大河ドラマ『麒麟がくる』で吉田鋼太郎さんの存在感が目立ちます。
彼が演じるのは松永久秀。
三好長慶の家臣として畿内で権勢をふるい、戦国ファンには
「平蜘蛛の釜を抱き、爆薬で自害した」
という話で知られますね。
あるいは戦国三大梟雄の一人としても数えられたりします。
【戦国の三大梟雄】
斎藤道三
宇喜多直家
松永久秀
では、その壮絶な最期、『信長公記』では如何に表現されているのか?
一般的に【信貴山城の戦い】として知られるこの戦い、信長公記では信長の嫡男・織田信忠の手柄と記されています。
ただ、同時に柴田勝家の動きについても触れられていて、織田家にとっては割と大きな局面だったりします。
今回はその辺の事情を補足しながら進めていきますね。
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そのころ北陸では上杉相手に手痛い敗北
少し前の148話で「柴田勝家らが北陸に出陣した」ことに触れました。
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勝家らが、能登七尾城救援のため出陣したところ、到着前に同城が落とされてしまったというものです。
それを知らずに進軍を続けた勝家軍。
手取川を超えたところでやっと「七尾城落城」の報告を受けます。
救援対象がなくなってしまったからには、敵地のド真ん中にい続けるわけにも行きません。越えたばかりの川を再び渡ることになった勝家織田軍に対し、上杉軍が容赦なく襲いかかりました。
いわゆる【手取川の戦い】です。
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水の近くで背後を突かれる形になったこと、雨で増水していたことなどが相まって、織田軍はかなりの死傷者を出して敗北。
天正五年(1577)9月23日のことでした。
謙信の脅威は当面去り信貴山城へ
もしも上杉謙信がそのまま織田軍を追撃し続ければ、勝家ら主だった武将の命も危うかったかもしれません。
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しかし謙信はそうせず、七尾城の修繕や能登にある他の城の攻略などにとりかかっています。
絶好の機会だったはずなのになぜ?
詳細な理由は不明ながら
◆謙信は、織田信長本人が来ていると思っていたが、そうではなかったので織田軍への攻撃をやめた
◆手取川の戦いの時点で、新暦では11月3日=雪が深まるまで時間がないため、織田軍の始末より足固めを優先した
などが推測されています。
勝家がこのことを信長に報告し、信長も「謙信はしばらくこちらには手を出してこない」と判断したのでしょう。
信貴山城(奈良県)に籠もる久秀の征伐に本腰を入れることにしたようです。
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