慶長二十年(1615年)6月6日、黒田家の母里太兵衛という武士が亡くなりました。
「母里」の読み仮名は「もり」か「ぼり」かで意見が分かれるようですが、皆様、脳内でお好きなほうをご採用ください。
大河ドラマでもお馴染み黒田官兵衛の腹心であります。
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官兵衛が栗山に引き合わせ
母里太兵衛は、黒田官兵衛がまだ織田信長の家臣だった時代に黒田家に入りました。
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しかしその年、母の一族である母里家が戦で全滅。
家名が絶えるのを惜しんだ官兵衛によって母里姓を名乗ることになります。
筋骨たくましく暴れん坊だった太兵衛に対し、官兵衛は一抹の不安がありました。
そこで黒田家の中から栗山利安という人物に引き合わせ、言いつけます。
「今日からこいつを兄貴と思って指示をもらうように」
この作戦は大成功で、太兵衛は亡くなる直前「栗山殿のおかげで今日までやってくることができた」と感謝するほどでした。
官兵衛の人を見る目って凄すぎなのか、話を盛り過ぎなのか……(´・ω・`)
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それはさておき、ここから彼は数々の伝説を打ち立てていきます。
「生涯で76もの首を挙げた」とか、黒田家の名将を並び賞した「黒田二十四騎」と「黒田八虎」に両方選ばれたとか、勇猛な武将であったということを強調するエピソードには事欠きません。
その中でも一番有名なのは、「黒田節」という民謡にもなっているお酒に関する逸話でしょう。
「飲み干せたら“日本号”をくだされ」
ときは豊臣秀吉の晩年。
文禄の役と慶長の役の間あたりの出来事です。
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伏見にいた福島正則の下に、黒田家の使者として母里太兵衛が行くことになりました。
正則も太兵衛も、大の酒好きなであることを知っていた主の黒田長政は「正則は昼間から飲んでるかもしれないけど、お前は飲むなよ! 絶対だぞ!」(超訳)と言いつけます。
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案の定、正則は酒を勧めてきて、太兵衛は「仕事中ですし、主に止められておりますので」と辞退しました。
しかし、既に酔ってノリノリの正則。
お約束通り太兵衛にタチの悪い絡み方をします。
「酔って不始末をするのが怖いのか! 黒田家のヤツは臆病者ぞろいだなwww」(超訳)
当時の常識で言えば名誉毀損同然の暴言を吐くのです。
ここまで言われては太兵衛も黙ってはいられません。
彼はこのついでに大博打をしかけます。
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