黒田長政

黒田長政/wikipediaより引用

黒田家

あの官兵衛の嫡男・黒田長政とは? 偉大な父を持つ二世の苦悩56年の生涯

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酒豪・太兵衛とも気が合わず?

もう一つは、これまた重臣・母里太兵衛(友信)とのエピソードです。

彼も官兵衛の代から仕えていた人で、生涯に七十六人もの首を取ったという猛将。

福島正則と飲み比べをして名槍”日本号”をもらった話でも有名ですね。

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母里と長政の関係は、基次と比べればマシでしたが、それでも”気の置けない仲”ではなかったようです。

長政の息子・黒田忠之が袴着(はかまぎ・七五三の前身にあたる儀式)をしたときのこと。

友信は将来の当主に武功あれと思って「お父上以上の功を挙げなされよ」と言いました。

この「父以上に」というのは、いわば験かつぎのテンプレ言葉だったのですが、長政には「長政殿の功績は大したことないから、それ以上に立派なことをしなさいよ」という意味に聞こえたらしく大激怒。

「俺は朝鮮でも関が原でもあんなに働いたろうが!お前は俺を侮辱するのか!!」(超訳)

そう怒鳴り、友信をその場で殺そうとしました。ちょっと加熱しすぎですね。

幸い、栗山利安という黒田家臣の筆頭に当たる人がなだめて収まったのですが、長政の導火線は短いなぁ、と。

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他にも官兵衛から「お前は優柔不断だから注意しろ」と言われたなど、猛将の割には複雑な性格であったらしき話がいくつかあるので、本人も悩んでいたのかもしれません。

辞世の句はこんな感じ。

此ほどは 浮世の旅に 迷ひきて 今こそ帰れ あんらくの空

何となく気持ちがうかがえるのは、気のせいでしょうか。

現代人にとっては、完璧イメージな黒田官兵衛よりも、悩み多き(っぽい)長政のほうが親近感が湧いくるかもしれません。

各種の戦歴だけでなく、天下分け目の【関ヶ原の戦い】では東軍勝利の立役者になるなど、歴史に残る働きをしているんですけどね。

 


【人物概略・黒田長政】

黒田官兵衛とその正室・櫛橋光の嫡男として、1568年、播磨国の姫路に生まれる。

幼名は、戦国ファンにはお馴染みの松寿丸

なぜお馴染みかというと、父の官兵衛が荒木村重の説得に失敗して有岡城に幽閉されたとき、「官兵衛までもが裏切った!」と織田信長に勘違いされ、人質だった息子・松寿丸に殺害命令が下された――1578年にそんな話が残されている。

松寿丸の命を救ったのが竹中半兵衛だった。

機転を利かせて別の首を差し出し、半兵衛配下の家に匿うことで最悪の事態を免れたと言い、実は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)も知っていたという見方が強い(詳しくは以下の記事をご参照)。

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1582年に黒田長政は、中国地方の毛利攻めをする秀吉に従軍。

翌1583年の賤ヶ岳の戦いでも活躍し、その年に河内国丹北郡で450石の領地を与えられている。

小牧・長久手の戦いでは中村一氏らと共に岸和田城の守備につき、鉄砲部隊の傭兵でお馴染みの雑賀衆・根来衆を返り討ちにして2,000石の加増をされた。

私生活においては、秀吉の親友だった蜂須賀小六の娘・糸姫を正室に迎えるなど。

豊臣政権内で父と共に順調な出世を遂げ、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)においても、前線基地である肥前名護屋城築城の惣奉行にも任じられ、朝鮮へも渡って戦った。

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しかし、これが豊臣政権への決別のキッカケともなった。

朝鮮出兵のドタバタで石田三成との不仲が高まり、秀吉没後は徳川家康へ接近。

1600年に保科正直の娘・栄姫を継室として迎え入れると、同年の【直江状】に端を発する徳川軍の上杉征伐では先陣を務めている。

当然ながらその年に勃発した関ヶ原の戦いでは徳川サイドで参加し、そして大活躍した。

小早川秀秋を味方に引き込むなどして、東軍随一の戦功とされたのである。

1614年大坂冬の陣では江戸の防御を命じられ、翌年、大坂夏の陣では徳川秀忠と共に大坂入り。

その後、50万石の知行を与えられている。

なお、福岡藩の初代藩主は父の官兵衛ではなく黒田長政になる。

元和9年(1623年)没。

享年56。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部(編集)『戦国時代人物事典』(→amazon
峰岸純夫・片桐昭彦 (編集)『戦国武将合戦事典』(→amazon
渡邊大門『黒田官兵衛・長政の野望 もう一つの関ヶ原』(→amazon
黒田長政/wikipedia

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