『太閤記』に登場する人気の脇役と言えば、蜂須賀小六こと蜂須賀正勝。
矢作川の橋の下で出会った木下藤吉郎と意気投合し、天下人へ昇り詰める秀吉を支えた物語は、昔から日本人に愛されてきました。
今回注目したいのは、正勝の嫡男である蜂須賀家政です。
この家政、寛永15年12月30日(1639年2月2日)が命日となりますが、死亡年からお察しできるように、非常に難解な局面だった戦国末期~江戸初期という荒波の時代を無事に生き残っています。
秀吉と、べったり昵懇だった蜂須賀家なのに、なぜ生き残ることができたのか。

蜂須賀家政/wikipediaより引用
一体どのようにして豊臣政権から徳川政権へ鞍替えしたのか。
蜂須賀家政の生涯を振り返ってみましょう。
蜂須賀正勝の嫡男として生まれる
永禄元年(1558年)、蜂須賀正勝に待望の嫡男が生まれました。
後の蜂須賀家政であり、母は松(まつ)。
漫画やドラマなどでは若手武将のイメージが強い家政ですが、この同年は織田信長の次男である織田信雄や三男の織田信孝が生まれています。
家政は、父と共に羽柴秀吉に仕えました。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
幼少期から青少年期にかけては特筆すべきこともない家政に、大激震となる事件が勃発したのは天正10年(1582年)6月のことです。
織田信長が明智光秀に討ち取られる【本能寺の変】が勃発したのです。
このとき秀吉に従い中国地方で毛利攻めをしていた家政も、京都に戻って明智軍と対峙。
見事【山崎の戦い】に勝利すると、秀吉と付き合いの長い蜂須賀一族はそれ以降も頼りになる存在となってゆきます。
天正11年(1583年)に【賤ヶ岳の戦い】で柴田勝家に勝利し、翌天正12年(1584年)、播磨佐用郡内に3千石を与えられました。
権力は増大させても実子には恵まれない秀吉にとって、正勝の息子である家政は、我が子同然に可愛い存在だったことでしょう。
家政は、天正13年(1585年)の【紀州征伐】にも参陣。
蜂須賀父子はその後【四国征伐】においても武功を上げてゆきます。
そしてその褒美として阿波一国が与えられようとしましたが、秀吉のそば近くにいることを望んだ小六は、これを辞退するのでした。

蜂須賀正勝/wikipediaより引用
阿波18万石の大名となる
天正14年(1586年)5月22日、父の蜂須賀正勝が亡くなりました。
家を継いだ蜂須賀家政は、阿波領主18万石の地位を手にし、従五位下阿波守に叙任されます。
長宗我部元親による四国の支配体制は崩れ、代わりに蜂須賀家が阿波へ入ったのです。
海で隔てられた四国でも、距離的には京都に近く、とりわけ阿波は淡路島を挟んで大坂と接していることから、非常に重要な土地でした。
秀吉にとって、気の置けない者を配置するのは理にかなったこと。
家政も、その期待を裏切ることなく秀吉の天下取り事業に参加してゆきます。
天正15年(1587年)【九州征伐】
天正18年(1590年)【小田原征伐】

小田原征伐の陣図 photo by R.FUJISE(お城野郎)
天下統一事業において蜂須賀家は、父の代から変わらぬ堅牢な主従関係を続けてゆきました。
その後、もしもあの戦いが強行されなければ、家政は生涯、秀吉と豊臣家に忠誠を誓っていたのかもしれません。
しかし現実はそうなりませんでした。
文禄・慶長の役に苦しむ
文禄元年(1592年)、明の征服を目指して秀吉が朝鮮へ大軍を派兵しました。
【文禄の役】の始まりです。

文禄の役『釜山鎮殉節図』/wikipediaより引用
蜂須賀家政は文禄の役のみならず【慶長の役】にも出陣しますが、序盤の快進撃はどこへやら。兵站は不十分であり、餓死者や戦病死者が大量に出るほど酷い戦場となりました。
しかも【慶長の役】の戦闘では、思うように攻めきれなかったとして、追撃不十分という不名誉な評価もくだされてしまいます。
もはやこれ以上の戦域拡大は到底無理。
家政ら諸大名は戦線縮小を訴えたものの、秀吉には聞き入れられないどころか、家政は領国での蟄居と蔵入地没収を受けてしまいました。
正勝以来、秀吉に忠誠を誓い続けた蜂須賀家にとっては、裏切られたような酷い仕打ちです。
そんな家政のもとに、徳川家康から見舞状が届きます。

徳川家康/wikipediaより引用
心が揺れ動いてもおかしくない状況でしょう。
豊臣政権を牽制し、徳川に目配りをする慧眼
慶長3年(1598年)8月18日、ついに豊臣秀吉が亡くなりました。
そして翌慶長4年(1599年)には【五大老】の一人である前田利家が死去。
こうなると重石が取れたように、豊臣政権の武将たちの間で溜まっていた不平不満が再燃し始めます。
彼らの怒りの矛先は、吏僚であり、【五奉行】の一人である石田三成に向けられました。

石田三成/wikipediaより引用
諸説ある【七将襲撃事件】では蜂須賀家政が名を連ねることもあります。
それだけではありません。
家政は五大老の一人である徳川家康に接近し、黒田長政や伊達政宗らと並び、徳川と姻戚関係まで結んでしまったのです。
しかし、ここで一悶着起きてしまいます。
黒田家との対立です。
家康に接近を図った黒田長政は、家康の養女・栄姫を正室に迎えました。
その際、元の正室だった糸姫と離縁するのですが、この糸姫とは蜂須賀家政の妹だったのです。

黒田長政/wikipediaより引用
そもそもは豊臣秀吉のもとで蜂須賀正勝と黒田官兵衛の関係が強化された婚姻が、家康のもとで組み直されるにあたり、トラブルの原因になってしまったのですね。
妹が離縁された家政は激怒し、この後、蜂須賀家と黒田家は百年以上に渡って断交となりました。
だからといって徳川との関係強化を進めないワケにはいかない。
慶長5年(1600年)6月、家康が上杉景勝を攻めるための【会津征伐】が行われることになりました。
このとき家政は、まだ15歳の嫡男・蜂須賀至鎮(よししげ)を従軍させます。
「せがれは若年ゆえ、お供に加えていただけませぬか」
実質的に至鎮にとっては大事な初陣。
家康にとってもありがたい提案です。
豊臣秀吉と縁が深い蜂須賀家の子息が家康に従うのですから、蜂須賀に続けとばかりに周囲が靡いてもおかしくはない。
むろん、この時点で【関ヶ原の戦い】になることなど誰も予想ついていません。それでも蜂須賀家を味方に引き入れておいて損などあるはずのない話でした。
東軍か? 西軍か? 翻弄される蜂須賀氏
かくして息子の至鎮を徳川に従軍させた蜂須賀家政。
自らは大坂城に残ると、毛利輝元に対して「西軍に参加しない」ように書状をしたためますが、輝元がそれを受け取る前に、入れ違いで大坂へ入城してしまう。

毛利輝元/wikipediaより引用
もしも輝元が書状を受け取り、家政の諫言に従っていたら?
言うまでもなく西軍は一気に弱体化していたことでしょうが、輝元は以前から三成と歩調を合わせていたとも考えられます。
いずれにせよ事態は既に動き始めています。
大坂城には毛利輝元が鎮座して、家政もジッと待つのみ。
三成からは「秀頼の名義」で味方につくよう命じられましたが、息子を家康に従軍させていて困惑するばかりの家政に、前田玄以がこう告げます。
「阿波国を秀頼公に返し、大坂屋敷から出ていくがよい」
もはや玄以の提言に乗るしかないか……。

前田玄以/wikipediaより引用
わずかな供回りと共に大坂を脱出した家政が、高野山で剃髪出家をすると、阿波国には毛利勢が入り、依然として西軍に属することを求められます。
もはや絶対絶命――。
【関ヶ原の戦い】が起きたのは、そんな切羽詰まった状況下。
東軍の勝利により、蜂須賀家はギリギリで窮地を脱することができたのです。
わずか18騎ながら、至鎮が東軍に参加していたこともあり、天下分け目を無事に東軍として切り抜けた扱いとなりました。
家政は、これを機に嫡子・至鎮に家督を譲り、隠居へ。
ギリギリの攻防により、蜂須賀家は戦国期最後の難局を泳ぎ切ったのです。
慶長19年(1614年)に始まった【大坂の陣】でもぬかりなく、西軍の誘いには一切応じず、駿府の家康へ情報を提供。
翌年、夏の陣が終わって豊臣が滅びると、その戦功により、蜂須賀家は淡路一国も与えられ、25万7千石に加増されました。
長寿の家政は、戦国の生き残りとして徳川家光の御伽衆として侍ることもあったほど。
そして寛永15年(1638年)に大往生を遂げました。
享年81。
家政亡き後も、蜂須賀家の徳島藩は、西国の外様大名として明治維新まで残ったのでした。
乱世を泳ぎ切る冴えた判断力
【関ヶ原の戦い】における蜂須賀家の戦闘貢献度は決して高くありません。
若年であり初陣ともいえる蜂須賀家政の息子・至鎮が従軍。
兵数も非常に少ないものでした。
しかし、それでも評価は低くありません。
西軍についても不思議ではなかった蜂須賀家が東軍についたというだけで、家康にとっては非常に大きなアピール要素となる。
家政は、豊臣政権内で発言権があり、重視されていたのでしょう。
父の正勝以来、秀吉の側近として仕えていた役割は小さくありません。
そんなポジションから徳川へ鞍替えしていくタイミングもよかったのか。
実に世渡りが巧みであり、家政に対する「阿波の古狸」という呼び名は、伊達政宗が言い出したともされています。

伊達政宗/wikipediaより引用
東の外様大大名であり、独特のセンスの持ち主である政宗。
彼にとって、西の外様大大名である家政は、くせのある厄介なライバルに思えたのかもしれません。
政宗が家政を意識するとすれば、三代将軍・徳川家光相手に「いやあ、昔は色々ありましたね」と合戦話を語るときでしょう。
家政にせよ、政宗にせよ、あの時代を生き延びたからには、狡猾さがあっても全く不思議ではありません。
父と異なりフィクションでの影は薄いものの、それが惜しまれる世渡り上手なのが、この蜂須賀家政と言えるのではないでしょうか。
👉️父の詳細については「蜂須賀正勝の生涯」をご覧ください
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参考文献
- 別冊歴史読本『野望!武将たちの関ヶ原 ― 参戦武将63人の戦い(別冊歴史読本 12)』(新人物往来社, 2008年5月, ISBN-13: 978-4-404-03612-4)
出版社: (公式商品ページ未掲示/発行は新人物往来社[現KADOKAWAグループ])
書誌情報: 滋賀県立図書館(書誌・所蔵情報) |
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