慶長七年(1602年)10月18日、関ヶ原の裏切り者として知られる小早川秀秋が亡くなりました。
天正十年(1582年)生まれなので、数えで21歳という若さです。
本能寺の変の年に生まれているというところからして不吉というか何というか。
裏切りだけがクローズアップされているため、彼の生まれ育ちについて注目されることは少ないと思います。
そこで本稿では彼の生涯について見ていきたいと思います。
お好きな項目に飛べる目次
小早川秀秋は秀吉の妻ねねの甥っ子
小早川秀秋は、秀吉の妻・寧々(ねね・北政所・高台院)の甥っ子として生まれました。
父親は、寧々の兄である木下家定。
一門衆としてそれなりのポジションにいたお人です。
その息子である秀秋は1585年、三歳のときに、子供がおらず跡継ぎに困っていた秀吉の養子となりました。
一時は秀吉自身の甥っ子・豊臣秀次と共に後継者候補として見られ、他の大名たちからもそれなりの扱いをされております。
秀次は永禄十一年(1568年)生まれでだいぶ年が離れていますので、ライバルというよりは
豊臣秀吉
↓
豊臣秀次
↓
豊臣秀秋
の順で継承していくと考えられたのでしょう。
秀次は子福者だったため、もし秀次が跡を継いでいた場合は彼の息子に系統が移ったかもしれませんが……まあIFの話を広げてもあまり意味はありませんね。
しかし天正十六年(1593年)、秀吉と淀殿の間に豊臣秀頼が生まれると、秀秋も秀次も一気に立場が変わってしまいます。
乳飲み子がすぐに跡を継げるわけでもないのに、もしかしてボケ始めた……?と思われる秀吉が
『次は秀頼に継がせるから、お前ら引っ込めよ……』
的な行動を始めたのです。
この時点で「秀頼が幼いうちは秀次に継がせて、10年、20年したら跡を譲るように。秀秋はその補佐な」ということを明らかにしておけば、豊臣家が存続した可能性もあるかもしれません。
自分が生きているうちに決めておかないと気が済まなかったのかもしれませんけども、養子まで疑い始めたら何のために縁組したのさ……という感じですし。
こうして二人の養子に対するイジメが始まるのですが、秀次のように自害という最期にならなかっただけ秀秋はマシだったかもしれません。
秀秋に対しては
「毛利輝元殿にはお子さんがいないって聞いたんだけど、秀秋様を毛利家でもらってくれんかね」
という話が出てきたのです。
申し入れたのは黒田官兵衛だったといわれています。
毛利家に押し込もうとして小早川へ
秀秋が毛利家の当主に就任する――。
実質的に毛利が豊臣のものになることを危惧した小早川隆景(元就の三男)が機転を利かせます。
「いやーすみません、本家の跡継ぎはこの前決まったばかりなんですよHAHAHAHAHA! 代わりに私の養子として来ていただけませんか?」(※イメージです)
そんなウルトラC級の言い訳を使って神回避を見せてくれたため、毛利家を継ぐことにはなりませんでした。
文禄3年(1594年)かくして秀秋は小早川隆景の養子となって小早川家に入り、毛利輝元の養女(宍戸元秀の娘)を妻に迎え、物理的にも精神的にも豊臣家から離れることになったのです。
翌年1595年には関白豊臣秀次事件の影響で丹波にあった所領を没収されてしまいますが、隆景から筑前や筑後、肥前などの所領を譲り受け、名島城を居城とします。
なお、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)での活躍はあまり伝わっておりません。
慶長の役では釜山城で城番を務め、配下の山口正弘が【蔚山の戦い】にて活躍したとされます。
ついでですから、慶長の役での各武将の役割も見ておきましょうか。
豊臣政権お馴染みの顔ぶれでなかなか興味深いものがあります。
なお、この頃、改名をしています。
本記事では「秀秋」で統一しましたが、それまでは「秀俊」でした。
※続きは【次のページへ】をclick!