大河ドラマ『光る君へ』の影響で平安文学への興味も高まっているようですが、そこに度々登場する「斎宮」と「斎院」をご存知でしょうか。
どちらも未婚の皇族女性が神社で就く役職であり、『紫式部日記』にも割と目立つ記述がありますので、もしかしたらドラマの中盤以降に登場するかもしれません。
では、非常に似通った字面の「斎宮」と「斎院」はいったい何がどう違うのか?
と言いますと勤め先の神社です。
斎宮は「伊勢神宮」で、斎院は「賀茂神社」に仕えました。
誰しも一度は聞いたことがある由緒正しき神社ですが、そこに仕えた皇族女性はどんな役割を背負っていたのか?
歴史としては斎宮のほうが古いので、そちらから見て参りましょう。
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未婚の内親王が伊勢神宮に仕え
斎宮の正式名称は「伊勢大神宮斎王 (いつきのみこ)」です。
あるいは斎王(さいおう)とも呼ばれ、起源は伊勢神宮の成立……つまりは平安時代よりもずっと昔、神代に近い時代まで遡るという設定です。
当時は、天皇の宮殿と同じ建物の中に天照大神を祀っていました。
しかし第十代・崇神天皇が「これでは畏れ多い」と考え、娘の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に命じて、大和・笠縫邑の地で天照大神を祀らせます。
その後、第十一代・垂仁天皇の代になると、皇女の倭姫命が役目を引き継ぎ、より天照大神を祀る場としてふさわしい土地を探し続け、諸国を旅した結果、伊勢となりました。
天照大神が「この地にいようと思う」と告げたため伊勢神宮が築かれ、今日に至るというわけです。
この経緯を引き継いで、未婚の内親王が伊勢神宮に仕えるようになりました。
これが「斎宮」です。
内親王に適任者がいない場合は、女王(親王の娘)の中から選ばれます。
『源氏物語』では六条御息所の娘が斎宮に選ばれ、役目を終えた後は冷泉帝の後宮に入内し、梅壺の女御→秋好中宮となりました。
斎宮になる前の様子は「賢木」の帖で描かれていますが、光源氏からすると六条御息所のほうが主体になりますので、潔斎などの様子はあまり描写されていません。
日夜厳重な潔斎生活だが……
いざ斎宮に選ばれると、まず都やその近辺でやらなければならないことがあります。
京都で禊祓(みそぎはらえ)をした後、内裏で1年、さらに嵯峨野の野宮で1年間の潔斎生活。
その後に天皇にあいさつをして、伊勢までの旅が始まります。
道中でも禊を行っていました。
もちろん伊勢に着いた後も日夜厳重な潔斎生活をし、神に仕える日々を送ります。
斎宮が暮らす御所の門には常にしめ縄が張られており、日常の言葉にまでケガレを避けるためのタブーが設けられるという厳しい生活です。
かといって、外界と全く隔絶されているわけではありません。
ときには伊勢の国府の役人や、京からの勅使との間で和歌をやり取りするなど、わずかながら交流はあったようです。
『伊勢物語』には
「在原業平とときの斎宮が一夜の関係を持ち、二人の間に生まれた男子の子孫が高階氏である」
という伝説がありますが、それも斎宮と外界の間に交流があったからこそ生まれたものと思われます。
斎宮の最も大きな役目は「神宮の三節祭」と呼ばれる年三回の祭りでした。
六月・十二月の月次祭+九月の神嘗祭を合わせた呼び方で、この三つの祭りは、斎宮が唯一外出するタイミングでもあります。
伊勢神宮の外宮・内宮に一日ずつ参り、途中で一泊するため、ちょっとした旅となっていました。
現代の道路でも片道約22kmありますから、ほぼ運動をしなかったであろう内親王や女王にとって、過酷な道のりだったでしょうね。
斎宮は基本的に、任命された当時の天皇が譲位・崩御するまで務めます。
場合によっては、両親が亡くなったときや病になったときにも任を解かれました。
また、本人の過失などもケガレとみなされ、退任となりました。
『源氏物語』でも、秋好中宮は朱雀帝の即位の際に斎宮の任に就き、彼の退位に伴って斎宮を解かれて京へ戻ってきています。
次に斎院について見て参りましょう。
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