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【脇坂安治】
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水軍を率いて小田原や朝鮮半島へ
天正十三年(1585年)、脇坂安治は淡路国洲本城主として3万石の領主となります。
古くから交通の要所として知られる淡路。
秀吉としては「気心知れた者が率いる水軍も欲しい」と考えていたのでしょう。
天正十五年(1587年)の九州征伐、及び天正十八年(1590年)の小田原征伐で安治は、九鬼嘉隆らと共に水軍を率いたとされます。

小田原征伐の陣図 photo by R.FUJISE(お城野郎)
文禄・慶長の役でも水軍を率いて渡海、戦功により3000石加増されました。
この戦では船が足りずに物資輸送が滞ったこと、それをキッカケとして豊臣恩顧の家臣たちや各大名家との対立が深まったという経緯があります。
現場責任者の一人だった安治も、少なからず気分の悪い思いをさせられたことでしょう。
そしてそれが関ヶ原に繋がっていったのかもしれません。
西軍から東軍へ
慶長五年(1600年)9月15日といえば関ヶ原の戦いが勃発した日。
小早川秀秋の東軍参戦で西軍が敗戦に追い込まれたことはよく知られていますが、このとき脇坂安治だけでなく朽木元綱と小川祐忠、赤座直保の部隊も寝返り、戦の趨勢を決定づけました。
ただし安治だけは、事前に息子の安元を徳川家康のもとへ遣わせ、内通を約束していたとされます。
彼らは平塚為広や戸田勝成の部隊を壊滅すると、続いて三成の親友ともされる大谷吉継を自害に追い込みました。

絵・富永商太
吉継は天正五年(1577年)に秀吉が姫路城に入った頃から仕え始めたとされていますので、安治と旧知の仲だったはずです。
また、吉継は合戦前から小早川秀秋の動きを警戒して、脇坂らの部隊を配置していたともされます。
となると吉継は20年来の知人、かつ警戒のために置いていた隊から死に追いやられたわけで……これまた戦国時代とはいえ気分の良い話ではありませんね。
むろん安治にしても、家族や家臣たちの命もかかっているわけですから、どちらが一方的に悪いということでもないでしょう。
大往生
かくして徳川家康率いる東軍は関ヶ原の戦いにて快勝。
裏切った5人の武将たちも、
・小早川秀秋
・朽木元綱
・小川祐忠
・脇坂安治
・赤座直保
勝利に貢献したとして家康に感謝され……ません。

徳川家康/wikipediaより引用
彼らはそのまま三成の本拠・佐和山城の攻撃を命じられました。
裏切り者に対する試練ですね。
実際、その戦は非常に後味悪い展開となっておりまして、詳細は以下の記事からご覧ください。
-
関ヶ原直後に起きた佐和山城の戦い~三成の居城で起きた「女郎墜の悲劇」が辛い
続きを見る
とにかく家康にしてみれば、今度はいつ自分が裏切られるかわからないというもので……事前に家康への内通を約束していた小早川秀秋と脇坂安治を除き、残りの三名は不遇な目に遭わされます。
・朽木元綱→減封
・赤座直保→改易(後に前田家へ)
・小川祐忠→改易
脇坂安治は慶長十四年(1609年)、洲本から伊予国大洲城へ移封され、5万3500石を加増されました。
そして、元和元年(1615年)に家督を譲ると、元和三年(1617年)に京都の西洞院へ移り、しばらく隠居生活を送った後、この地で寛永三年(1626年)8月6日に亡くなりました。
★
関ヶ原の戦いにおける動向を理由に、脇坂安治のことを批判される方もいます。
確かにその指摘も正しいのでしょう。
戦後の家康の対応からして、きちんと筋を通していたと個人的には思うのですが……皆さんはどう感じますかね。
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長月 七紀・記
【参考】
菊地浩之『豊臣家臣団の系図』(→amazon)
『戦国武将事典 乱世を生きた830人 Truth In History』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
『[新訳]名将言行録 大乱世を生き抜いた192人のサムライたち』(→amazon)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典
日本人名大辞典