織田信長の家臣には、当然のことながら様々なタイプがおりました。
滝川一益や前田利家のように、織田家親族や最高責任者の与力・目付のような立ち位置で、各方面の攻略に力を発揮した者。
そして、彼らほどの責務ではなくとも、信長の信頼厚く、要所要所で登場する者です。
慶長13年(1608年)8月12日が命日の金森長近はこのタイプ。
現代における知名度は決して高くありませんが、ところどころでキラリと光る武将です。
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金森長近は美濃源氏土岐氏の出自
金森長近は、大永四年(1524年)に現在の岐阜県多治見市で生まれました。
年齢は信長よりもちょうど10歳上。
滝川一益とほぼ同年齢という年代です。
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金森氏は、美濃源氏土岐氏の支流にあたる家柄でした。
長近の先祖は、応仁の乱で西軍方についていた土岐氏の一人・大畑定近。
彼が一族揃って美濃を離れ、現在の滋賀県守山市金森町に移り、「金森采女」と名乗り始めたとされます。
ご存知の通り、武家が土着先の土地名を名字にすることは多々あり、以下のように例を挙げるとキリがないほどです。
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東国の源氏ばかりになってしまいましたが、
ともかく金森長近は、出自の曖昧な有力家臣が多い織田家にあって、割と由緒正しい家の人なんですね。
蛇足ながら、長近の兄弟には「落語の祖」とされる安楽庵策伝もいます。
本職は僧侶ですが、説教に笑い話を取り入れ、身分の上下問わず付き合い、顔の広い人物だったとか。
長近も後年、茶の道などに通じるようになるので、文化的なものが好きな血筋だったのかもしれませんね。
うつけ者と呼ばれていた信長に躊躇なく仕えて
金森長近の父・定近は土岐氏に仕え、後継者争いの余波で美濃から近江に移りました。
長近も、天文十年(1541年)までは近江にいたようです。
18歳のとき、長近は近江を離れ、信長の父・織田信秀に仕え始めたといわれています。
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残念ながら、キッカケになるような出来事は伝わっておりません。当時の価値観では立派な大人ですし、独り立ちしたということでしょうか。
信秀が亡くなった後、長近はすぐ信長に仕えており、これが中々の英断でした。
”当時の”信長といえば、尾張国内どころか周辺地域の上から下まで「うつけ者」と呼んでいた人物です。
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特にこの間の逸話もないので、長近はトラブルや逡巡もなく、信長に仕えたのでしょうね。
信長からも信用を得ていたようで、永禄二年(1559年)に信長が初めて上洛したとき、金森長近も同行者の一人に選ばれています。
当時の上洛はいわゆる「お忍び」で、兵を率いるような大々的なものではなく、お供はたった80人。当然、信長からの信頼が厚かった者ばかりでしょう。
それを示すポイントがもう一つあります。
このとき、美濃の斎藤義龍が、信長を暗殺するための刺客を放っていました。
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幸い、信長一行の後を追いかけてきていた尾張からの使者・丹羽兵蔵が、このことに気付いて機転を利かせ、信長に知らせることで難を逃れているのですが。
信長は、金森長近と丹羽兵蔵に、刺客のもとへ出向かせ
「なんか用事か? だったら信長様に会って挨拶をしてこい」
と、伝えさせ、結果、戦わずして事を収めてしまうのです。
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美濃からの刺客を、美濃の事情に詳しい者に任せる――というのは、ある意味、博打でもあります。
もしも刺客を呼び込んだのが当の長近だったら、命が危ない場面でしょう。
信長が、そういった懸念を抱いていないあたり、日頃から信頼があったことを窺わせます。
別働隊を率いて武田軍の背後を衝け!
金森長近は、美濃攻略でも功績を挙げ、赤母衣衆の一員に選ばれています。
前田利家が率いていた馬廻衆(側近部隊)ですね。
なお、黒母衣衆の代表武将が佐々成政で、いずれも織田家臣では中心の武将たちでした。
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そんな中で金森長近は、大きな作戦をまるごと任されるということはありませんでしたが、要所要所で功績を挙げていきます。
例えば、天正三年(1575年)5月【長篠の戦い】では5,000騎を率いて、3,000騎を従えた酒井忠次と共に、鳶巣山砦を落としています。
ここは武田方の総大将・武田勝頼の背後でもあり、メインの戦場となった設楽原へ追い出すという非常に重要な役割だったところですね。
この戦功で信長から「長」の字を賜り「長近」と名を改めています。
実はここまでは「可近(ありちか)」と名乗っていました。
それから数カ月後。
同年8月には信長が主導した【越前一向一揆】攻略のため、温見峠越えをして越前大野へ。ここから数ヶ月で平定に成功しています。
信長ももちろん高く評価し、長近に越前国大野郡の2/3を与えました。
その後は柴田勝家が最高責任者を務める、北陸方面軍の一員として動きます。
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この北陸方面軍は、先の前田利家や佐々成政、佐久間盛政なども所属しているバリバリの武闘派集団です。
あまり【武】のイメージのない金近ですが、この集団でやっていけるということは、相応の腕前・胆力だったのでしょう。
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