【織田信長=怖い!】
という図式が多いものです。
実際は、寺社や朝廷を保護したり、家臣たちの裏切りも許したり。
かなりスウィートな性格も有しているのですが、それでも怖い印象が拭えないのは、敵対勢力の虐殺を徹底して行ったりしているからでしょう。
天正二年(1574年)9月29日に終結した【長島一向一揆】なんかは、まさにその一つ。
比叡山焼き討ちと同じく「老若男女を虐殺した」と『信長公記』にも記されています。
ただし、そこまで苛烈な扱いをしたのには、もちろんいくつもの理由があり、単に『気に入らないから、お前ら死ね』といったサイコパスな方でもありません。
信長は合計3回の長島攻めをしております。
ポイントを絞って振り返ってみましょう。

三重県桑名市長島町にある願証寺「長島一向一揆の殉教之碑」/photo by 立花左近 wikipediaより引用
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長島一向一揆を放置できない理由とは?
まず一つめのポイントは地理的な問題。
長島は現在の三重県桑名市にありました。
木曽川、揖斐川、長良川の河口付近に拠点を作り、それは信長の本拠地・尾張のごく近所ですから、何が何でも治めておかねばならない一揆だったのです。
以下の地図をご覧ください。
赤い拠点が長島城で、黄色の拠点が織田方の小木江城(左)と清州城(右)です。
小木江城は、信長の弟である織田信興(のぶおき)が守っておりました。
隣接していてかなり緊張感のあるポジショニングですね。
二つめのポイントは、長島の一揆勢が決して”無抵抗”ではなかったことです。
文亀元年(1501年)、長島に願証寺という本願寺系のお寺ができて以降、その周辺の人々は宗教団体というより武装組織になっていました。
彼等は、信長が伊勢方面に勢力を広げると
「このまま黙ってたら、織田にやられるんじゃね?」
と考え、まだ信長がどうするとも示さないうちに、織田家の城を攻めたのです。
すでに大坂の石山本願寺が織田家との対決を始めており、そこからも「織田家を攻めよ」という指令が飛んでいました。
元亀元年(1570年)のことです。
浅井朝倉との戦闘で弟を助けられず
信長としては、ここが「長島をツブそう」と決意した瞬間だと思われます。
なんせ、このとき落とされた拠点には、信長の弟が守っていた小木江城(こきえじょう・愛知県愛西市)も含まれておりました。
前述のとおり織田信興が守っており、一揆勢に自害させられています。
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なぜ信長の弟・織田信興は一揆勢に殺されたのか 長島一向一揆の幕開け
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生年不祥なのでいくつ違いの兄弟だったかはわかりませんが(織田信秀の七男)、ずっと信長に従っていたそうなので信頼できる弟と思っていた可能性は高いでしょう。
ちなみに当時の信長は、それどころじゃありませんでした。
というのも浅井・朝倉両家と交戦中【志賀の陣】で、自ら救援に行ったり誰かに向かわせる余裕がなかったのです。

浅井長政と朝倉義景/wikipediaより引用
義弟に裏切られた直後に実弟の自害ですから、さぞや歯噛みしたことでしょう。
勝家ケガで卜全が戦死 他にも犠牲者多数
かくして長島一向一揆勢との対決を決めた織田家。
最初の攻撃は元亀2年(1571年)5月でした。
柴田勝家と佐久間信盛を引き連れた織田勢2万が長島へ向かいましたが、中洲に散った敵の拠点を包囲することができず、ほとんど戦果を挙げられないまま撤退を余儀なくされました。

柴田勝家(左)と佐久間信盛/wikipediaより引用
このとき殿を務めたのが信長の信頼厚い柴田勝家です。
鬼柴田として恐れられる武将ですが、撤退戦の最後尾を受け持つのは、誰でも難しいもの。
ケガを負わされ、代わりに殿を受け持った氏家卜全(西美濃三人衆の一人)が討ち死にしてしまいます。
明らかに織田方の敗北でした。
それでも信長は諦めません。
二度目の対戦は天正元年(1573年)9月。
1573年と言えば、武田信玄が亡くなった年であります。
信長包囲網の中で最も強力かつ恐怖だったタンコブが消えると、信長は朝倉義景と浅井長政を次々に滅ぼし、後顧の憂いを取り去ります。
このときは直接長島へ出向くのではなく、伊勢の桑名郡や員弁郡に散っていた一向一揆勢の拠点を攻撃しました。
しかし兵を引き揚げるとき、敵襲に遭います。
山と川に挟まれた道で攻撃され、林新次郎(筆頭家老・林秀貞の跡継ぎ)が凄まじく奮戦するも戦死。
その与力で、弓の名手として知られた加藤次郎左衛門も討ち死にしてしまいます。
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信長は無事に大垣城まで帰還できましたが、またもや煮え湯を飲まされたのでした。
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