興と領地をめぐり激しい争いが繰り広げられました。

池田恒興/wikipediaより引用
一鉄にしてみれば「俺の美濃で新参者にデカい顔はさせん!」という思いもあったのでしょう。
この争いは秀吉の仲裁によって一鉄に4万貫文余りが安堵されることで決着しますが、「美濃守護」の恒興に属することを良しとせず、あくまで独立勢力として振舞っていたようです。
「頑固一徹」の語源と言われても納得できますね。
天正十二(1584年)に起きた「小牧・長久手の戦い」では砦の守備に出陣。
しかし、さすがに当時70歳という高齢のため、これを最後に一線から退きます。
翌年からは寺社に禁制を掲げるなどして隠居料を受けとりながら余生を過ごし、天正16年(1588年)、74歳の生涯を終えました。
六男生まれという境遇から、卓越した能力で歴代の主君に重用された稲葉一鉄。
特に織田信長には、なぜそこまで好かれたか?
一鉄には政治や軍事以外の才能がありました。最後にそこを見ておきましょう。
文武両道の頑固者
稲葉一鉄には優れた武勇に関する逸話が数多く存在します。
例えば天正二年(1574年)、信長は武勇に長けた配下の者142名を選出し、さらに42名にまで絞りました。
稲葉家の史料によれば、一鉄はこの42名に入ったと伝わります。
さらに天正三年(1575年)長篠の戦いでは、織田信長から「一鉄は“今弁慶”と評するのがふさわしい」と称えられたとか。

織田信長/wikimedia commons
しかし、一鉄の優れている点――出世に大きく役立てた能力はむしろ文化面かもしれません。
“らしさ”を象徴する有名な逸話もあります。
安藤守就が追放されたように、稲葉一鉄にも“裏切りの嫌疑”がかけられた。
織田信長は茶会と称して一鉄を呼び出し、殺害を計画。
主君の呼び出しに応じて馳せ参じた一鉄は、茶室の壁に掛けられていた虚堂智愚(きどうちぐ)という南宋の高僧による書を読み上げ、その文意を解しながら自らの潔白を述べる。
すると、隣室に控えていた信長が一鉄の学識に驚嘆。
「殺すのは惜しい」として許した。
もちろんこの逸話が丸々史実だとは思えません。
しかし、信長の重用っぷりからして一鉄のことを「少々のことで追放するには惜しい人物」と考えていたとしても不思議ではないでしょう。
逸話を裏付ける根拠として、彼は教養人であったことが知られています。
茶道や香道、歌道など様々な分野に精通。
極めつけは医学的な知識でして、その造詣の深さは『稲葉文書』の中に医学の覚書が多数収録されていることから、確実なものとみなされています。
まるで当代一の教養人として知られる細川藤孝ですが、一鉄には大きな欠点もありました。
それは後世にも広まった「頑固一徹」な性格面です。
先に述べたように斎藤利三や池田恒興との間に生じたような人間関係のトラブルが後を絶たなかったと伝わります。
また、良くも悪くも実利を重んじて行動をするためか、主君を鞍替えしながら時代を渡り歩いてきたとも評されます。
冷静な合理主義者のようで。
その一方、美濃を追われて以降、諸国を流浪していた土岐頼芸を30年ぶりに美濃へと帰還させたのも一鉄であるとされ、何かと魅力的な人物であることは間違いないでしょう。
大河ドラマ『麒麟がくる』では悪辣な一面がクローズアップされましたが、大河ドラマ『豊臣兄弟』では今後どうなるか、楽しみに待っておきましょう。
参考文献
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(2009年10月 学研パブリッシング)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(2010年11月 吉川弘文館)
和田裕弘『織田信長の家臣団』(2017年2月 中央公論新社)
【TOP画像】稲葉一鉄(稲葉良通)/wikimedia commons
