織田信長の肖像画

織田信長/wikipediaより引用

織田家

長島一向一揆|三度に渡って信長と激突 なぜ宗徒2万人は殲滅されたのか

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織田軍オールスターで出向く!

もちろんこれで諦めるはずもありません。

武田、朝倉、浅井の驚異はなくなっており、長島一向一揆に対しても、その戦力をガッツリ注ぎ込めるというもの。

天正二年(1574年)7月の三回目の戦では、織田信長の生涯でも最大規模に近い人員を連れていきました。

いわゆる織田家オールスターといったところでしょうか。

一門である織田家の人々はもちろん、柴田勝家佐久間信盛などの譜代、森長可明智光秀など伸び盛りの武将たち、はたまた小姓からずっと仕えてきた前田利家など、いわば「総力を挙げて戦った」といっても過言ではありません。

前田利家の肖像画

前田利家/wikipediaより引用

ちょっとゲーム的な感覚になってしまいますが、このメンツとマトモに対峙できるのは武田信玄上杉謙信毛利元就島津義久クラスの大名ではないでしょうか。

もちろん長島一向一揆勢も単なる民衆だけではなく武士階層も混ざった武装集団ですから、各所の出城にこもって徹底抗戦を続けました。

が、今度ばかりは、一揆勢も目論見が甘かったようです。

実はこのときの戦いで信長は、九鬼嘉隆の九鬼水軍ほか、尾張や伊勢の船団も引き連れ、海上封鎖にも余念がありませんでした。

十数箇所に渡る城砦じょうさいのうち

・長島
篠橋しのばせ
・大鳥居
・屋長島
・中江

を包囲。

まず大鳥居砦・篠橋砦を陥落させると、その中にいた宗徒たちを他の三城へ駆け込ませ、そして兵糧攻めを始めたのです。

 


降伏を願い出る宗徒たちを虐殺

織田軍に囲まれて約1ヶ月半――。

ついに音を上げた長島城の一揆勢は、信長に降伏を申し出ます。

最初に落とした砦の宗徒を他の城へ逃げ込ませ、兵糧の消費を早めた信長の完勝でした。

信長は、一揆勢の降伏を赦し、長島城を明け渡すよう取り決めがされます。

もしかしたら一揆勢も「武士ではない」ということで、最初から赦されると考えていたのかもしれません。

蓮生寺(長島町)に移築された長島城の大手門

蓮生寺(長島町)に移築された大手門/photo by 上条ジョー wikipediaより引用

しかし、そこで起きたのが長島城兵たちに対する虐殺でした。

信長は降伏の約束を破り、徹底的に攻撃をしかけたのです。

さらに城を包囲して兵糧攻めを行い、逃げ出す船は狙撃、断固として始末する姿勢を変えません。

それが仇となって一揆勢も捨て身の突撃を仕掛け、織田軍にもさらに1,000人前後の戦死者が出ます。

ここで庶兄の織田信広や弟の織田秀成、その他、従兄弟二人も命を落としました。そして……。

織田信広イメージイラスト
織田信広の生涯|なぜ謀反を画策した信長の庶兄は織田家で重用されたのか

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焼け死んだ民衆は2万人とも

包囲戦でも、まだ一揆勢が折れない。

このままでは味方の犠牲も増えてしまう――。

業を煮やした信長は、これ以上の損失を防ぐためにも火攻めを選びました。

焼け死んだ民衆は2万人とも言われ、あたかも【魔王信長】を証明するようなエンディングを迎えています。

しかし、です。

篭城した時点で敵意があることは間違いありませんし、一揆勢も多くの織田勢を殺しております。

いわば普通の合戦であり、信長だけが一方的に悪いわけではないのでは……?

そもそも逃げるのであれば、第一回・第二回から第三回目までの間にいくらでも機会はありました。

信長が当初どうするつもりでいたのか?

やはり当人に聞く他ありませんが、美濃を攻略したときに「斉藤龍興が長島に逃げ込んだ」という情報を聞いても、すぐさま攻め込むようなことはしておりません。

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)/wikipediaより引用

ゆえに、最初から手厳しく対応する気ではなかったと考える方が自然でしょう。

それが浅井・朝倉と同時進行とはいえ、四年も手こずった上、せっかくまとまってきていた一門の人間を何人も失い、数多の兵まで犠牲になったとなれば無理はないのでは……。

まぁ「事情があっても、何万人も殺させたのは事実!やっぱりひどい!!」と言われればそれまでですけど。

それでも多くの肉親を討たれて、天下統一の計画も台無しになりかけた気持ちも少しは加味すべきでは……と個人的には思います。

当時の常識は現代の非常識であり、その逆もまた然りですしね。

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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