ときには数十年、あるいは100年先のことを考えて行わなければならないこともあります。
本日はそんな感じで、江戸時代の後半に、とある藩が陥ったすったもんだの騒動に注目。
明和二年(1765年)1月17日は、後に弘前藩第九代藩主となる津軽寧親(やすちか)が誕生した日です。
元は津軽家・分家の生まれでしたが、少々込み入った事情があり、本家の家督を継ぐ事になりました。
その辺の経緯から、時系列順に話を進めて参りましょう。
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35万両の借金に加えて天明の大飢饉
時を遡ること50年ほど前、七代藩主・津軽信寧(のぶやす)の頃のことです。
弘前藩はもともと豊かな土地とはいえない地域である上に、度重なる飢饉で荒廃しきっており、35万両もの借金を抱えていました。
しかも苦しいときほど良からぬことを企む輩が出てくるもので、重臣の中に米の買い占めと江戸への売りつけで大儲けしている連中がいることがわかり、内憂外患という言葉そのままの状況になってしまいます。
その上、襲いかかったのが【天明の大飢饉】――弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂どころではありません。
信寧は、これを何とかすべく改革に着手しようとしましたが、その直後に亡くなってしまいます。なんというタイミングでしょう。
そんな父の無念を晴らすべく、八代藩主となったのが息子の津軽信明です。
信明は幼少期から英邁といわれており、さらに内政手腕で世に聞こえていた細川重賢や上杉鷹山、松平定信らと親交を持ち、見識も広めておりました。
自らの才知に奢らず、他者からさらに学ぼうというあたり、本当に頭のいい人という感じがしますね。
そうしてさまざまな知識を得た信明ですから、当然大胆な改革を行いました。
中でも珍しいのは、藩士に帰農を勧めたことです。
信明はこう考えたのです。
武士が全く生産活動をせずにいるから、いつまで経っても米が足りずに窮乏するのではないか?
それなら、武士も自ら鍬を取って米を生み出すようにすれば、米が足りなくなるようなことにはなるまい。
農民も逃げずに働いてくれるようになるはずだ。
家臣も農作業に従事して1万人の食料ゲット
戦国中期までの武士といえば半農半士のほうがスタンダードでした。
信明の方針は”改革”というよりは”回帰”といったほうが近いかもしれません。
しかし、兵農分離から相当な期間が経過していたこの時代、武士に「鍬を取れ」といっても、なかなか従おうとする者は出てきません。
信明は無理をせず「ならば希望する者だけでよい」とし、しばらく様子を見ることにしました。
そしてそのうち信明の方針に賛同する武士も増え始め、放置されていた田んぼや畑のうち1000町ほどで収穫が見込めるようになりました。
1町=1ヘクタール(100m×100m=10,000㎡)くらいで、1町からは10石程度の米が穫れるとされています。
1石=一人が一年で食べる米の量ですから、「1000町の田畑で収穫できるようになった」ということは、単純に考えて「1万人分の食糧が生産できるようになった」ということになります。
実際の生産高はこれより少なかったかもしれないにせよ、かなりの人が餓えをしのげるようになったことは間違いないでしょう。
また、武士が帰農したことによって農民の苦労がわかり、税の取り立ても多少は優しくなったのではないでしょうか。希望的観測ですが。
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