長徳2年(996年)1月16日は【長徳の変】が始まった日です。
兄の藤原伊周と共に藤原為光邸へやってきた藤原隆家が、花山法皇の一行に争いを仕掛け、2名の従者が殺害されたというこの事件。
「天下のさがな者(乱暴者)」と呼ばれ、【刀伊の入寇】で異国の賊を撃破した藤原隆家が当事者だったせいか。
花山法皇はガクブル震えるだけのか弱い存在に思われるかもしれませんが、そんな単純でもありません。
かつて花山法皇は、他ならぬ藤原隆家に対し「ウチの前を通れるもんなら通ってみろよwww」という強烈な煽りを吹っかけ、そしてその喧嘩に勝利していたこともあるのです。
皇族も貴族も、人によっては十分に暴力的だったこの時代。
その様子は大河ドラマ『光る君へ』でも描かれましたが、実際どれほどだったのか?
武闘派貴族や当時の暴力事件を振り返ってみましょう。
🗿 古代日本|飛鳥・奈良を経て『光る君へ』の平安時代までを総覧
平安貴族といえば優雅な牛車だが
平安時代に欠かせない移動手段といえば「牛車」です。
それの何が暴力と関係あるのか?と思われるかもしれませんが、おつきあいください。
牛車は平安貴族にとって愛車です。イケてるお兄ちゃんがバイクや車で暴走するように、牛車も破壊衝動と直結するため、その説明から始めさせていただければと。
ちなみに、戦国武将にとってはこれが「名馬」となります。
日本史における「乗り物の歴史」はなかなか不思議なもので、西洋でも、中国でも、朝鮮半島でも活躍した馬車がありません。
牛車も、実際そこまで広く普及してはいません。
官位が高い者だけが用いるステータスシンボルとしての一面があり、維持費もかかりました。
ゆえに貴族の財力が乏しくなれば、必然的に牛車も廃れる運命にあり、武家政治以来、貧しくなる一方の彼らが維持できなくなると、歴史の中に消えてしまったのです。
しかし、牛車にまつわる記録は残されました。

復元された『半蔀車』・宇治市源氏物語ミュージアム/wikipediaより引用
清少納言も『枕草子』に記しています。
どんな牛車が素晴らしいか?
スピードを出しすぎるのは風情がない。通り過ぎてゆく牛車に「誰が乗っているのか?」と思いを巡らせることもよいものだと。
戯れに卯の花を牛車に飾る。すると皆が争って挿し始め、たちまに花だらけになってしまった――。
そんな雅な話も残されているわけですが……物語作品にはトラブルもしばしば出てきます。
脱輪、事故、転落などは、貴族にとってお馴染み。
「嫌いな奴と同じ車で気まずいったらないわ!」
「ケチって大人数で乗ってしまい、スピードが全然でねぇ!」
「車中泊になってしまった。こんな時に限って大人数だからしんどいのなんの!」
そして時には、笑っては済まされない命に関わる危険もありました。
プライドに関わる牛車の争い
『源氏物語』の「葵」で描かれる車争いは、深刻な事態に発展します。
賀茂祭を牛車でこっそり見にきた六条御息所は、目立たないけれどよい場所にいました。
すると葵の上の牛車がやってきて、「その場所を譲れ」と従者たちが争いを始め、六条御息所の牛車を破壊させてまで移動させます。
衆人環境で恥をかかされた六条御息所は、生き霊となり葵の上を祟り殺す――。

六条御息所を描いた上村松園『焔』/wikipediaより引用
怪異な展開ゆえ、六条御息所が恐ろしいと思える描写ですが、その原因を作ったのは誰なのか?
結果的に暴力を用いてまで牛車を排除したのは葵の上の権威です。実際に力を振るったのが従者だとしても同罪でしょう。
この一件がなければ六条御息所も静かに祭りを見ることができた。
そして、当時の読者である貴族たちは『源氏物語』が描くリアリズムに感嘆したはず。
なんて生々しい話なんだよ……。冗談で済まされる話ではないぞ……。
そう感じても不思議ではなく、だからこそ『源氏物語』は絶大な人気を博したのかもしれません。
貴族は礼儀作法を大事にします。
牛車でも上座と下座のルールはあり、例えば乗るだけでなく、並べる時も大事。それを契機としたのが、前述した六条御息所と葵の上のトラブルでした。
後に権力を極める藤原道長でも、牛車では苦い経験があります。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用
道長の生まれ順は遅く、兄にはかなわない日々が長く続いていました。
それが思わぬ展開で兄の藤原道隆と藤原道兼が立て続けに亡くなり、予想外のチャンスが巡ってきた……ように見えて、実際は道隆の子である藤原伊周と藤原隆家よりも下にいる日々が続きます。
ある日、道長が河原で禊(みそぎ)へ向かったところ、伊周が先んじており、大勢の取り巻きもいました。
彼らをあまり刺激しないよう、道長は、伊周の牛車から自分の牛車を離そうとします。
それがグイグイと伊周の方へ進んでしまった。
「おやめなさい、伊周殿に無礼ではないか。遠ざけよ」
そう道長が止めると、御車副(みくるまぞい)の某丸は返します。
「つまんねえことを言うもんスね〜、そういう弱気だからついてないんじゃないですか。いやですよ、いや!」
そう言いながら牛に鞭を当て、グイグイと伊周の方へ迫ってゆく某丸。
牛車の中で道長はハッとしました。
こいつ、なかなか手厳しいことを言うが間違ってはいないのやも……。従者の言葉に叱咤激励された道長は、この某丸をますます可愛がったとか。
そんな経験がある道長からすれば、紫式部の観察眼とプロット構成は大したものだと感じ入ったことでしょう。
「なんだ、ケンカにでもなるかと思ったら、道長はぬるいやつだな」
という印象をお持ちになられたでしょうか?
いくらなんでも、この強気な某丸だって、そこまで本格的に武装していないし、ムキムキマッチョな大男でもなかっと思います。
いや待って、そんなマッチョどもが平安貴族の周辺にいるわけあるか! そう思いましたか? それがそうでもないのです。
牛車が通ってはいけない! 恐怖の道
ステータスシンボルであるがゆえに、譲り合いの精神が大事だった牛車。
実は都には“通ってはいけない場所”もありました。
例えば「内裏」に牛車で入ることはルール違反というのは、理解できるでしょう。
その他にも暗黙の了解があり、位の高い人物、さらには危険人物の門前を避けることも無難とされました。
一体どういうことか?
ワケわからないと思いますが、
「俺ん家の前を牛車で通るんじゃねーぞ! 通ったら後悔する目に遭うぞ!」
と鼻息荒くするオラつき権力者がいたのです。
その代表格が花山法皇でした。

花山天皇(花山法皇)/wikipediaより引用
あるとき藤原公任(きんとう)と藤原斉信(ただのぶ)が、花山法皇邸のある近衛大路を牛車で通ってしまいました。
すると……。
「オラ、テメエら、ここがどこだかわかってんのかァ!」
「生きて通れると思ってんのかーッ!」
武装した花山法皇の従者が牛車を取り囲み、やたらめったら投石してくるのですからたまらない!
牛車の中で二人の貴公子は命の危険すら感じたことでしょう。
この二人は、ついうっかりしていたパターンですが、一方で、敢えて挑む確信犯貴公子もいました。
【刀伊の入寇】や【長徳の変】でお馴染みの武闘派貴族・藤原隆家です。
花山院は、このオラオラ系貴公子の藤原隆家に対してこんな挑発をしました。
「いくらオメエだってよ、俺の家の前を牛車で通過する度胸はねェよなァwww」
「は? この隆家にできないわけがないっスよwww」
挑まれたら引き受けるしかねえ!
とばかりに隆家は、愛用のいかつい牛車二台と、50~60人の従者をつけて花山院の門前へ向かいます。
しかし、現場に近づいた一行は途端に戦意喪失。
そこにいたのは、言葉にもできぬほどオラついた武装法師集団70名から80名でした。

興福寺の僧兵/wikipediaより引用
彼らは長い棒やらでかい石を手にして待ち構えていたのです。
コイツら一体なんなんだ?
大和和紀先生作画『あさきゆめみし』の世界ではなく、原哲夫先生作画『北斗の拳』の世界じゃないですか。
なお、花山法皇は騎馬による通過も許していません。
無理に敢行しようとした者が暴力制裁の憂き目にあっております。
長徳の変:失脚する伊周と隆家
軟弱どころか暴力上等!の貴公子たち。
こんな調子では、いつか大事件でも起こすのではなかろうか?
と思いきや、案の定、藤原伊周と藤原隆家の兄弟はやらかすことになります。

藤原伊周/wikipediaより引用
時は長徳2年(996年)――藤原実資のもとに、藤原道長からとんでもない知らせが届きました。
いわゆる【長徳の変】であり、例の花山法皇を相手に二人はやらかすのです。
【5W1H】でまとめる長徳の変
【When いつ】長徳2年(996年)
【Where どこで】故太政大臣・藤原為光邸
【Who だれが】藤原伊周と藤原隆家
【What 何を】花山法皇一行を相手に乱闘事件
【Why なぜ】恋愛がらみの勘違い→伊周はこの邸の三女、花山法皇は四女と通じていた。花山法皇が自分の相手に近づいたと誤解した伊周が先制を仕掛ける
【How どのように】矢を射かけたことを契機として争いに発展→花山法皇側の童子(当時は成人の儀をしていない者を称するため実年齢は不明)2名を殺害して斬首、首を持ち帰った
現代人でも驚愕してしまうこの事件、真相はあやふやなまま処理されてゆきます。
襲われた側の花山法皇も気まずかったからです。
出家の身なのに女性関係でトラブルを起こしたなんて、表沙汰にはできない。
首を持ち去られた童子より、自分の名声が大事だったのでしょうが、こんな失態を道長が見逃すわけもないし、検非違使だって黙ってはいられない。一条天皇だって看過しない。
家宅捜索が行われ、一年ほど後に藤原伊周と隆家の兄弟は左遷されました。
清少納言が称賛するあの藤原定子の兄弟二人の悲劇です。
母である高階貴子は「我が子についていきたい」と泣き崩れたことで知られますが、冷静に事件のあらましを振り返ると、イキリ貴公子の自滅とも言えるわけです。
道長暗殺計画
転落した兄弟にもチャンスはありました。
彼らの姉妹である藤原定子は一条天皇の寵愛を受け、その後、敦康親王(あつやすしんのう)が生まれています。

枕草子絵詞/wikipediaより引用
彼が即位すれば、外戚として政界復帰ができる。
しかし、道長がそれを許すはずがない。
道長の娘である藤原彰子は第二皇子と第三皇子を産んでおり、その即位を盤石とすることで、伊周たちの復帰の芽を完全に摘んでおかねばならない。
いわば王手をかけた状態であり、これぞ道長お得意の権謀術数!のようにも見えますよね。
アチコチに罠を仕掛けて自らの権力を保持する――実際は、そこまで一方的な話でもありません。
日本最高の権力が絡む話である以上、道長のライバルにだって“強硬手段”はある。
でも、どうやって……?
寛弘4年(1007年)、藤原実資はおそるべき計画を耳にしました。
大和国金峰山に向かった藤原道長に向け、武士である平致頼(たいらのむねより)が、刺客として放たれているというのです。
伊周と隆家兄弟の差金とのことで、都中が騒然とし、道長のもとへ勅使も派遣されました。
するとその翌日、道長が無事に戻ってきます。
襲撃計画そのものが実行されなかったようです。
道長も身の危険を感じていたのか、十分な護衛をつけていたのでしょう。かくして暗殺計画の噂だけが都に残されたのです。
その後、道長と甥の権力争いは、藤原彰子を母とする敦成親王(のちの後一条天皇)の即位が確たるものとなることで、決着がつきました。
失意の兄・伊周は若くして亡くなり、弟・隆家は中堅貴族として無難な人生を歩みつつ、【刀伊の入寇】で博多に攻め込んできた外敵を撃退するという、素晴らしい功績を上げます。
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政争に敗れた藤原隆家が異国の賊を撃退!天下のさがな者と呼ばれた貴族の生涯
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受験勉強などで、この【刀伊の入寇】を知った方は
「中央の貴公子が手強い外敵を撃退した」
ということに意外な印象をお持ちだったかもしれません。
しかし、藤原隆家のオラつきぶりを知るといかがでしょう?
実は適材適所だったとも言えるのです。
道兼周辺に漂う鬱屈と不穏な空気
大河ドラマ『光る君へ』の第1回放送で、紫式部の母・ちやはを惨殺した藤原道兼。
あの殺人は創作ですが、彼は劇中に登場した直後から「何か、やらかしかねない要素」がありました。
貴公子同士の殺し合いはさすがにない。
しかし従者同士の殺害となれば往々にしてある。
藤原道兼自らが実行犯とならずとも、従者に「あの女を殺せ」と命じることは考えられなくもない。家が困窮していたちはやは、身分の低いどうでもよい存在に思われてもおかしくはありません。
従者が「道兼様」と諱(いみな)ではっきり呼ぶことも、ドラマならではの演出といえます。ああも堂々と名前で呼ぶことは考えにくいものです。
いずれにせよ道兼の意思による惨殺自体は、可能性としてゼロではなく、ドラマとしてはアリでしょう。
被害者がまひろの母であったからインパクトも凄まじいことになりましたが、その前に平安貴族の暴力性はもっと知られてもよいのではないか?と思います。
実際のところ、彼の周辺には不穏な計画があったことも伝わっています。
『古事談』にはこんな話が記録されているのです。
兄である道隆に追い抜かれた道兼。このままでは関白になれそうにない。
そこで彼に仕える武士・源頼信がこう考えました。
「いっそアイツ(道隆)をバラせば道兼様が関白になれるんじゃねえか」
「ちょ、待てよ」
と、ここで止めたのが、あの名高い源頼光です。

源頼光/wikipediaより引用
頼信の兄にあたる頼光は諭します。
「第1にヨォ、ぜってーにしくじらねえでバラせる自信、あんのか? 第2にだ、殺ったところで道兼様が確実に関白になれるとは限らねえ。そして第3、殺し合いで関白になれるってんなら、道兼様もバラされるかもしれねえ。それを守り抜けるかって話よ」
なるほどな、兄貴は学があるぜ。
そう納得した源頼信は暗殺を取り止めましたが、結局それで正解でした。
道隆が病で亡くなり、道兼が念願の関白となったのです。
しかし……。
道兼もその後すぐに流行病で亡くなり、結局、道長にお鉢が回ってきました。あまりにも短い在位だった道兼は「七日関白」とも呼ばれます。
史実では死因が不明である紫式部の母を、刺殺による死とした大河ドラマ『光る君へ』。
道兼自身は途中で改心し、民を救おうとする最中、疫病にかかって亡くなってしまいましたね。
父の死後、道兼の遺児・藤原兼隆は、従兄弟たちとは異なり叔父・藤原道長に逆らわなかったためか、印象が薄くなっています。
だからといっておとなしいわけでもなく、藤原実資はこう記しています。
「兼隆様は自分の従者を平然と撲殺する……ましてや他人の従者には何をするのかわからない」
これは何も道兼系統だけの問題でもなく、前述した道隆の息子たちも、道長自身も、道長の息子も、破壊衝動をワイルドに発散しています。
トップに昇り詰めるような上級貴族でも暴力性とは無縁でなかったのです。
なぜ平安貴族は暴力的なのか?
坂東武者よりはマシだけど、なかなかの暴れん坊だった平安京の貴族たち。
宮中では頭をむき出しにして殴り合うわ。
花山法皇の娘がおびき出されたうえで殺され、屍を路上に放置されて犬に食われるわ。
穢れを嫌うという発想はあるものの、命そのものに対してはあまりに雑な様子も浮かんできます。
身分を重視するということは、低い身分の命や尊厳など眼中に無いということの現れとも言えますね。
ドラマでの道兼は、身分が低い連中は「虫ケラ」だと吐き捨てていましたが、あれは彼一人だけのものではなく、当時の悪しき社会通念です。
律令制も真面目に守りませんし、警察であるはずの検非違使の権限も限定的だった。
こうした状況を見ると、法治の重要性を知り【御成敗式目】を制定した北条泰時がいかに先見性があったか。

和田合戦の北条泰時(歌川国芳作)/国立国会図書館蔵
平安貴族のように行き当たりばったり、曖昧な理念で政治運営を続けていると、遅かれ早かれ破綻は避けられません。
彼らが愛読した詩に白居易の『長恨歌』があります。
それを平安貴族たちはロマンチックな悲恋として受け止めていたのか?
それとも歌の中に潜んでいる政治批判も読み取っていたのか?
後白河法皇の寵愛する丹後局は「あの楊貴妃め」と苦々しい目で見られましたが、【安史の乱】から読み解ける教訓は、寵愛する女の思うままに帝王が操られることだけではないはず。
安禄山という「武力を有する者に権限を与えたこと」が最大の危険性でした。
武装した集団が叛意を抱いたら、防衛力が低い京都はどうにもなりません。
いくら都に貴族や武士がいたって坂東武者の凶暴性には遠く及ばない。
京都の貴族は、曖昧なルールで暴力を抑制していたように思えますが、源義経という凶悪ハズレ値を持つ武士は、安徳天皇がおわす船だろうと平然と攻撃を仕掛けます。
義経は兄である源頼朝によって討ち取られたものの、武士の凶暴性は一歩進んでしまったのかもしれません。

源義経/wikipediaより引用
自らが武勇を誇り、自信満々であった御鳥羽上皇。
彼は武士を甘く見ていたのか、鎌倉にいる北条義時の成敗に挑みますが、逆に坂東武者が蜂起して【承久の乱】が勃発しました。
坂東武者が京都へ雪崩れ込み、牛車すら入れない御所から後鳥羽院たちを荒々しく連れ出すことで「武者の世」は到来してしまうのです。
『鎌倉殿の13人』はそうした過程を描いたドラマでした。
その予兆は『光る君へ』の時代に現れていたことが、源頼光と源頼信の会話からもわかります。
頼光は弟の計画について、実行できるかどうか、その後のことは確実なのかどうか、そんな実利的な面から説得して、計画を取り止めました。
「そもそも殺人はダメだろ?」(暴力忌避)
とか
「道隆様は偉い方じゃないか、畏れ多い」(礼儀)
とか
「道隆様は道兼様の兄上だぞ。道兼様がお悲しみになられるかもしれないだろ?」(慈愛)
などの話は語っていません。
要するに、倫理と法治意識がないのは、貴族だろうが武士だろうが同じ――中世とはそんな時代と言えるのでしょう。
中世は暴虐の時代というトレンド
2010年代の歴史劇は、世界規模で見ても大きく前進しました。
2011年には、認知心理学者スティーブン・ピンカーによる『暴力の人類史』が、賛否両論ながらに大ヒットを巻き起こし、センセーショナルなものとして受け止められています。
この本では、
過去の人類がどれほど暴力的であったか?
ということが記されています。
そして同年、アメリカHBO制作『ゲーム・オブ・スローンズ』が放映開始され、世界的に大ヒット!
【薔薇戦争】の頃の中世ヨーロッパをモチーフとした世界観は、あまりの暴力性により、視聴者を驚嘆させました。
中世以前の人類に抱かれていたロマンチックなイメージすら吹き飛ばしたのです。
西洋で騎士道物語は甘ったるいものとして語られてきました。
アーサー王伝説に登場するキャメロットは、気高い騎士道精神がある理想郷として語られてきたものです。
そうした理想を粉々に踏み潰し、中世とは暴力上等!な世界だったな……と、人びとは思い知りました。しかも『ゲーム・オブ・スローンズ』は長く、放映期間がほぼ10年にわたりました。
そのため見る側の意識変革は一過性のものではなく、確固たるものとなりました。
もう後戻りはできないのです。
日本でも、中世を美化する傾向はありました。
平安貴族は何かと誤解されます。
『源氏物語』や『枕草子』を読み、堕落して恋愛ばかりにうつつを抜かしていた。
その結果、武士にやられて当然だろ?という見方も依然として根強い。
しかし、2010年代以降の歴史学や歴史劇の流れを意識して作られた『鎌倉殿の13人』では、壮絶な鎌倉幕府の成立史が描かれました。
こうした世界的な流れや『鎌倉殿の13人』を踏まえるならば、『光る君へ』が甘くロマンチックなものになるはずがないんですよね。
確かに、藤原道兼による殺人は時代考証的に無理がありました。
それでも視聴者を殴りつけるようにしてあの場面が盛り込まれたのは、歴史学と歴史劇トレンド双方からの洗礼なのでしょう。
ラストは【刀伊の入寇】で周明の死亡シーンも描かれ、馬に乗った双寿丸が戦場へ向かってゆく――戦乱期の到来を予告して最終回を迎えたのです。
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【参考文献】
繁田信一『殴り合う貴族たち』(→amazon)
繁田信一『王朝貴族の悪だくみ』(→amazon)
山本淳子『古典モノ語り』(→amazon)
京樂真帆子『牛車で行こう! 平安貴族と乗り物文化』(→amazon)
橋本義彦『平安貴族』(→amazon)
倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』(→amazon)
スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』上下(→amazon)
他





