大河ドラマ『豊臣兄弟』の第8回放送で注目された美濃三人衆。
・安藤守就
美濃の西部に拠点を持っていたことから西美濃三人衆とも呼ばれ、彼らが信長の調略に応じたからこそ、織田家は美濃攻略に成功しました。
しかし三人衆にとって最大の問題は、織田家に降った“その後”でしょう。
斎藤家では重臣だった彼らが織田家でどのように用いられ、どうやって生涯を全うしていったか?
美濃三人衆という括りから、その後の顛末を見て参りましょう。
足利義昭の上洛戦で先陣かと思いきや
美濃三人衆が織田信長に協力して、美濃を制したのは永禄十年(1567年)のこと。
稲葉山城から斎藤龍興を追い出して岐阜城とした信長は、本拠地も移動し、すぐさま新たな大事業に取り掛かります。
足利義昭を奉じての上洛戦です。
永禄十一年(1568年)9月、信長は美濃から西の近江へ進み、琵琶湖の沿岸を南西へ進みながら京都を目指すことにしました。
琵琶湖沿岸の北近江は、同盟相手である浅井氏の領地ですからスムーズに進めます。
問題は、その先の南近江。
六角義賢は信長への敵対姿勢を崩さず、合戦は避けられない状況です。
織田軍は、敵の居城である観音寺城へ攻め込む……と見せかけ、その南東約1kmの距離にある箕作山城へと軍を進めました。
美濃三人衆にとっては織田家で最初の戦闘であり、さぞかし気合も入ったことでしょう。
というのも、他家から調略されるなどして移籍をしてきた場合、まず忠誠心が試されるため、最初の戦場では先陣を任されるのが常であり、当然、危険度も高くなります。
しかし信長は、佐久間信盛や豊臣秀吉、あるいは丹羽長秀らに箕作山城への攻撃を任せます。

織田信長/wikimedia commons
思わぬ展開に「意外なことだ……」と拍子抜けしてしまう三人衆の様子が『信長公記』にも記されましたが、手放しで喜んでばかりもいられません。
『ひょっとして我々は用無しということか?』
織田家の傘下に降ったのに、何の働きも無ければ、美濃を取るためだけに調略されたと思われてしまう。自分たちにも価値があることを見せつけなければならない。
必然的にそんな思いも湧いてきたでしょう。
長島一向一揆で氏家卜全が討死
そんな三人にとって、次のチャンスは元亀元年(1570年)姉川の戦いでした。
越前朝倉攻めのとき土壇場で浅井長政に裏切られ、命からがら逃げ出した織田信長にとって、報復合戦とも言えるのが姉川の戦いです。
残念ながら美濃三人衆に個々のエピソードはありませんが、大事な戦で彼らも武功を挙げ、勝利に貢献したとされます。
そして、その翌年、早くも一人が戦場に散ることになります。
氏家卜全です。

元亀二年(1571年)長島一向一揆の討伐に出向いた織田軍が、成果が上がらず帰陣を決定。
いざ全軍の退却が始まると、一向衆が鉄砲や弓を手に、織田軍を待ち構えていました。
そこで殿(しんがり・最後尾のこと)を任されていた柴田勝家が負傷してしまい、代わりに殿(しんがり)を受け持ったのが氏家卜全の部隊です。
結果、卜全は討死してしまうのです。
以降は、氏家卜全の嫡男である氏家直通(なおみち)が美濃三人衆として活動していくことになりました。
突然追放された安藤守就
元亀四年・天正元年(1573年)以降も美濃三人衆は各戦場で活躍を続けます。
同年7月、足利義昭を京都から追放することになった「槇島城の戦い」や、朝倉義景を死に追い込んだ一連の合戦。
あるいは天正二年(1574年)長島一向一揆の討伐、天正三年(1575年)越前一向一揆の討伐などなど、数え上げたらキリがないほどの働きです。
・天正四年(1576年)石山本願寺戦
・天正五年(1577年)北陸遠征
・天正六年(1578年)別所長治や荒木村重の討伐戦
信長の尾張一国時代からの譜代ではないとはいえ、ここまでの十年ちょいだけでも十分過ぎる働きと言えるでしょう。
実際、信長からも信頼を得られていたようであり、林秀貞・佐久間信盛・柴田勝家らと同様に重臣の扱いをされています。
しかし、です。
林秀貞や佐久間信盛と言えば、信長ファンにとっては鬼門の二人。
二人とも天正八年(1580年)に織田家を追い出されるのですが、安藤守就も同時期に追放されてしまうのです。

なぜ追い出されたのか?
というと、その理由が非常にあやふやで「守就の嫡男・安藤尚就が武田へ内応した」というものです。
結局のところ理由など何でもよく、信長から見て働きの悪い重臣たちがリストラされたのでしょう。
その証拠に、柴田勝家は北陸方面の軍団長として残されています。
勝家なんて、信長に対して謀反を起こし、尾張国内で戦ったこと(稲生の戦い)もあるほどですから、これ以上の裏切りはありません。
しかし何ら罰せられていません。つまりはそういうことなのでしょう。
では美濃三人衆で唯一残った稲葉一鉄はどうなったのか?
実は付き合い上手な稲葉一鉄
稲葉一鉄は、美濃三人衆の中で、織田信長から優遇されていました。
なぜなら信長とは姻戚関係もある一門衆であり(一鉄の嫡男の妻が信長の妹)、安藤守就や氏家卜全らとは別に単独行動することもありました。
例えば、近江国内に「京都~岐阜ルート」を確保するという大事な事業に際し、稲葉一鉄がその責任者となったり。
あるいは信長が稲葉氏の居城・曽根城へ寄って、能を楽しんだり。

美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(稲葉良通)/wikimedia commons
他の二人とは一線を画した存在感を発揮していただけに、問題となったのは「本能寺の変」です。
天正十年(1582年)6月2日未明、信長と織田信忠が明智光秀に襲われたとき、稲葉一鉄は京都に居ながら二人を見捨てて岐阜へ戻り、それが豊臣秀吉から疎んじられたというのです。
しかもこのとき稲葉一鉄は、安藤守就親子を殺害しています。
信長に追放された後、美濃で謹慎生活を送っていた守就は、混乱に乗じてかつての居城・北方城へ戻り、勢力回復を図ることにしました。
それを稲葉一鉄が討ち取ったのです。
美濃三人衆という言葉から、いかにも通じ合った三人の姿を想像してしまいますが、乱世とは厳しいものですね。
ただし「稲葉一鉄」という堅物なイメージとは違い、実は人付き合いが上手だったのか。
天正十二年(1584年)小牧・長久手の戦いで奮戦して秀吉との関係回復に努めると、関白になる頃には三位法印(僧侶に与えられる位階)を与えられていますから、やはり人心掌握が巧みだったのでしょう。
稲葉一鉄は天正16年11月19日(1589年1月5日)に美濃清水城で死没。
享年73でした。
なお、信長と美濃三人衆が深く関わった美濃攻略については別記事「なぜ信長は美濃攻略に7年以上もかかったのか?」もご覧ください
参考文献
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
和田裕弘『信長公記 戦国覇者の一級史料』(2018年8月 中央公論新社)
