島左近

島左近/wikipediaより引用

豊臣家 豊臣兄弟

関ヶ原に散った島左近の生涯「三成にすぎたるもの」と褒め称えられたのは本当か

慶長5年(1600年)9月15日は島左近の命日です。

諱は清興(きよおき)。

あるいは勝猛(かつたけ)とも伝わりますが、この島左近が多くの戦国ファンに支持されるのは、石田三成との主従コンビが劇的だったからでしょう。

とにかく有名すぎる唄がこちらですね。

三成にすぎたるものが二つあり

島の左近と佐和山の城

「石田三成に持たせるにはもったいないものが2つあって、それが島左近と佐和山城だよ」という内容。

こうした高い評価に支えられてなのか。

今なお島左近の人気は高く、漫画やゲーム、あるいはゆるキャラなどでも大活躍しています。

そこで気になってくるのが史実の姿でしょう。

漫画やゲームから離れた、島左近とはどんな人物だったのか。

本当に石田三成にはもったいないほど有能な武将だったのか。

生涯を振り返ってみましょう。

※「嶋」という表記もありますが、本稿では「島」で統一します

 


大和の武士として生まれる

島左近の出自である島氏は、もともと大和国の在地領主であろうと見なされています。

そこではじめは河内国守護の畠山氏に仕えていましたが、徐々に没落。

代わって台頭してきたのが、畠山氏の有力家臣・筒井氏でした。

島氏はこの筒井氏に従うようになり、当主が筒井順慶になった頃には、左近も侍大将にまで出世していたことが確認されます。

フィクションでは「まだ幼い筒井順慶を盛り立てる」という描写も見受けられますが、後世の潤色と見なすのが妥当なようです。

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そんな左近にとっても驚愕の出来事が起きたのが天正10年(1582年)6月2日のことです。

ご存知【本能寺の変】が起き、織田信長が討たれてしまいました。

信長を討った明智光秀は、自身の与力であった筒井順慶に助勢を求ます。

順慶の返答次第では、左近の命運も劇的に揺れる場面。

光秀の誘いをキッパリ拒絶した細川藤孝とは異なり、順慶はあいまいな態度をとり続け、その様は「洞ヶ峠の日和見」として後世に至るまで揶揄されています。

結局、順慶は、光秀を素早く打倒した秀吉に仕えることとなりました。

 


大和で起きた 豊臣一族 不幸の連鎖

本能寺から2年後の天正12年(1584年)、筒井順慶が世を去りました。

次の筒井当主に就任したのは、順慶の甥であり、養子だった定次。

この筒井定次が伊賀上野へ転封になると、天正16年(1588年)、島左近は筒井氏から離れて大和国にとどまります。

ただし、致仕後も、筒井氏や大和の人々との交流は続き、左近の娘・珠は柳生利厳の継室となっています。尾張家に仕え、剣術指南役として名を残した柳生の一族ですね。

肝心の島左近は?

大和といえば、大和大納言と称された豊臣秀長が統治し、左近も秀長に仕えたとされます。

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しかし、仕えてまだ間もない天正19年(1591年)に死去してしまい、今度は豊臣秀保に従いました。

秀保は、秀吉の姉の子です。実子のいない秀長の養子となっていて、数少ない豊臣一門の若き貴公子とも言えましたが、今度は秀保が文禄4年(1595年)4月に不可解な経緯で亡くなってしまいます。

享年17という若さで、その死は隠匿されました。

しかし一族の不幸は止まりません。秀保の死からわずか3か月後に、その実兄である豊臣秀次も非業の自死を遂げてしまうのです。

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あまりに不可解な豊臣一族の連続死――そんな世の中に嫌気でも差したのか。

左近は浪人となり、世から消えました。

 


石田三成が「三顧の礼」で向かえる

在野の島左近には、幾度となく仕官の声がかかったとされます。

しかし、いずれの誘いにも応じず。

そんな彼の心を動かした武将がいました。

豊臣政権でトップクラスの官吏武将である石田三成――石高4万石に過ぎない三成は、半分の2万石を差し出してまで、左近を召し抱えたいとのこと。

君臣禄を分かつ

そんな感動的な逸話として後世に伝えられますね。

実際のところ、仕官を誘った頃の三成は佐和山城を有しており、石高はもっと高かったという指摘もありますが、ともかく島左近の心が動かされたことは確かです。

誠意あふれる人物であり、家臣に声を掛ける際には高待遇を持ちかけたとされる三成。

清廉潔白で慈悲深い人柄は領民から慕われ、江戸時代においてもひそかに語られ続けてきた――島左近とのエピソードも、そんな三成伝説の一端なのでしょう。

石田三成の家臣として島左近が侍る、そのような姿が確認できるのは天正18年(1590年)【小田原攻め】あたりと目されています。

と、一気に先へ進まず、ここで一呼吸置いて考えたいことがあります。

左近の出仕です。

やはりドラマチックな主従の出会いには注意が必要であり、特にこうした逸話は、テンプレートが適用されがち。

具体的に言えば『三国志演義』の劉備と諸葛亮、「三顧の礼」で知られる逸話です。

いかにも劉備と諸葛亮を彷彿とさせるもので、三成と左近という君臣も、古くから水魚の交わりとして認識されていたのでしょう。

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ではなぜ三成は、高待遇で島左近を求めたのか?

豊臣秀吉は、武力よりも経済力や交渉力といった技能を重視していました。

石田三成がその典型例であり、自らの武力には自信がなかったとしても無理のないところです。

しかしだからこそ、自身の身辺を守るため、武に長けた家臣を求めてもおかしくない。そういった意味で島左近は優れていたとも考えられます。

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