謀反人・明智光秀に付き従った家臣といえば、その終わりが儚いことは皆さんご想像つくことでしょう。
秀吉に殺されたり。
落ち武者狩りに遭遇したり。
天下人・織田信長を斃しておきながら、彼等の結末は、主君の光秀と共に三日天下で幕を閉じてしまったのです。しかし……。
見方によっては大いなる血を残した人物もいます。
その名も斎藤利三――。
明智家の重臣であり、春日局の父でもある利三は、謀反人として命を落とし、娘は江戸幕府で多大なる功績を残したのでした。
一体いかなる人物だったか?
天正10年(1582年)6月17日に亡くなったとされる、斎藤利三の生涯を振り返ってみましょう。
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出自や生年不明の斎藤利三
斎藤利三は、出自や生年などの多くが不明。
最大の理由は【本能寺の変】です。
主君の明智光秀が織田信長を斃した後、山崎の戦いを経て謀反人として滅亡したため、主君同様に良質な史料が残されておりません。
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ゆえに利三の生年は活動時期から推定するしかなく、説としては天文3年(1534年)、あるいは天文7年(1538年)が存在します。
父の正体もまた不明です。
一応、斎藤利賢(さいとうとしかた)と考えられており、仮にこれが事実であれば、利三は美濃斎藤氏の系譜にあたります。
この「美濃の斎藤」とは、斎藤道三のことではありません。
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道三は美濃を乗っ取って「オレは斎藤氏だ!」と名乗っていただけ。
その流れとは別に美濃斎藤氏がおり、守護の土岐氏に仕えておりました。斎藤利三もその出自の可能性が考えられるというわけです。
利三の通称は「内蔵助」で、赤穂事件で著名な大石内蔵助などと同じ名称になります。
名前の読み方は「としみつ」であるとされていますが、『明智軍記』においては「としかず」と表記されている箇所もあり、この部分も確定はしていません。
もっとも、これ以外の出自はほとんど謎に包まれたままです。
母は、蜷川親順・娘と考えられていますが、明智光秀の姉妹または叔母ではないか?という説もあり、確定するには至っていません。
ちなみに蜷川親順は政所執事代(執事の補佐)という役職に就く、室町幕府の重臣でした。
幕府末期の奉公衆で光秀と面識があった?
出自や生年がハッキリしない利三の前半生は、やはり闇の中。
良質な史料に初めて登場するのは実に元亀元年(1570年)のことであり、推定年齢からすると30代であり、単純に考えて生涯の半分以上が謎に包まれていることになります。
しかし、多少質の下がる史料や当時の慣習から前半生を推測している研究や文書もあります。
史実とは言い難い面もありますが、その内容をもって彼の生涯を見ていきたいと思います。
利三が明智光秀に仕え始めたのは、かなり後年になってからのこと。
父や実兄の石谷頼辰の素性から、利三もまた室町幕府末期の奉公衆だった可能性があります。
後の主君・明智光秀も奉公衆の出身と考えられており、仮にこれが事実であれば両者は若かりし頃から互いに面識があったのでしょう。
その後は父と同様、美濃斎藤氏に仕え、「西美濃三人衆」の筆頭と目された稲葉良通(稲葉一鉄)の配下として活動していたと推測されています。
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あくまで想像ではありますが道三を没落させた【長良川の戦い】や、織田信長との抗争にも参加していた可能性も考えられますね。
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しかし、斎藤家による美濃の領国経営はやがて破綻を迎えます。
美濃攻略を視野に入れていた信長と、斎藤義龍に代わって当主になった斎藤龍興。
その狭間で折衝役を務めていた稲葉良通ら西美濃三人衆(美濃三人衆)は、次第に龍興との不和により斎藤氏への忠誠心を失っていくのです。
仲たがいの理由は「龍興が一部の重臣のみを寵愛した」ことが原因でした。
上司の贔屓と部下の不満は、戦国武将もサラリーマンも同じようなものですね。
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主の稲葉家が龍興を見限って織田家へ
龍興の方針に苛立ちを募らせ、真っ先に行動したのが三人衆の一角・安藤守就です。
娘婿の竹中重治(半兵衛)と共に龍興配下の稲葉山城を占領するというクーデターを実行しました。
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この騒動自体は思ったほど斎藤家臣らの支持を集めることができなかったようで、結局、城は龍興に返還されます。
彼らが矛を収めたことにより一応の和解と相成ったのですが、やはり三人衆の我慢は限界に達しており、永禄10年(1567年)からは信長と内応していたようです。
そして永禄10年(1567年)、信長が美濃への本格的侵攻を開始――。
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