天正10年(1582年)1月16日は佐久間信盛の命日です。
信秀の代から織田家をサポートし、その嫡男・信長にも仕えた重臣中の重臣。
戦場から退却するときに「殿(しんがり)」を務めるのが得意だったことから「退き佐久間」とも呼ばれ、一時は筆頭家老となるのですが、天正8年(1580年)、突如、不幸に見舞われます。
織田家から追放されてしまったのです。
いったい何が起きたのか?
佐久間信盛の生涯を振り返ってみましょう。
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器用に卒なくこなすタイプの佐久間信盛
佐久間信盛の生まれた佐久間家は尾張の土豪といった感じの家柄で、織田信長の父・織田信秀と協力関係にありました。
その縁で信盛も幼いころの信長に仕え始め、家督争いなどでも信長方についています。
また、前述の通り、殿(しんがり・撤退の際、最も後方で敵に近い位置になる部隊)を得意としたことから「退き佐久間」とあだ名される戦上手でもありました。
信長の信頼も厚く、桶狭間の戦いや各地での一向一揆など、主だった戦にはほとんど参加。
いわゆる「股肱の臣」という立場ですね。
それでいて武辺者というわけでもなく、信長の長女・徳姫が家康の長男・信康に嫁ぐ際に付いていったり、機内の実力者・松永久秀と交渉して味方につけたり、外交も任されていました。
一芸に秀でているというよりは、なんでも器用にこなすタイプというほうが近いでしょうか。
その辺、同じく織田家臣の丹羽長秀を彷彿とさせるかもしれません。
しかし時が経つにつれ、信盛はその信頼を裏切るような行動をいくつかやらかしてしまいます。
自分だけ無傷だった三方ヶ原
一つ目は、あろうことか信長の最大の協力者・徳川家康の危機に関することでした。
元亀三年(1572年)、家康が武田信玄とぶつかりあった【三方ヶ原の戦い】で、織田家の援軍として戦場へ向かった佐久間信盛は、戦場でほとんど活躍することなく退却しておりました。
そもそも織田家から派遣された援軍が信盛をはじめ水野信元や平手汎秀(ひらてひろひで)など、わずか3,000だったため、信長としては「信玄との直接対決を控えるよう、家康を監視するため佐久間らを送ったのではないか」という指摘もあります。
そう考えると、信盛はほとんど味方に損を出さず「退き佐久間」の異名通りの働きをしておりました。問題はないはずです。しかし……。
このとき信盛と共に織田家から派遣された平手汎秀が討死してしまったのが痛かった。
信長の爺やこと平手政秀の子(あるいは孫)とされる汎秀です。
汎秀は、猪突猛進タイプの武将で、三方ヶ原でも無茶な戦いの末に討死したとされますが、信長にとっては大事な家臣が死ぬ気で槍働きをしていたのに、それを見捨て、自分の部隊だけ無傷というのはさすがにバツが悪いものでしょう。
『テメーだけ逃げたな!?』
そう思われても仕方のない場面です。
そして二つ目の失態は、朝倉義景を追い詰めるときのことでした。
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