聡明だけど、人の心がわからず、誤解されやすい性格だ――戦国時代を扱う作品では、そんな人物として描かれることが多い石田三成ですが、不思議とその近くには魅力的な武将がいました。
島左近は以下の記事に譲りまして、
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今回注目したいのは大谷吉継。
病状を覆うために被っていた白い頭巾がトレードマークでもあり、今なお「友情のために散った」武将として戦国ファンの間で圧倒的な人気ですが、いったい彼の何が魅力なのか。
大河ドラマ『どうする家康』でも注目される、大谷吉継の生涯を振り返ってみましょう。
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近江国に生まれ 秀吉に仕え
大谷吉継はいつ何処で誰のもとに生まれたのか?
その詳細は謎に包まれています。関ヶ原の敗戦を経て大谷家が潰され、記録が残されなかったためでしょう。
かつては永禄2年(1559年)の生年説が有力でした。
盟友の石田三成が永禄3年(1560年)であり、同世代というのは間違いなさそうで、現在は永禄8年(1565年)の生年説が有力視されています。
生まれは近江国伊香郡小谷村で、父は六角氏に仕えていた大谷吉房(こちらも諸説あり)。
それがなぜ秀吉に出仕することとなったのか?
というと、母の東殿が、秀吉の正室・寧々(北政所/高台院)の親族あるいは彼女に仕えていたからと伝わります。
その東殿が、秀吉夫妻から信頼を得ていたのでしょう。
彼女の子である吉継も秀吉に仕え始め、天正年間はじめの頃には、小姓としての記録が見え始めました。
そして毛利攻めにも従軍しながら、頭角を現していく吉継。
中国攻め織田家の傘下でそのまま順調にいくかと思われた生活は、天正10年(1582年)、突如終わりを告げました。
ご存知のとおり、当時の秀吉は備中高松城を包囲していた最中。
そこで本能寺の凶報を知ると、急転直下で毛利と和議を結び、清水宗治に自刃をさせ、すぐさま京都方面へ向かって進軍を始めました。
そして直後の【山崎の戦い】で明智光秀と激突します。
結果は、秀吉軍の快勝。
吉継の主である秀吉は、織田家臣の中で一歩抜きん出た存在となりました。
賤ヶ岳で評価された吉継の功績
光秀を破った後の清州会議では、信長の嫡孫・三法師を担いだ豊臣秀吉。
織田家中での権力闘争は激化し、次なる相手となった柴田勝家とは、天正11年(1583年)【賤ヶ岳の戦い】で激突しました。
この戦いが大谷吉継の名を高めるものとなります。
一般的に賤ヶ岳の戦いといえば、以下の武将たちがよく知られた存在です。
いわゆる「賤ヶ岳七本槍」で、この呼称自体は江戸期以降のものとされています。
彼らの武功がいかほどのものだったか。
詳細は省かせていただきますが、吉継もまた活躍し、その武功は七本槍に次ぐとされています。
槍働きとは異なるものです。
長浜城主・柴田勝豊を調略し、内応させたのです。
秀吉の得意とするのはこうした戦術であり、それを実行できた配下の者は当然高く評価されたことでしょう。
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天正13年(1585年)に秀吉が異例の従一位・関白に叙任すると、吉継も従五位下刑部少輔になったのです。
このことから彼は「大谷刑部」と称されるようになりました。
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