イラスト/富永商太

織田家 信長公記

織田軍が北陸で謙信と激突? 勝家とケンカした秀吉は|信長公記第148話

2020/06/13

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織田軍の北陸遠征
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織田軍中心メンバーが勝家に率いられ

北陸遠征の武将たちは以下のようなラインナップでした。

◆柴田勝家軍
・滝川一益
・羽柴秀吉(豊臣秀吉)
・丹羽長秀
・斎藤新五
・氏家直通
・安藤守就
・稲葉一鉄
・不破光治
・前田利家
・佐々成政
・原政茂
・金森長近

上記のメンバーに若狭衆が加わり、彼らは添川と手取川を越え、小松村・本折村・阿多賀・富樫などを焼き払いながら進軍しました。

現在の石川県小松市~加賀市にあたります。

謙信方についた一向一揆衆が、このあたりで織田軍の進軍を妨害していたため、対処しながら進まなければならなかったのです。

そのため、普通に通過するよりも時間がかかってしまった上、ここで一つ問題が起きました。

秀吉が勝家と仲違いし、勝手に陣を引き上げてしまったのです。

 


信長公記に合戦の記録がないのはナゼか

戦線離脱など当然許されることではありません。

秀吉にしても、勝家との間によほど頭にくるようなことがあったのでしょう。

ただし、その理由は信長公記だけでなく、他の史料でもわかっていません。

信長は当然激怒したそうで、信長公記では「秀吉は進退に窮した」とまで記されておりますが、その後、特に大きな処罰はされておらず、不可解なことに実質不問にされています。

それどころか秀吉は、その後、中国地方の上月城攻略で大活躍をして、褒美を貰いました。勝手に戦線を離れた代わりに、戦働きでマイナス分を取り返そうとしたようにも見受けられます。

では、北陸に残された織田軍は?

通説ではこの後に【手取川の戦い】が起きたとされ、柴田勝家率いる織田軍は謙信に大敗します。

謙信が軍神とされる理由の一つでもありますね。

ただ、残念なことに信長公記にはまったく記載がありません。次回の話が、割と重大な話題ですので、著者の太田牛一が書き漏らしたのでしょうか……。

当初は信長も北陸へ出陣する予定だったのが、その重大案件に対応するため取りやめられたともいわれています。

その事件とは……?

松永久秀に関するもので、詳細はまた次回へ。

手取川の戦い自体は、以下の記事に詳細がございますので、よろしければご覧ください。

📚 『信長公記』連載まとめ

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

-織田家, 信長公記

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