宇喜多直家

宇喜多直家/wikipediaより引用

宇喜多家

戦国の謀殺王・宇喜多直家の生きる道~没落の身から息子の秀家は五大老へ出世

天正9年(1581年)2月14日は、宇喜多直家の命日です。

誰かを罠にはめて謀殺するのが得意だったとされることから、松永久秀斎藤道三と並び【日本三大梟雄】の一人に数えられる人物。

しかも殺害したのは妻の父や、娘が嫁いだ相手だったりします。

そのエゲツなさは戦国時代でもなかなかの所業という印象ですが、さりとて「冷酷な人」と簡単に済ませられる話でもなく、直家にも相応の理由はありました。

直家の生涯と共に振り返ってみましょう。

宇喜多直家/wikipediaより引用

 


祖父の代では没落していた宇喜多直家

宇喜多直家の出である宇喜多家は、直家の祖父・宇喜多能家(うきたよしいえ)の代で没落。

嶋村盛実(しまむらもりざね)に攻められ砥石城(備前)で自害しておりました。

それが天文3年(1534年)のことで、以降、直家は、父の宇喜多興家と備後の鞆津(とものつ)や備前の商人を頼るなど、多大なる苦労を重ね、天文12年(1543年)頃に浦上宗景に仕えます。

天文13年(1544年)には元服して乙子城(おとごじょう)の城主に着任。

城主と言えば聞こえがよいですが、手勢わずか30数名だったとされ、周囲の有力勢力(細川氏や松田氏や海賊)から板ばさみのような状態になり、なかなかお家安泰とはなりません。

力の弱い家が生き残っていくためには、謀略に頼るほかない――そこでよく用いたとされるのが、前述の通り“謀殺”です。

例えば永禄2年(1559年)に同盟&婚姻関係を結んでいた舅・中山信正を殺害したのが最たる例でしょう。

妻の父である中山信正と直家は、信正の本拠地である沼城の近くに茶亭を作り、そこで酒宴を開くことがよくありました。

そして永禄2年の某日、お酒が深夜まで及び、中山信正が眠りにつこうとしたそのとき。

直家が斬殺しました。

 


斬殺した舅の沼城を自身の本拠地とし……

この一件は主君・浦上宗景にも事前に相談していた話でもあり、直家一人を悪者にするのもどうか?という考え方もあるようです。

が、このとき同じく邪魔者だった嶋村貫阿弥も沼城へ招き入れ、そこでも斬り殺しているのですから、鮮やかというか空恐ろしいというか……。

いずれにせよ直家はこの後、舅が支配していた沼城を自身の本拠地としています。

沼城(亀山城)本丸/wikipediaより引用

さらには永禄4年(1561年)のこと。

宿敵・松田元輝配下の城主を滅ぼしたかと思ったら、今度はその元輝と手を組み、毛利氏配下にいた三村親家を暗殺しています。

さすが謀殺王という鮮やかさですね。

しかし直家は暗殺や謀殺など、策ばかりの武将ではありません。

当人は合戦も上手で【明禅寺合戦】で三村元親(家親の子)を撃破したかと思ったら、先の松田元輝も攻め滅ぼしたり、さらには備中松山城にて三村元親を滅亡させたりしています。

この間、敵対していた毛利家とは、足利義昭を通じて和睦するなど、外交における臨機応変さを見せています。

基本的に頭の良い方であったのは間違いないのでしょう。

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