イラスト/富永商太

織田家 信長公記

織田軍が北陸で謙信と激突? 勝家とケンカした秀吉は|信長公記第148話

2020/06/13

天正五年(1577年)8月8日、柴田勝家が北ノ庄から北陸へ出陣しました。

といっても、これだけだと「なんのこっちゃ?」という感じがありますね。

『信長公記』によくあることなのですが、織田信長本人の行動以外は「なぜそこでそうしたのか」という経緯があまり書かれていません。

少々補足を入れながら、話を進めていきましょう。

📚 『信長公記』連載まとめ

 

畠山氏の内紛につけこむ上杉軍

まず、この出陣は能登にある七尾城救援のためでした。

七尾城は、能登の大名・畠山氏の居城です。

この頃は当主・春王丸が幼少のため、長続連(ちょう つぐつら)や遊佐続光(ゆさ つぐみつ)をはじめとした重臣たちが実権を持っていました。

また、続連は織田氏、続光は上杉氏をそれぞれ頼ろうとしており、激しい対立が起きていたといいます。

天正四年(1576年)11月、そうした状況の七尾城に上杉謙信が侵攻してきました。

天正五年(1577年)年明けに一旦撤退したものの、閏7月には再度攻め入ってきています。

続連らは七尾城に籠城して粘りましたが、近隣の農民や町人をも収容したため、衛生問題が深刻になってしまいました。

夏場ですから、ただでさえ何もかも傷みやすいのも仕方のないことです。

疫病が発生し、ついには春王丸まで病死するという大惨事で、城内の士気はガタ落ち。

自分たちだけではどうにもならないと悟った続連は、信長に救援を求めるため、三男・長連龍(ちょう つらたつ)を使者として遣わしました。

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冒頭で述べた8月8日の勝家出兵は、この要請に応じたものです。

 


いよいよ謙信との直接対決か

信長もこのエリアの状況はある程度知っており、閏7月23日の時点で、以前から連絡をとっていた奥州の大名・伊達輝宗にこんな依頼をしています。

「越後の本庄繁長と相談して、上杉謙信への牽制に動いてもらいたい」

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これまで謙信と信長は比較的友好な関係を保っていましたが、織田家の勢力圏が越前に及んだこと、信長の権威が増したことで、次第に両者の感情は悪化しつつありました。

いよいよ、直接ぶつかり合う時が来た……という心境だったのではないでしょうか。

武田信玄という大黒柱を失い、さらに【長篠の戦い】で大打撃を与えることができた武田氏と違い、上杉氏は謙信が健在。

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正面からぶつかり合うのなら、長期戦と相応の損失を覚悟せねばならないところです。

そのため、勝家とともに七尾城へ向かった将兵はかなりの規模になりました。

信長公記に載っている主だった武将だけでも、錚々たるメンバーです。

 

織田軍中心メンバーが勝家に率いられ

北陸遠征の武将たちは以下のようなラインナップでした。

◆柴田勝家軍
・滝川一益
・羽柴秀吉(豊臣秀吉)
・丹羽長秀
・斎藤新五
・氏家直通
・安藤守就
・稲葉一鉄
・不破光治
・前田利家
・佐々成政
・原政茂
・金森長近

上記のメンバーに若狭衆が加わり、彼らは添川と手取川を越え、小松村・本折村・阿多賀・富樫などを焼き払いながら進軍しました。

現在の石川県小松市~加賀市にあたります。

謙信方についた一向一揆衆が、このあたりで織田軍の進軍を妨害していたため、対処しながら進まなければならなかったのです。

そのため、普通に通過するよりも時間がかかってしまった上、ここで一つ問題が起きました。

秀吉が勝家と仲違いし、勝手に陣を引き上げてしまったのです。

 

信長公記に合戦の記録がないのはナゼか

戦線離脱など当然許されることではありません。

秀吉にしても、勝家との間によほど頭にくるようなことがあったのでしょう。

ただし、その理由は信長公記だけでなく、他の史料でもわかっていません。

信長は当然激怒したそうで、信長公記では「秀吉は進退に窮した」とまで記されておりますが、その後、特に大きな処罰はされておらず、不可解なことに実質不問にされています。

それどころか秀吉は、その後、中国地方の上月城攻略で大活躍をして、褒美を貰いました。勝手に戦線を離れた代わりに、戦働きでマイナス分を取り返そうとしたようにも見受けられます。

では、北陸に残された織田軍は?

通説ではこの後に【手取川の戦い】が起きたとされ、柴田勝家率いる織田軍は謙信に大敗します。

謙信が軍神とされる理由の一つでもありますね。

ただ、残念なことに信長公記にはまったく記載がありません。次回の話が、割と重大な話題ですので、著者の太田牛一が書き漏らしたのでしょうか……。

当初は信長も北陸へ出陣する予定だったのが、その重大案件に対応するため取りやめられたともいわれています。

その事件とは……?

松永久秀に関するもので、詳細はまた次回へ。

手取川の戦い自体は、以下の記事に詳細がございますので、よろしければご覧ください。

📚 『信長公記』連載まとめ

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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