謀反人・明智光秀に付き従った家臣といえば、その終わりが儚いことは皆さんご想像つくことでしょう。
秀吉に殺されたり。
落ち武者狩りに遭遇したり。
天下人・織田信長を斃しておきながら、彼等の結末は、主君の光秀と共に三日天下で幕を閉じてしまったのです。しかし……。
見方によっては大いなる血を残した人物もいます。
その名も斎藤利三――。
明智家の重臣であり、春日局の父でもある利三は、謀反人として命を落とし、娘は江戸幕府で多大なる功績を残したのでした。
一体いかなる人物だったか?

『堅田浦の月』の斎藤利三(月岡芳年『月百姿』より)/wikipediaより引用
天正10年(1582年)6月17日に亡くなったとされる、斎藤利三の生涯を振り返ってみましょう。
出自や生年不明の斎藤利三
斎藤利三は、出自や生年などの多くが不明。
最大の理由は【本能寺の変】です。
主君の明智光秀が織田信長を斃した後、山崎の戦いを経て謀反人として滅亡したため、主君同様に良質な史料が残されておりません。
ゆえに利三の生年は活動時期から推定するしかなく、説としては天文3年(1534年)、あるいは天文7年(1538年)が存在します。
父の正体もまた不明です。
一応、斎藤利賢(さいとうとしかた)と考えられており、仮にこれが事実であれば、利三は美濃斎藤氏の系譜にあたります。
この「美濃の斎藤」とは斎藤道三……のことではありません。

斎藤道三/wikipediaより引用
道三は美濃を乗っ取って「オレは斎藤氏だ!」と名乗っていただけ。
その流れとは別に美濃斎藤氏がおり、守護の土岐氏に仕えておりました。斎藤利三もその出自の可能性が考えられるというわけです。
利三の通称は「内蔵助」で、赤穂事件で著名な大石内蔵助などと同じ名称になります。
名前の読み方は「としみつ」であるとされていますが、『明智軍記』においては「としかず」と表記されている箇所もあり、この部分も確定はしていません。
もっとも、これ以外の出自はほとんど謎に包まれたままです。
母は、蜷川親順・娘と考えられていますが、明智光秀の姉妹または叔母ではないか?という説もあり、確定するには至っていません。
ちなみに蜷川親順は政所執事代(執事の補佐)という役職に就く、室町幕府の重臣でした。
幕府末期の奉公衆で光秀と面識があった?
出自や生年がハッキリしない利三の前半生は、やはり闇の中。
良質な史料に初めて登場するのは実に元亀元年(1570年)のことであり、推定年齢からすると30代であり、単純に考えて生涯の半分以上が謎に包まれていることになります。
しかし、多少質の下がる史料や当時の慣習から前半生を推測している研究や文書もあります。
史実とは言い難い面もありますが、その内容をもって彼の生涯を見ていきたいと思います。
利三が明智光秀に仕え始めたのは、かなり後年になってからのこと。

明智光秀/wikipediaより引用
父や実兄の石谷頼辰の素性から、利三もまた室町幕府末期の奉公衆だった可能性があります。
後の主君・明智光秀も奉公衆の出身と考えられており、仮にこれが事実であれば両者は若かりし頃から互いに面識があったのでしょう。
その後は父と同様、美濃斎藤氏に仕え、「美濃三人衆」の筆頭と目された稲葉良通(稲葉一鉄)の配下として活動していたと推測されています。
あくまで想像ではありますが道三を没落させた【長良川の戦い】や、織田信長との抗争にも参加していた可能性も考えられますね。

西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(稲葉良通)/wikipediaより引用
しかし、斎藤家による美濃の領国経営はやがて破綻を迎えます。
美濃攻略を視野に入れていた信長と、斎藤義龍に代わって当主になった斎藤龍興。
その狭間で折衝役を務めていた稲葉良通ら西美濃三人衆(美濃三人衆)は、次第に龍興との不和により斎藤氏への忠誠心を失っていくのです。
仲たがいの理由は「龍興が一部の重臣のみを寵愛した」ことが原因でした。
上司の贔屓と部下の不満は、戦国武将もサラリーマンも同じようなものですね。
主の稲葉家が龍興を見限って織田家へ
龍興の方針に苛立ちを募らせ、真っ先に行動したのが三人衆の一角・安藤守就です。
娘婿の竹中重治(竹中半兵衛)と共に龍興配下の稲葉山城を占領するというクーデターを実行しました。

竹中半兵衛/wikipediaより引用
この騒動自体は思ったほど斎藤家臣らの支持を集めることができなかったようで、結局、城は龍興に返還されます。
彼らが矛を収めたことにより一応の和解と相成ったのですが、やはり三人衆の我慢は限界に達しており、永禄10年(1567年)からは信長と内応していたようです。
そして永禄10年(1567年)、信長が美濃への本格的侵攻を開始――。
事前に調略されていた斎藤家はもろくも崩れ(稲葉山城の戦い)、龍興は美濃からの敗走を余儀なくされました。
龍興の失脚により没落した斎藤家を見限った稲葉一鉄(稲葉貞通)は、これ以後、信長の配下として仕えます。
このときの内応について利三が関与していたかどうかは不明ですが、少なくとも稲葉氏の離反に伴い、主と共に織田家へと離反したのは確実でしょう。
信長の配下になる前の斎藤時代に利三が妻を娶っていたことは確実で、その素性は道三の娘とか、良通の娘とか、あるいは姪とか様々な説が混在します。
実は、生まれてきた子供が後に江戸幕府でかなり重要な役割を担うことになるのですが、詳細は後述するとして先へ進めましょう。
光秀に仕えてからは信頼を獲得して大活躍
前述のとおり、良質な史料に利三の名が登場するのは元亀元年(1570年)のこと。
浅井・朝倉の裏切りに遭った信長が、越前から撤退する最中の警護を命じられています。

浅井長政と朝倉義景/wikipediaより引用
この時はまだ稲葉良通の配下にあったようで、彼の与力という立場は変わっていなかったと考えられます。
しかし、その後まもなくして利三は良通のもとを離れ、光秀に仕えるように。
鞍替えの詳細な史料が残されておりませんが、一説では光秀が利三の能力を見込んでヘッドハンティングしたという見方もあります。
仮にこれが事実であるとすれば、親戚関係にあったとはいえ利三の能力は高く評価されていたと考えられるでしょう。
『当代記』という史料では彼のことを「信長勘当の者」と表記しており、鞍替えの際に何かしらのトラブルを起こし信長を激怒させた可能性が指摘されています。
ただし、天正8年(1580年)ごろには、信長に重用されていた茶人・津田宗及に関係した茶会に利三が出席していることから、この時期までには信長の許しを得ていたと見るべきです。
いずれにせよ利三は、光秀から非常に重用されました。
処遇を見ると明智秀満ら筆頭家臣のそれと似通った扱いを受けているのです。
やはり優秀な人物であったのでしょう。
各地の合戦と並行しながら丹波を攻略
詳細は不明ながら光秀が関わった主要な合戦にはほとんど従軍していたと見なされており、例えば丹波国攻略などにも貢献したはずです。
丹波周辺は国人たちが割拠する攻略の難しい地域と目されており、厳しい戦いを強いられました。
しかも、雑賀攻めや本願寺攻略など、織田家の合戦と並行しながら、丹波国のみならず丹後国の平定も見事に成し遂げ、信長から感状を受け取っています。

丹波の有力武将であり光秀に滅ぼされた波多野秀治/wikipediaより引用
明智光秀は計34万石を所有する一大勢力に成長。
手に入れた丹波の地には重臣らが配置されました。
利三も1万石を与えられ、黒井城城主と氷上郡(現在の兵庫県付近)の統治を命じられます。
このように、急成長していく光秀の勢力拡大に伴う恩恵にあずかる形で、利三もまた織田家臣団の中で力を握っていくようになります。
しかし、主君である光秀のクーデターにより、彼もまた運命を急転させます。
利三は、織田家と長宗我部家(四国)との狭間に立たされてしまい、その動向は【本能寺の変】にも影響しているかもしれないのです……。
滅びゆく光秀に忠を尽くし
天正8年(1580年)ころになると、それまで同盟を結んでいた四国の長宗我部家と織田家の関係が悪化。
両者は敵対するようになり、天正9年(1581年)には信長の支援を得た三好氏や十河氏らが長宗我部家へ攻め込みます。
さらに天正10年(1582年)2月には、信長の三男・織田信孝を総大将とした四国攻略軍が編成され、長宗我部家当主だった長宗我部元親は危機感を募らせました。

織田信孝(神戸信孝像)/wikipediaより引用
元親は、親戚関係にあった斎藤利三へ書状を送り、信長へ恭順する用意があることを示唆します。
光秀や利三としても、織田家による長宗我部攻撃は避けたいところでした。
元はと言えば、信長は四国のことを「切り取り次第(好きなように分捕りなはれや)」と元親に約束していたのです。
それが突然、約束を反故にし、
「領土は土佐と阿波(南部)だけにして伊予と讃岐は返還せよ」
という強硬な姿勢になったのですから、長宗我部としては憤懣やるかたないところ。
信長と敵対するべきか否か?
元親も判断に迷いましたが、結局、強大な織田家に真っ向から逆らう愚を避けるため、態度を軟化させました。

長宗我部元親/wikipediaより引用
しかし、です。肝心の信長が、攻勢の手を緩めようとせず、あくまで四国攻略は既定路線であるという認識を示すのです。
この「四国政策の転換」は、光秀にとって叛意を募らせる一つの要因になったと指摘されています。
本能寺の変をめぐる光秀の真意は日本史上最大の謎であり、利三の立場を考えると、その一因となったとしても不思議ではない……と言いたいところですが、この四国動乱説も後に新史料が出て「織田と長宗我部は和解に向かっていたのでは?」と指摘されています。
数多ある本能寺の変真相については、以下の記事に詳細をお譲りしますので、よろしければ併せてご覧ください。
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本能寺の変|なぜ光秀は信長を裏切ったのか 諸説検証で浮かぶ有力説とは
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ともかく光秀はことを起こした。
利三にとって重要だったのは、明智秀満などの明智家重臣と共に、光秀から最初に決意を打ち明けられたことでしょう。
主・光秀の意を汲み本能寺へ
秀光も利三も、主君・光秀のクーデターには反対だったと伝わります。
しかし、結局は意思を尊重し、変の首謀者として名を連ねることになりました。
天正12年(1582年)6月2日未明。
利三らは、信長の滞在する本能寺を急襲します。

織田信長/wikipediaより引用
【本能寺の変】の始まりです。
利三は先鋒として攻撃に尽力し、信長の遺体を押収することこそ不可能だったものの、燃え盛る炎の中でまず間違いなく敗死させ、さらには二条にいた織田信忠を自害へと追い込みました。
光秀の目的は達成されたのです。
天下の下剋上を果たした光秀は、さっそく公卿や周辺武将と交渉を重ね、地盤を盤石なものにしようと行動しました。
しかし、悉く失敗。
特に、彼が頼みにしていた細川藤孝や筒井順慶の協力を得ることができないのが痛手であり、なおかつ羽柴秀吉(豊臣秀吉)の【中国大返し】により、非常に不利な状態での直接対決を余儀なくされます。
同年6月13日に、山崎の戦いが勃発!
利三はここでも先鋒を務めました。
洛中引き回しの上、六条河原で斬首
勇猛果敢に攻め込むにしても、戦前から明智軍の不利は火を見るより明らかでした。
大義名分はまったく無く、単純に兵数でも大きく負けている。
「信長様のかたきを討とう!」
そんな秀吉軍とは士気の差が歴然であり、明智方は大敗を喫するとあえなく瓦解します。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
そして光秀は逃亡の最中で自害を余儀なくされ、後に安土城も坂本城も火の海に包まれました。
作戦に反対したと考えられている利三は、この光景をどのような思いで見ていたのか……。
それでも、大半の明智勢が討ち死にや自害の憂き目に遭う中で、利三は戦場を逃れ、潜伏しながら逃亡生活を送っていました。
彼は近江の堅田に潜伏していたと考えられています。
しかし秀吉が捜査網を拡大させると、戦からわずか4日後の17日に捕縛。
当然ながら許しを得られるはずもなく、洛中を引き回された後に六条河原で斬首されてしまいました。
さらに、彼と光秀の屍は見せしめとして栗田口にさらされるなど、その最期はあまりにも虚しいものになってしまったのです。
利三の存在を史料の上で確認できるのはわずか10年と少々ではありますが、光秀の重臣として彼の出世に大きく貢献したことは疑いようもないでしょう。
利三の子どもたちは江戸時代に名を挙げる
洛中引き回しの上に死体まで晒され……。
一切の名誉を誇示することができなかった利三。
しかし、江戸時代になると彼の子供たちが父の不遇を跳ね返すような目覚ましい活躍を見せるのです。
利三の子どもで著名な人物は、江戸幕府三代将軍である徳川家光の乳母ながら政治家としても実権を握った春日局や、加藤清正の配下として活躍した斎藤利宗が挙げられるでしょう。

春日局/wikipediaより引用
春日局は「福」という名で斎藤家に生まれ、父の死をきっかけに母方の稲葉家に引き取られたと考えられています。
そこで公家流の教養を身に着け、小早川秀秋の家臣・稲葉正成の妻となりました。
正成は関ヶ原で秀秋を寝返らせた功のある人物となりましたが、秀秋のもとを離れるや浪人生活を余儀なくされています。
これがキッカケとなったのか。
利三の娘・福は大奥入りを決意し、夫と離婚。
家光の乳母として養育係の枠を大きく超えた実権を握るようになり、その権力は老中をもしのぐとさえ噂されました。
また、春日局は後に老中を務める堀田正俊を養育するなど、その後の幕府やさらには明治維新にもつながる活動をみせています。
「謀反人(家臣)の娘」という立場から一気に立身出世を果たした春日局は、まさしく父の無念を晴らした見事な下克上を成し遂げたのです。
彼女が下克上していくにあたり、利三の母方に存在したコネクションが大いに役立ったのは間違いないでしょう。
このあたりの経緯を見る限りでは、稲葉家と利三の関係性は良好なようにも感じられ、引き取るリスクを冒していることからも良通と利三が仲たがいしたというのは疑わしいようにも思えます。
自身こそ主君の天下を味わう間もないまま亡くなってしまった利三。
彼の死後に春日局が果たした役割を考えると、歴史上における彼の存在した意義は非常に大きなものと言えるのかもしれません。
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【参考文献】
横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興:戦国美濃の下克上(戎光祥出版)』(→amazon)
木下聡『美濃斎藤氏 (論集 戦国大名と国衆)(岩田書院)』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
谷口研語『明智光秀:浪人出身の外様大名の実像(洋泉社)』(→amazon)





