メイフラワー号

メイフラワー号/wikipediaより引用

イギリス アメリカ

メイフラワー号が英国から出航! アメリカと移民の歴史はこうして始まった

1620年9月16日、英国のメイフラワー号がプリマス港からアメリカ大陸へ向けて出航しました。

乗員乗客は102名。

乗員はともかく、乗客はそれぞれ違った経緯で「後がない」人々でした。

なぜ、後がなかったのか?

その詳細は後述しますが、彼らが英国から米国へ移住する先駆者となり、その後の“アメリカ”の歴史を作り始めたとも言えます。

それは一体どんな旅だったのか? 経緯を振り返ってみましょう。

 


過酷な船旅は病気蔓延の条件が揃っていた

出港地のプリマスは、昔から軍港だった場所です。

エリザベス1世の時代には【アルマダの海戦】で勝利をもたらしたフランシス・ドレークが市長を務めたこともあります。

それだけに船の整備状況や船員の質は良かったと思われますが、準備万端というだけで航海がうまくいくとは限りません。

沈没事故で有名なタイタニック号だって、船長の評判はかなり高かったようですからね。

しかも17世紀は地球全体が小氷期レベルの寒冷な時代でしたから、新鮮な食料を供給できません。

多くの人間が狭い船室で生活する船旅は、病気が蔓延する条件が揃っていました。

特に深刻だったのは、各種のビタミン欠乏症だったといわれています。

ビタミンC不足は壊血病、ビタミンB1不足は脚気といった重篤な病気を引き起こします。

そもそもビタミンという存在が知られていなかった時代ですし、他にも肺炎や結核などの感染症が流行ることもままあり、メイフラワー号に限らず船旅では病気による死者が絶えませんでした。

 


×聖人 ◯一般人

メイフラワー号でアメリカへ渡ったのは、どんな人々だったのか?

「ピルグリム・ファーザーズという敬虔な清教徒(ピューリタン)だった」

一時期はそう広く信じられていましたが、実際、102人中ピューリタンは41人程度。

他の人はただ単に新天地を求めてこの船に乗っただけだったのだとか。

また、船内でのピューリタンの態度も褒められたものではなく、自分たちが船の支配者層であるかのように振る舞っていたといいます。

そして約2ヶ月後の同年11月、メイフラワー号はようやくケープコッドに到着。

現在のアメリカ北東部にある釣り針のようなカタチをしている半島(地図を拡大するとよくわかります)で、現在はプロビンスタウン港という港があります。

アメリカへ上陸しても、目の前には厳寒の荒野が広がっておりました。

二ヶ月以上の航海を終え、疲弊しきった乗員乗客が楽に過ごせる場所ではありません。

しかも原住民とのトラブルを起こしてしまったため陸では安心できず、船内の不衛生な環境で一冬越さざるを得ない状況。

その間にも壊血病や肺病が蔓延し、130人ほどいた乗員乗客の半数近くが亡くなったそうです。

それでも生存者達は、春にはなんとか上陸して生活基盤を築いていきました。

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