天正十二年(1584年)8月11日、大和国の戦国武将・筒井順慶(つついじゅんけい)が亡くなりました。
「誰それ?」
「聞いたことあるよな、ないような……」
戦国ファンの皆さまでも、そんなリアクションが多いかもしれません。
実はこの方、
・戦国三大梟雄の一人である松永久秀と激しい戦闘を繰り返し
・明智光秀の配下になったかと思ったら
・本能寺の変で大慌て!
という、波乱万丈な生涯を送られた方です。
もしかしたら「山崎の戦いを洞ヶ峠から傍観していたズルい人」という悪評をご存知の方もおられるかもしれません。
筒井順慶とは如何なる武将だったのか?
その生涯36年を追ってみましょう。

筒井順慶/wikipediaより引用
筒井順慶 2歳にして家督を継ぐ
筒井順慶は天文18年(1549年)生まれ。
2歳のときに父の筒井順昭(じゅんしょう)を亡くし、家督を継いでいます。
当時の地元・大和国(奈良県)には全盛期の松永久秀がいて、筒井家は四面楚歌状態でした。
久秀と筒井勢は折り合いが悪く、それでいて久秀には三好長慶という大きな後ろ盾もいて、四方八方を囲まれてしまったのです。

松永久秀(左)と三好長慶/wikipediaより引用
頼みにしていた叔父の筒井順政(じゅんせい)も永禄7年(1564年)のときに亡くなってしまい、その翌年、久秀に攻め込まれて、居城・筒井城を追い出されてしまいました。
しかし順慶は、城を追われて殺されることはなく、隣国へ逃亡するなどして命は助かります。
もちろん、ただ奪われるだけでなく、久秀と折り合いの悪くなっていた三好三人衆と協力し、居城の奪還に取り組みました。
三人衆と共に繰り返した久秀相手の争いは、永禄9年(1566年)頃から激化。
大和の国内(天満山や大乗院山など)で戦闘を重ね、久秀の多聞山城を巡って一進一退となり、その途中の永禄10年(1567年)には東大寺の大仏殿が焼失してしまうという事件まで起きてしまいます。
そこへ三好康長などの助力もあり、どうにか挽回しつつあったところで、一大事が起きました。
織田信長の上洛です。

絵・富永商太
信長の助力を得た久秀に再び攻められ
筒井と松永が激しくドンパチしていたころ、尾張では織田信長が台頭しておりました。
信長は、美濃を併合するや否や、足利義昭を奉じて京都にやってくるのです。

足利義昭/wikipediaより引用
それが永禄11年(1568年)のこと。
当然ながら中央の勢力にも影響があり、真っ先に動いたのが機を見るに敏である松永久秀でした。
久秀は信長に通じるや否や、織田家の後ろ盾を得て、再び順慶と交戦。
息子の松永久通に筒井城を攻撃させてこれを落とすと、さらに織田軍2万という援軍も得て次々に城を落とし、またしても順慶は追い出されてしまいます。
もちろん順慶はそれでも諦めませんでした。
義昭の後ろ盾を得て筒井城を奪還するも
久秀に敗れ、苦況に陥った順慶。
再起のチャンスはなかなか巡って参りませんでした。
幾度か挙兵を試みるも、その都度、松永勢に敗れてなかなか旧領の回復とはなりません。
ただし周囲の国衆たちの中には順慶に味方する者もあり、ジリジリと機会をうかがっていたところ、中央の情勢に変化の兆しが現れます。
元亀2年(1571年)頃より、織田家の助力を得ていた松永久秀が、信長や義昭と距離を取るようになったのです。
代わりに、武田信玄に通じるなどして不穏な動きを見せる久秀。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用
これに対し、順慶を庇護するような立場に鞍替えしたのが足利義昭です。
義昭は、配下の三淵藤英などに順慶をバックアップするよう命じて、松永久秀や三好義継を打ち破り、順慶は筒井城やその他の支城を取り戻します。
ついには松永方の多聞城を包囲するまでになったのです。
しかし……。
何かと目まぐるしく変化するのが中央の情勢であり、順慶は再び難しい局面に対峙させられます。
大和への復帰を後押ししてくれた将軍・足利義昭が、今度は織田信長と揉め始めたのです。
「反松永」という基本スタンス
大和における筒井順慶の動きをいったん整理しておきましょう。
◆大和における筒井順慶
・松永久秀との争いに敗れる
↓
・三好三人衆らの助力を得て反撃
↓
・信長の上洛で再び劣勢に
↓
・足利義昭の助力を得て再起を果たす
↓
・義昭と信長が争い始める
松永久秀、三好三人衆、足利義昭、織田信長――といった大きな勢力の狭間に立たされ、苦しいながらもどうにか波を乗り越えているという印象でしょうか。
問題はこの後の進路をどうするか。
順慶は「反松永久秀」という基本スタンスは遵守し、信長への接近をはかるのです。
と、これが正解でした。
天正元年(1573年)7月に信長と義昭の間で【槇島城の戦い】が勃発。
義昭は京都から追放され、松永久秀も大和国での支配力を失い、ついに順慶は同エリアでの復権を果たしたのです。
復権を果たしたと言っても、不安定な情勢に変わりはありませんでしたが、ともかく織田信長から正式に領地を認めてもらったのが大きい。
かくして織田軍団の一角となった筒井順慶。
人質として自身の母や妻を京へ送ったり。
信長による東大寺・蘭奢待の切り取りのときに接待したり。

天下一の名香として知られる蘭奢待/wikipediaより引用
宗教勢力が非常に強い同エリアの有力者として認められるため懸命に働き、一説には織田家にゆかりのある女性を妻にしたなんて話もあります。
天正3年(1575年)には配下の鉄砲衆50名を【長篠の戦い】にも参加させ、越前一向一揆には順慶本人も従軍するほどでした。
織田家武将として各地を転戦
こうした地道な働きが実を結んだのか。
天正3年(1575年)5月から風向きが一気に変わり始めます。
大和の管理者として信長から派遣されてきた塙直政が、石山本願寺との戦いで戦死してしまい、同エリアにおける筒井順慶の重要性が上がっていきます。
あくまで「明智光秀の下」という立場ではありましたが、大和の支配権を与えられ、同時に『信長公記』などでも目に見えて出番が増えていくのです。
主なものをザッと列挙しますと……。
◆雑賀攻め(天正5年)
◆片岡城の戦い(天正5年)
◆信貴山城の戦い(天正5年)
◆神吉城の戦い(天正6年)
◆播磨出陣(天正6年)
◆第二次天正伊賀の乱(天正9年)
◆甲州征伐(天正10年)
まさしく戦いに明け暮れる日々であり、それは取りも直さず信長に信頼されている証しでもありました。
同じく明智光秀にも気に入られていたのでしょう。

明智光秀/wikipediaより引用
光秀が信長に要請されて、中国エリアで毛利と退治する豊臣秀吉(羽柴秀吉)の援軍に向かうときも、順慶は明智軍と行動を共にすることになりました。
しかし……。
天正10年(1582年)6月2日――本能寺の変、勃発!
突然と一言で括るには、あまりに青天の霹靂だった一大事。
順慶は、再び岐路に立たされます。
明智光秀につくか。
それとも、光秀以外の誰かにつくか。
そもそも信長は本当に死んだのか……。
光秀につくか秀吉につくか
筒井順慶にとって明智光秀は恩人でした。
織田信長への執り成しを助力してもらっていただけでなく、日頃から教養を通じて親しい仲。
軍事的にも傘下にあったと考えられ、例えば天正九年(1581年)に行われた信長の一大軍事パレード【京都御馬揃え】でも、順慶は「大和衆」として明智光秀に付き従ったと考えられます(『信長公記』に名前は掲載されていない)。
当然のことながら【本能寺の変】後は光秀から「味方してくれるよね」という誘いが届きました。
そもそも本能寺の変は、光秀が秀吉の援軍に出向く途中で起きた事件であり、順慶もその援軍に加わる予定でした。
しかし、コトはそう単純ではありませんね。
いかに戦国時代とはいえ、光秀は主君を討った謀反者です。それまでの付き合いだけで、自信の御家の将来を委ねるワケにはいきません。
光秀につくか、秀吉につくか。
この、悩み動けずにいる筒井順慶を評した慣用句が「洞ケ峠(洞ケ峠を決め込む」ですね。
光秀と秀吉による【山崎の戦い】が起きた戦場付近にいて、立場を明確に示さないずるい姿勢=「日和見」の代名詞として知られる言葉ですが、現実はそこまで酷くありません。
確かに順慶はなかなか決断できずにいました。
明智につく姿勢を示したり、やはり思い直したり。
時間をかけながら、最終的には【中国大返し】で畿内へ迫ってくる秀吉サイドに加わることを決定します。

絵・富永商太
そうしたところ【山崎の戦い】が、わずか一日でケリがついてしまうのです。
詳細は以下の記事をご覧ください。
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山崎の戦い|秀吉と光秀が正面から激突!勝敗のポイントは本当に天王山だった?
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大和の支配権は秀吉の弟へ……
いずれにせよ戦いに参加できなかったのは事実。
順慶は秀吉の怒りを買いますが、大和での支配権は認められました。
跡継ぎの筒井定次も人質として送り、その後、秀吉が柴田勝家や織田信孝らと揉め、後に賤ヶ岳の戦いへ発展したときにも、今度は明確に秀吉サイドに付くことを意思表示しております。
賤ヶ岳の戦い本戦そのものには参加しておりませんが、そのころは一揆軍と交戦しており、自身の基盤固めに邁進していたようです。
宗教勢力の強い大和ですから、秀吉もまずは筒井勢の力を利用しようとしたのでしょう。
しかし、度重なる合戦や政争が心身の負担になっていたようです。
順慶は天正12年(1584年)3月に起きた【小牧・長久手の戦い】にも参加しながら、同年8月、とうとう力尽きて亡くなってしまいます。
享年36。
まだ若い、惜しまれる死でした。
なお、順慶が生涯を賭して願った大和国の支配については、秀吉の弟・豊臣秀長のものとなっています。

豊臣秀長/wikipediaより引用
跡継ぎの筒井定次は伊賀へ転封となりました。
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【参考】
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
洋泉社編集部『ここまでわかった 本能寺の変と明智光秀』(→amazon)
国史大辞典
筒井順慶/wikipedia






