しかし、有名人の二世ともなれば、それはどうしたって避けられない運命。
元和九年(1623年)8月4日に亡くなった黒田長政も、おそらくそれに悩まされた一人でしょう。
秀吉の参謀として知られる黒田官兵衛の嫡男であります。
それだけで当人の重圧は大きくなるはずですが、長政も負けない働きをしてきました。
本稿では、そんな長政の経歴や人となりエピソードを見て参りましょう。
※以下は黒田官兵衛の関連記事となります
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歴戦の勇者・又兵衛を奉公構に処する
長政は、軍師なんて称される父を持っているだけに知略タイプの武将かと思いきや、むしろ猛将タイプでした。
それゆえか、周りの人々とぶつかることもあります。
一つは、後藤基次(後藤又兵衛)との話。
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官兵衛に仕えていたので、当然、代替わりの後は長政に仕えるのが筋ですが、長政は基次を黒田家から追い出してしまっています。
しかも「奉公構(ほうこうかまい)」という罰則付きでした。
奉公構とは、他の大名家に「コイツこの前クビにしたんだけど、ロクデナシだからアナタの家でも雇わないでくださいね。もし採用したらウチとは喧嘩になりますからね!」という手紙を出すことです。
いったんコイツを出されると、他家に再仕官ができなくなるので、武士にとっては切腹の次に重い刑とされました。
他にこの刑を受けた有名人としては、家康のイトコにして、戦国の破天荒・水野勝成などがいます。
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基次は、勝成ほどのハチャメチャはしていません。
むしろ黒田家にとってなくてはならない重臣でした。
なので、どうして長政がこんなに重い刑を科したのかははっきりわかっていません。
ただ、この二人が元々ウマが遭わないにも程がある関係だったらしく、いくつかのイザコザがあれこれ伝わっていますので見てみましょう。
隣で死にそうな長政を放置するほうが悪い
例えば、戦に関する逸話だと、こんなのがあります。
文禄の役(朝鮮の役前半戦)で、長政が敵将と組み合っているうちに川に落ちてしまったことがありました。
戦の最中に川を渡るだけでも相当難しいですし、組み合いなんてことになれば首を取られる恐れもあります。
このときすぐ側にいた基次は、長政の救助も助太刀もしませんでした。
別の人から理由を尋ねられると「ウチの殿なら大丈夫だから、もう少し見ていよう」と真顔で言い切ったそうです。
運よく長政が勝ち、敵将の首を取ったものの「なんで助けてくれなかったんだよ!」と憤慨したとか。って、そりゃそうですよね。
「勝てば官軍」ですから、これは基次の言い分が通じないのも無理はありません。
こんな感じで二人は行き違いでお互いストレスを溜めていたらしき逸話が複数あります。
それでも父の代からの功臣ということでしばらくは厚遇していたのですが、江戸時代に入って長政がブチ切れてしまいました。
長政と仲の悪い大名と仲良くなったりして
なぜなら黒田長政と仲の悪い細川忠興が基次と仲良くなってしまったからです。
長政は「忠興がムカつくから細川家とは付き合わないように!」というお触れを黒田家全体に出していたので、それを破った基次を許せなかったのでしょう。
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それでも基次は黒田家から追い出された後、細川家に身を寄せていたりします。確実にケンカ売ってますね。
ちなみにその後、基次は大坂冬の陣・夏の陣で豊臣方として真田幸村(真田信繁)らと共に参戦し、道明寺の戦いで討死しています。
長政とは直接対峙していませんが、参戦自体はしていたので複雑な気持ちだったかもしれませんね。
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