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【織田軍の北陸遠征】
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織田軍中心メンバーが勝家に率いられ
北陸遠征の武将たちは以下のようなラインナップでした。
◆柴田勝家軍
・滝川一益
・羽柴秀吉(豊臣秀吉)
・丹羽長秀
・斎藤新五
・氏家直通
・安藤守就
・稲葉一鉄
・不破光治
・前田利家
・佐々成政
・原政茂
・金森長近
上記のメンバーに若狭衆が加わり、彼らは添川と手取川を越え、小松村・本折村・阿多賀・富樫などを焼き払いながら進軍しました。
現在の石川県小松市~加賀市にあたります。
謙信方についた一向一揆衆が、このあたりで織田軍の進軍を妨害していたため、対処しながら進まなければならなかったのです。
そのため、普通に通過するよりも時間がかかってしまった上、ここで一つ問題が起きました。
秀吉が勝家と仲違いし、勝手に陣を引き上げてしまったのです。
信長公記に合戦の記録がないのはナゼか
戦線離脱など当然許されることではありません。
秀吉にしても、勝家との間によほど頭にくるようなことがあったのでしょう。
ただし、その理由は信長公記だけでなく、他の史料でもわかっていません。
信長は当然激怒したそうで、信長公記では「秀吉は進退に窮した」とまで記されておりますが、その後、特に大きな処罰はされておらず、不可解なことに実質不問にされています。
それどころか秀吉は、その後、中国地方の上月城攻略で大活躍をして、褒美を貰いました。勝手に戦線を離れた代わりに、戦働きでマイナス分を取り返そうとしたようにも見受けられます。
では、北陸に残された織田軍は?
通説ではこの後に【手取川の戦い】が起きたとされ、柴田勝家率いる織田軍は謙信に大敗します。
謙信が軍神とされる理由の一つでもありますね。
ただ、残念なことに信長公記にはまったく記載がありません。次回の話が、割と重大な話題ですので、著者の太田牛一が書き漏らしたのでしょうか……。
当初は信長も北陸へ出陣する予定だったのが、その重大案件に対応するため取りやめられたともいわれています。
その事件とは……?
松永久秀に関するもので、詳細はまた次回へ。
手取川の戦い自体は、以下の記事に詳細がございますので、よろしければご覧ください。
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【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)





