三好長慶

三好長慶/wikipediaより引用

三好家

戦国大名・三好長慶の畿内制圧~信長より先に天下人となった43年の生涯とは?

天下人として広く知られる織田信長

その後、豊臣秀吉を経て徳川家康と続き、戦国時代に終わりを告げるわけですが、実は信長の前に「天下人だったのでは?」と評価される人物がいます。

三好長慶(みよしながよし)です。

この長慶、なんと11歳の若さで政局に引っ張り出されると、あれよあれよと出世を果たし、畿内に勢力を築きました。

大河ドラマ『麒麟がくる』で吉田鋼太郎さんが演じて話題となった、松永久秀を家臣に従えていたことでも知られます。

では、史実の三好長慶はいかなる人物だったのか?

大永2年(1522年)2月13日に生まれた長慶の足跡を追ってみましょう。

三好長慶/wikipediaより引用

 


之長~元長に続く三好長慶

三好長慶は大永2年(1522年)、三好元長(もとなが)の子として生まれました。

三好家はもともと阿波に拠点があり、元長の父である三好之長(ゆきなが・長慶の祖父)が細川澄元を支えたことで一躍名を馳せます。

この澄元が細川京兆家(ほそかわけいちょうけ)のトップであり、上洛して権勢を振るうのに、之長も尽力したのですね。

細川京兆家は、室町幕府内の最有力ポスト「管領」を代々歴任してきた名門一族でした。

ここに付き従うことで三好家も勢力を拡大させてきたのです。

しかし……。

之長自身の粗野な振る舞いもあり、主君の澄元と共に権力争いに敗れると、再び阿波へ逃亡。

最終的に之長は権力争いに敗れ、自害へと追い込まれています。

その子であり、長慶の父である三好元長は「敗者の息子」として長く潜伏を強いられました。

いったんは沈んだ三好家ですが、すぐにチャンスはやってきます。

なんせ当時の畿内は【応仁の乱(応仁・文明の乱)】以来、

応仁の乱を描いた『真如堂縁起絵巻』/wikipediaより引用

政治情勢が極めて不安定であり、足利氏やら細川氏やら、常に幕府の有力者たちが権力を巡って争い続けていました。

元長も、澄元の息子・細川晴元らと共に立ち上がり、商業都市として知られる堺を制圧。

近年では「堺幕府」とも呼ばれる新たな政治体制を樹立し、三好氏の立場も安泰になるかと思われました。

しかし、そう容易く収まらないのが戦国乱世の常です。

 


一向宗も敵に回し父・元長は敗死

三好元長と細川晴元はやがて軋轢を深め、天文元年(1532年)には堺幕府の内紛も相まって戦に発展します。

三好元長/wikipediaより引用

晴元は元長を倒すべく山科本願寺と結託。

一大勢力である一揆衆をも敵に回してしまった元長は、10万とも20万とも言われる大軍によって本拠・堺を包囲されてしまいました。

「もはやこれまで……」

敗北を悟った元長は、妻と千熊丸(後の三好長慶)を地元であった阿波へと逃がします。

そして最期の一戦を遂げて自害。

このとき、長慶はまだ11歳でした。

普通に考えれば、長慶もまた父が置かれていた状況と同じ「敗者の息子」として、雌伏の時を過ごすと流れになる場面でしょう。

しかし、当時の京都はそんな状況はお構いなしに荒れておりました。

長慶自身がかなり聡明な少年だったとされ、驚異的な若さで畿内の政局へ引っ張り出されていくことになります。

 


大変だ 一揆勢が暴徒化し止められない

なぜ、さほどなまで急速に、長慶は復権できたのか?

そこには細川晴元の判断ミスがあったことが要因として挙げられます。

先ほど「山科本願寺をけしかけて一揆を引き起こさせた」と記しましたが、問題は元長を追い落とした後でした。

戦に駆り出した一向宗が完全に「暴走化」してしまい、晴元にも止められなくなってしまったのです。

山科中央公園にある山科本願寺の土塁跡/wikipediaより引用

それどころか一向宗のトップである本願寺証如でさえも暴徒たちを治めることができず、いつしか晴元自身が生命の危機にさらされてしまいました。

一向一揆は本当に恐ろしい集団です。

例えば【越前一向一揆】なんかも、非常によく似た展開で大きなトラブルに発展しております。

簡単に説明しておきますと……。

越前では、朝倉家滅亡の後、旧朝倉家臣団の内紛が起き、助っ人に呼ばれた加賀の一向宗徒たちが暴徒化。

越前の一揆勢を巻き込んで武士勢力を追い出し、一時は「百姓の持ちたる国」になっていたのです。

この越前一向一揆を鎮圧するため、後に織田信長は5万の織田軍全力で取り掛かるほどでした。

畿内で細川晴元を追い込んだ一揆勢も同様に恐ろしい集団だったのでしょう。

天文2年(1533年)、一揆衆に押された晴元は、ついに淡路島まで逃亡することを余儀なくされ、その後は晴元派の家臣や法華一揆衆の力も借りてようやく戦況を五分に戻せるような状態。

ようやく一息ついたところで新たな懸念が浮上します。

同じ頃、京都にほどちかい丹波国で、細川晴国が台頭しつつあったのです。

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