延長八年(930年)9月29日は、醍醐天皇が崩御した日です。
歴史の授業では“後”がつくほうが有名ですが(後醍醐天皇)、醍醐天皇も【清涼殿落雷事件】という強烈エピソードをお持ちの方です。
さっそく、事件と併せてその生涯を振り返ってみましょう。
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藤原時平を左大臣に、菅原道真を右大臣に
醍醐天皇は、父の宇多天皇が臣籍に下っていた間に生まれた子供です。
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といっても2歳のときに皇籍へ復帰しているので、ご本人にはあまりそういった感覚はなかったでしょうね。
8歳のときに皇太子となり、12歳で皇位に就いています。
この頃としてはマシなほうではありますが、まだまだ幼いと言っても過言ではない歳ですよね。
そんなわけで、醍醐天皇は父の遺言をもとに政治を執り行うようにしました。
左大臣に藤原時平。
右大臣に菅原道真。
文字通り左右をがっちり固め、「延喜の治」と呼ばれる政治が始まります。
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摂政・関白がいない=天皇の親政が行われたという意味ですが、実際は、時平や道真の意向が強く働いていました。
まぁ、冷静に考えれば中学生くらいの子供がすぐに善政を布けるわけはないですよね。
君主が親政をすればうまくいくとも限りませんし、むしろ「優秀な人が実務に携わることができた」という意味では良いのでしょう。
時平は醍醐天皇の父・宇多天皇の時代「寛平の治」をモデルとし、貴族や寺社の権力を制限しました。これによって庶民を保護し、広く浅く税を課して国政に役立てようとしたのです。
これだけだとものすごくイイ人に思えますが、庶民を保護したほうが税収が増えますし、政治に口出しされないで済むという理由が大きいかと思われます。
菅原道真が原案だという説もありますね。
理屈第一の道真に対して少々なぁなぁな時平
しばらく幼い主君を守り立てていた左右の大臣も、しかし徐々に不和が生じてきます。
道真は学者として出世しただけに、理屈を第一にするところがありました。
また、時平は藤原氏という由緒正しい貴族の家に生まれている割には、情にもろいところがあり、法律にないことでも「特例」として許してしまうことがままあったといいます。
当然ながら、二人の仲はどんどん悪くなっていきます。
さらに、醍醐天皇は時平のほうが好ましく思えたようで、時平からの讒言「道真は、陛下を廃して自分の娘婿の斉世親王殿下を皇位につけようとしています」を聞き入れ、道真を大宰府へ左遷してしまうのです。
同時期に時平の妹・穏子が入内しているため、後宮政治のもつれと見ることもできそうですね。
このとき醍醐天皇はまだ16歳ですから、そうした裏事情まで計算できなかったとしても無理はありません。せめて、時平や道真の他に頼りになる人がいればよかったのですが……。
「もしかして道真が……」
かくして道真は大宰府へ赴任し、しばらくは穏やかな日々が続きました。
醍醐天皇は和歌を好み、自らの歌集「延喜御集」を編纂したほか、延喜五年(905年)には「古今和歌集」の編纂を命じています。
選者は紀貫之などですね。
つまり、ドン引き失恋エピソードをご紹介した平貞文も、この時代の人だということになります。そもそも相手の女性が時平の妻の一人ですしね。
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道真と時平の凄絶な政争の陰で、あんな喜(悲)劇が繰り広げられているとは、まさに「事実(仮)は小説より奇なり」といったところでしょうか。
それはともかく、この後から朝廷に不穏な空気が立ち込めてきます。
時平が39歳の若さで亡くなり、穏子との間に生まれた保明親王(しかも皇太子)も21歳で亡くなってしまいました。
さらに、保明親王の息子である慶頼王も、幼くしてこの世を去ってしまいます。
時平と関わりを持つ、もしくは血縁を持つ男性が次々に亡くなったわけです。
この時代に若くして亡くなる人は珍しくないとはいえ、流行病でもないのにこの連鎖。
人々が『もしかして道真が……』と考えるまで、そう長くはかかりません。
醍醐天皇も同じ思いを抱くようになり、左遷から22年経った延喜二十三年(923年)に、道真の官位を戻して慰霊を執り行います。
しかし、その甲斐なく(?)延長八年(930年)夏、清涼殿落雷事件は起きてしまったのです。
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