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【金森長近】
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甲州征伐
武田氏の本拠を攻めた天正十年(1582年)の甲州征伐においては、飛騨口の大将を務めました。
一度所属を決めたからってそれをガチガチには固めず、必要に応じて編成を変えていく柔軟性も、信長の大きな特徴ですね。
一方で、宥和的な方針を用いたこともありました。
この頃、土岐氏の重臣だった長屋氏から養子をとって金森可重(ありしげ/よししげ)と名乗らせ、彼の正室として遠藤慶隆(よしたか)の娘・室町殿を迎えています。
可重の父・景重は板取田口城。
室町殿の父・遠藤慶隆は郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう・岐阜県郡上市)の主でした。
この縁組は、軍事的なメリットもさることながら、長近からすると美濃・尾張と行き来するルートをもうひとつ確保することにもなりました。
硬軟さまざまな策を使い分ける、優秀な武将といえるでしょう。
運命が劇的に変わった1582年6月2日
天正十年(1582年)2月には従四位下・兵部大輔に任じられ、さらにその後、正四位下・兵部卿に昇格。
いずれも朝廷のお役所(八省)の中で軍事関連を受け持つ「兵部省」の役職で、兵部卿が長官、兵部大夫がその次に高いポジションです。
兵部卿は皇族が就くケースも多く、源氏物語でもたびたび「兵部卿宮」と呼ばれる人物が登場しますね。
※ヒロイン紫の上の父=兵部卿宮、光源氏の弟=蛍兵部卿宮など
鎌倉幕府成立以降、兵部省の仕事は代々の幕府や将軍・武家に取って代わられていましたが、本来は衛士(諸国から上洛し、宮中警護を行う者)の管理などもしていた役所です。
長近の人物をうかがわせるエピソードがあまり伝わっていないので、これはあくまで推測ですが……。
おそらく信長は
「もしこの先、兵部省の仕事をやることになったとしても、長近なら皇族・公家から下々の者まで、誰とでもうまくやっていけるだろう」
と思っていたのではないでしょうか。
有能な司令官ならば他にもたくさんいました。官職も同様です。
その中であえて兵部省に関するものを選んでいるあたりに、信長からの長近に対する評価がうかがえるかと。
しかし、そんな彼の順調な武将生活も突如激変します。
1582年――本能寺の変です。
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嫡男は二条御所で信忠と共に……
他の家臣たち同様、本能寺の変で織田信長が斃れると、金森長近の運命も激変しました。
実はこのとき、彼の嫡男・金森長則が織田信忠と共に討死しています。
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場所は二条御所。
攻め込んだ明智軍は斎藤利三で、他にもここで村井貞勝・貞成親子や斎藤利治などが戦死しております。
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長近は主君父子と息子を弔うため、剃髪して「兵部卿法印素玄」と号し、臨済宗大徳寺に金龍院という塔頭を建ててもいました。権力争いの当事者になるつもりはなかったのでしょう。
しかし、即座に武力を捨てたとしても、潔すぎて怪しまれるというもの。
柴田勝家と羽柴秀吉が対立すると、長近は当初は勝家方につきました。
勝家とは北陸での付き合いもありましたし、土岐氏の血を引く長近からすれば、秀吉は成り上がり者ですから、すぐに従う気にはならなかったでしょう。
ですが長近は、矜持で身動きが取れなくなるようなことはしませんでした。
天正十一年(1583年)【賤ヶ岳の戦い】でも勝家方にいたものの、前田利家と行動を共にし、ここから秀吉につくようになります。
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飛騨一国の大名に!
豊臣秀吉に臣従してからの金森長近も、堅調な働きっぷりは変わらずで、その後は
などで功績を挙げ、飛騨一国を与えられます。
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天正地震のため一晩で山中に埋もれたとされる飛騨国・帰雲城(かえりぐもじょう・埋蔵金伝説も存在)と内ヶ島氏にも、長近が少しだけ関係しておりますので確認してみますと……。
佐々成政が秀吉に敵対していた頃、内ヶ島氏は成政方についていました。
しかし、本拠・富山城へ攻め込まれた成政は、10日ほどで剃髪・降参。
内ヶ島氏は元々飛騨の峻険な地域を領していたこともあり、外征経験が少ないため、これ以上の抗戦は不可能と判断します。
損耗を避けるため、当主の内ヶ島氏理(うちがしま うじまさ)は、長近を通じて秀吉と和睦したい旨を伝えました。
この和睦はスムーズに成立し、帰雲城ではそれを祝って氏理以下、一族・重臣が勢揃いする大祝宴が行われることになります。
よりにもよってその宴の夜に天正地震が発生。
城ごと全員土砂に埋まってしまった――というものです。
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内ヶ島氏の領内に2~3ヶ所の金山があったとされ、埋蔵金伝説も生まれたのです。
言わずもがな、地震は自然現象なので長近に責任はないものの、この知らせを聞いて複雑な気持ちになったでしょうね。
金森長近がどのタイミングでこの件を知ったかはわかりません。
が、飛騨一国を預かる立場になったからには、内ヶ島氏に連絡を取ろうとしたはずです。
内ヶ島氏の中で、たまたま外出していた人や、氏理の親族のうち、仏門に入っていた弟二人は助かったといわれていますので、その中の誰かから聞くか、誰かに調べさせるかくらいはしたでしょう。
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