明智光秀の原像~史論としての「明智軍記」/amazonより引用

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光秀の生涯を描いた唯一の書物『明智軍記』には何が書かれている?

大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公だった明智光秀

公式ホームページではその概要について、次のように書かれていました。

「麒麟がくる」では謎めいた光秀の前半生に光を当て、彼の生涯を中心に、戦国の英傑たちの運命の行く末を描きます。

実は、明智光秀が謎めいているのはその前半生だけではありません。

後半生についても、本能寺の変を起こした理由に始まり、百姓に槍で刺され、自らの首を隠すように伝えたとされるその最期まで、光秀の本当の姿、実像は明らかになっていません。

歴史学的に見れば、光秀に関する史料が断片的な評伝などはあっても、他にほぼ存在していないからです。

今、世の中に出回っている明智光秀像は、司馬遼太郎の『国盗り物語』しかり、今度の『麒麟がくる』もそうでしょうが、その多くは虚像、すなわちフィクションです。

誰も本当の光秀を知らないのです。

しかし、私たちが謎めいた存在である光秀に近づくことのできる唯一の史料があります。

それが、元禄初年から15年(1688~1702年)頃に書かれたといわれる、明智光秀が主人公の軍記物『明智軍記(作者不明)』です。

 


光秀の「えん罪」を晴らすことが目的だった

『明智軍記』では、明智光秀の美濃脱出から、本能寺の変、そして山崎の戦いの後、竹藪で殺害されるところまでが、その人となりとともに描かれています。

しかし、創作が多く含まれていること、また内容には誤りが多く、他の史料との整合性がとれないことから、歴史学者の高柳光寿博士が、著書の中で「誤謬充満の悪書」と断じるなど、これまで歴史学の史料としての価値は低いというのが定説でした。

『明智軍記』が史料としての価値が低いことは事実でしょう。

ですが、この書を別の捉え方をすることによって、私たちがほとんど意識してこなかった新しい光秀像が浮かび上がってくることも確かです。

この軍記が成立した背景に目を向けてみましょう。

光秀が没したとされるのは天正10年(1582年)。

死後およそ120年の時を経て、この軍記が誕生したことになります。

なぜ、それだけの時を経て、光秀を描いた軍記物が生まれたのか。

それは『明智軍記』が光秀の「えん罪」を晴らすことが目的で書かれたと考えられるからです。

「えん罪」とは言うまでもなく、主君である信長殺しのことを指します。

 


聖なるものの守護者として信長を滅ぼす

光秀の代名詞といえば「謀反人」「反逆者」といったネガティブな言葉が並びます。

特に、当時の儒教的な価値観のもとでは、光秀が忠義をつくすべく主君を滅した「大罪人」のイメージを持たれていたことは容易に想像できるでしょう。

その一方で、『明智軍記』で一貫して描かれているのが、光秀の主殺しの「正当化」です。

『明智軍記』では、信長が聖なるものを破壊する者、光秀が聖なるものを守る者として描かれています。

そして光秀は、超越的な力に導かれ、因果の法則にもとづいて信長を滅ぼすとされるのです。

さらに光秀は、謀反人でも、反逆者でもなく、善なる者として、物語終盤では禅的な悟りの境地にまで達します。

三日天下と言われる12日間は、決してマイナスな描かれ方ではなく、むしろその短い時間の中に、光秀の持っていた理想が体現された輝きある時として、描かれています。

 


光秀の汚名をそそぐという120年の思い

軍記物とは戦国軍記とも呼ばれ、戦国時代の諸家の滅亡を描く文学ジャンルの一つです。

そしてこれらの作者たちは、近世における失業者すなわち浪人たちでした。

浪人とは、主君を特に持たない、主君を失った無頼の武士たち。

彼らのルーツは、戦国乱世の敗者たちです。

歴史は、常に勝者側にあり、勝者によって描かれます。

しかし物語や文学、伝承の類は、自分たちの存在の根拠を、勝者の歴史によって奪われた者たちによって書かれたものです。

その意味では、明智光秀は、主君殺しの罪を背負わされた「究極の敗者」と言っていいでしょう。

120年を経てもなお、明智光秀の主殺しの汚名をそそぐという最大のテーマに取り組む人々がいたこと。

そしてその思いを共有している人々がいたこと。

このことこそが『明智軍記』を成立させたといっていいでしょう。

そして私たちはそこに、明智光秀という存在の本質を見ることができるのではないでしょうか。

 

史論として読み解く『明智軍記』

『明智軍記』の中で描かれた光秀は、その後、『絵本太功記』『時桔梗出世請状』などの歌舞伎や浄瑠璃の世界でも継承されていきます。

また、宗教家の出口王仁三郎氏にも影響を与えたと思われる史料があります。

『明智軍記』を史料ではなく、史論、すなわち歴史についての論評として読み解いていくことで、これまでとはまったく異なる光秀像が浮かび上がってくるのです。

文:窪寺伸浩

※編集部注:本記事は、2019年11月11日に発売された『明智光秀の原像~史論としての「明智軍記」(あさ出版)』の著者・窪寺伸浩氏に寄稿してもらったものです。

『明智軍記』についての詳細をさらにお知りになりたい方は、こちらのリンクより同書をご覧ください。

【参考】
窪寺伸浩『明智光秀の原像~史論としての「明智軍記」』(→amazon


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