脇坂安治/wikipediaより引用

豊臣家 豊臣兄弟

賤ヶ岳の七本槍に数えられた戦国武将・脇坂安治の生涯~関ヶ原の裏切者か功労者か

寛永3年(1626年)8月6日は脇坂安治の命日です。

安治と言えば、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられる、豊臣恩顧の代表的武将。

当然、2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟』でも活躍が期待される……と強くは言い切れない状況もありまして。

この安治、もともとキャラが地味で存在感が薄いだけでなく、【関ヶ原の戦い】では西軍を裏切るようにして大谷吉継の部隊へ襲いかかり、最終的に徳川政権のもとで5万石を超える大名となっているのです。

賤ヶ岳七本槍の福島正則も東軍じゃないか――。

そんなツッコミもあるかもしれませんが、正面切って三成と対立していた福島正則と、こっそり家康に内通していた脇坂安治では、やはり印象も大きく変わってくるものでしょう。

いったい脇坂安治とはどんな人物だったのか。

その生涯を振り返ってみましょう。

脇坂安治/wikipediaより引用

 


光秀から秀吉へ

脇坂安治は天文二十三年(1554年)、近江国浅井郡脇坂の地に生まれました。

生い立ちはなかなか複雑だったようで。

実父は田付孫左衛門で、安治の母が脇坂安明と再婚したので安明の養嗣子になったとされます。

元服の時期は判明しておらず、初陣は永禄十二年(1569年)、明智光秀の配下として、丹波国黒井城攻めに参加しました。

明智光秀/wikipediaより引用

このとき赤井直正から「貂(てん)の皮の槍鞘(あるいは旗指物)」を貰ったという逸話が有名ですね。

そうした武働きが羽柴秀吉の目にとまったとされますが、すぐに秀吉の配下となったわけではありません。

時期は天正元年(1573年)からで、浅井長政や朝倉勢と戦った姉川の戦い小谷城の戦いなどに参加。

その後は三木城・神吉城攻めなど、秀吉に従って中国地方の攻略に参戦していました。

過酷な合戦は長きに渡っていましたが、その合間に嫡子の脇坂安元が天正十二年(1584年)に生まれています。

脇坂安元/wikipediaより引用

実は、もう一人早世した男子がいたようなので、結婚は天正八年(1580年)前後と考えられています。

妻はどんな女性だったのか?

というと、出自は一応、公家の西洞院家とされます。

しかし、明確なことは判明しておりません。

当時の西洞院家は、永禄九年(1566年)にいったん断絶し、天正三年(1575年)に養子へ行っていた時慶が戻ってきて再興する、というバタバタな状況でした。

公家相手の結婚であれば、もう少し記録が残りそうなものですが、それが無いということは……自然災害か、あるいは最初から無かったか。

別の見方としては「安治が晩年に京都の西洞院あたりに住んでいたので、『西洞院家と縁付いていた』と誤認されたのでは?」ともされます。

これはこれでありえそうですね。

 


本能寺の変後

天正十年(1582年)6月2日、戦国時代を揺るがす本能寺の変が勃発。

既に秀吉の配下になっていた脇坂安治にとって大事件ではありますが、自身の進退にそう変わりはありません。

そして大きな転機となったのが天正十一年(1583年)賤ヶ岳の戦いでしょう。

柴田勝家という織田家きっての猛将と秀吉が近江で激突したこの合戦。

柴田勝家/wikipediaより引用

安治がいわゆる”七本槍”の一人に数えられるほど奮戦し、山城に3000石を与えられています。

といっても戦場での武働きについてはやはり福島正則のほうが上だったのでしょう。

賤ヶ岳の褒賞をみると、七本槍のうち安治を含めた6人が3000石だったのに対し、正則には5000石が与えられました。

「俺が秀吉様の家臣の中で一番腕が立ち、評価されているのだ」

正則には、こういう自負もあったでしょう。

【賤ヶ岳の七本槍】

加藤清正(1562-1611年)

福島正則(1561-1624年)

片桐且元(1556-1615年)

加藤嘉明(1563-1631年)

脇坂安治(1554-1626年)

平野長泰(1559-1628年)

糟屋武則(1562-不明)

賤ヶ岳に掲げられた七本槍のぼり旗

翌天正十二年(1584年)小牧・長久手の戦にも、安治は秀吉方で参加しています……が、ちょっとカッコ悪い話も伝わっています。

 


預かっていた人質と共に逃げられ

小牧・長久手の戦では滝川雄利(かつとし)という武将が、人質として息子を秀吉に差し出しており、脇坂安治がその子を預かっていました。

すると安治に雄利が言います。

「妻が病気なので、息子を会わせてやりたい……」

子供と聞いて心が動かされたのでしょう。脇坂安治は疑わことなく人質となる子を返してやりました。しかし……。

雄利の涙の訴えは、人質を取り返すための策でした。

結果、雄利父子は無事に本拠地の伊賀上野城へ。

秀吉に叱責された安治は、雪辱を果たすべく伊賀上野城を攻め落とした――というものです。

伊賀上野城の高石垣(江戸時代に築かれた)

なんでそんなあっさり騙されてしまったのか不思議ですが、この戦の直前に安治の嫡子・安元が生まれていたので、人の親としての情に訴えかけられたのかもしれません。

戦国時代であることを踏まえても、なかなか外道な策略ですね。

安治としては、結果的に伊賀上野城を攻略し、摂津国能勢郡に1万石を与えられて大名の仲間入りを果たしましたので、騙されたことも結果オーライでしょうか。

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