月岡芳年による『松永久秀』像/wikipediaより引用

信長公記 三好家

信貴山城の戦いで迎えた久秀の最期! 大仏殿を焼いた因果? 信長公記151話

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10年前のこの日 大仏殿が焼かれていた

松永勢は必死に防戦します。

しかし、好久らの身内に裏切られてはどうにもならない状況。

彼らが三の丸に火を放ったことで大混乱に陥り、大軍に押され、最終的に久秀は天守に火を放って自害しました。

このとき

「久秀は、かつて信長に所望された名物『平蜘蛛茶釜』と共に爆死した」

という説がありますが、これは後世の脚色ですね。

実際には、久秀が自ら叩き割ったとされています。また、そもそも久秀が持っていたのは偽物で、本物は別にあるという説も。

いずれにせよ三好長慶と共に一時代を築いた久秀は、信貴山城の戦いで命を落としたのでした。

信長を2度も裏切った智将の生涯~松永久秀は梟雄でも爆死でもない!

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興味深いのは、信長公記で松永久秀の所業に触れているところです。

遡ること10年前の永禄十年10月10日は、久秀が奈良の大仏殿を焼いた日としております。

実際のところは、当時、久秀が戦っていた三好三人衆が、大仏殿の近くにいたため戦火が延焼してしまったのが原因ですが、信長公記著者の太田牛一としては織田軍の正当性を主張するため、そう記したのかもしれません。

 

神仏の加護を受けていたからに違いない

大仏殿の話だけでなく、牛一は、この戦いで総大将の信忠が被っていた、鹿角の前立てがついた兜にも着目。

「春日明神のご意思で、信忠様を通して久秀に神罰を下したのだ」

世間の人がそう噂しあったとも記しています。

久秀が神仏の敵であり、反対に織田軍にはその加護があった――そう書いているのですね。

春日明神というのは一柱の神ではなく、四柱の神の総称です。

本編とは直接関係ありませんが、興味を持たれた方のため本記事の末尾にてご紹介させていただきますね。

いずれにせよ信長公記では

「このような首尾になったのも、信長が神仏の加護を受けていたからに違いない」

というような記述が多く出てきます。

太田牛一の主観による表現と思われますが、この松永久秀討伐のように、過去の出来事と結びついて世間の人が実際に言っていたこともあるのでしょうね。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

◆武甕槌命(たけみかづちのみこと)

神産みにおいて、伊耶那美命(いざなみのみこと)が火の神である迦具土(かぐつち)を産んだ際、大火傷を負って亡くなってしまいました。

これに怒った伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)が迦具土を斬り殺した際、その血や遺体から武甕槌命を含めた多くの神々が生まれたといわれています。

武甕槌命自体は雷神や、「地震を起こす大鯰(おおなまず)を制する神」として信仰されました。

単独で鹿島神宮(鹿嶋市)の祭神にもなっています。

◆経津主命(ふつぬしのかみ)

古事記には登場せず、日本書紀や出雲風土記に出てくる神様です。

単独では香取神宮(香取市)に祀られています。また、鹿島神宮と香取神宮が利根川を挟んで隣接していることから、武甕槌命とも縁が深いとされています。

経津主神がどのような神なのかは、諸説入り乱れていてはっきりしていません。

誕生についても、迦具土が殺された際、その血が岩に滴って石析神(いわさく)・根析神(ねさく)が生まれ、さらに彼らが経津主神を産んだ説などいくつかパターンがあるようです。

◆天児屋根命(あめのこやねのみこと)

藤原氏(中臣氏)の祖先とされている神様です。

藤原氏が政治の中心となった平安時代以降、藤原氏の氏寺だった興福寺と結びついたため、興福寺は奈良で強大な権力を持つようになりました。

そして春日神社で共に祭られていた他の三柱とともに神仏習合し、四柱の神が「春日権現」とも呼ばれるようにもなっています。

古事記では、天照大神(あまてらすおおみかみ)の岩戸隠れの話で少し出てきます。

また、天照大神の孫である瓊瓊杵命(ににぎのみこと)が地上へ下った「天孫降臨」の際、天児屋根命がお供をしていたとされています。

◆比売神(ひめがみ)

特定の神の名ではなく、主祭神の妻や娘など、関係の深い女神を指す呼び名です。比売=姫=女性というように、なんとなく字面からイメージできるのではないでしょうか。

皇祖神とされる天照大神も、主祭神が別の神である場合は比売神として扱われることがあります。

春日神社の場合は、天児屋命の妻である天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)を指すといいます。

単独でこの神の名を使わないということは、他にも縁のある女神たちを含めて祀っているのかもしれませんね。

単独で比売神を祀る「比売神社」も日本各地に存在しますが、これは他の神社の摂末社(※)であることが多いのだとか。

本社に祀られている神に縁のある女神を、合わせて祀っているということでしょうね。

※摂末社…神社の敷地内、あるいは近隣に建てられている小さな神社

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