正暦元年(991年)12月28日は、平兼盛が亡くなった日です。
「平」という姓だと真っ先に「平家の武士?」なんて考えてしまいそうですが、清盛の一族とは関係ありません。
皇族から臣籍に下って、平姓を名乗るようになった人物。
血筋としては、光孝天皇の血を引く「光孝平氏」の一員で、光孝天皇から見て玄孫にあたります。
960年に行われた天徳内裏歌合
平兼盛の若い頃は、漢文や中国の歴史を学んでいたとされています。
しかし、彼の本領は漢詩よりも和歌で発揮されました。
勅撰和歌集にも多く収録されていますが、兼盛に関する最も有名な逸話は、百人一首にも載っているこの歌に関するものです。
しのぶれど 色にいでにけり わが恋は 物や思ふと 人のとふまで
【意訳】あの人への恋のことはずっと心に秘めていたのに、とうとう人に『誰かに恋しているみたいだね』と言われるほどになってしまった
これは、天徳四年(960年)の春に行われた【天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ)】で披露された歌でした。
歌合というのは、二組に分かれた歌人がそれぞれ同じテーマで歌を詠み、判者が優劣を決めるという遊びです。
中でも、天徳内裏歌合は準備から開始まで一ヶ月もかけて行われており、その後、管弦の遊び(音楽会)も催されたという盛大なものでした。
お題は、霞、鶯、柳、桜、款冬(山吹)、藤、暮春、首夏(初夏)、郭公(ほととぎす)、卯花、夏草、恋の12個。
鶯と郭公2回、桜は3回、恋が5回使われたので、勝負としては20回となります。
複数回使われているお題は、特に似つかわしいと思われたからでしょうね。春という季節も関係しているかもしれません。
勝負の相手は壬生忠見 一勝一敗からの
「しのぶれど」の歌は、この歌合の大トリである20番で提示されました。
恋の中でも「忍ぶ恋」という、なかなか表現が難しそうなお題です。
相手の歌人は壬生忠見(みぶのただみ)。
経歴は不明ですが、皇室の流れをくむ兼盛より、かなり身分が低かったことはほぼ確実です。しかし、若い頃から歌の才に恵まれていたので、この歌合にも参加を許されていました。
おそらく「この歌合で名を上げて、昇進の糸口をつかみたい」と切望していたことでしょう。
忠見の歌はこちらです。
恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
【意訳】私の恋は、もう人の口に上るようになってしまった。まだあの人を思い始めたばかりなのに
これはこれでお題にそっていて雰囲気のある歌ですが、「しのぶれど」のように、口に出して読み上げたときの軽快さは少々足りない感があります。
当時の判者もそこを基準としたようで、この勝負は兼盛の勝ちとなりました。
「忠見は一世一代を賭けた歌で敗れたため、この後、気を病んでそのまま亡くなった」なんて逸話もありますが、もっと後に詠んだ歌もあるため、亡くなるほどではなかったようです。
ちなみに、兼盛と忠見は「卯花」と「夏草」でも対決しています。
前者は兼盛、後者は忠見が勝っていたので、一勝一敗という状況でこの「忍ぶ恋」のお題へ臨んだ形になるわけです。
しかも出世がかかっていたとなると、悶死とまではいかずとも、敗れた忠見が相当精神的に堪えたことは想像に難くありません。
おそらく周囲の人が「今にも亡くなってしまいそうなほど落ち込んでいるよ」と噂話をしたのが、いつしか拡大解釈されて、そのような逸話になったのでしょう。
その後、二人に関する逸話はないようなので、この話は特に後を引いてはいなかったと思われます。
「赤染衛門は平兼盛の娘だ」という話は残る
一方、兼盛には別の意味で後を引く……かもしれないエピソードがあります。
天徳内裏歌合の数年前、兼盛は妻と離婚したことがありました。
その妻は当時身ごもっていて、そのまま赤染時用(ときもち)という役人と再婚、後に藤原彰子の女房の一人・赤染衛門となる娘を産みます。
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現代でも、離婚を挟んで妊娠・出産があると揉め事になりますよね。
当時は離婚→結婚までの期間に関する定めなどもありませんから、当然、兼盛は「その子は私の娘ではないか?」と訴えました。
しかし時用も時用で「私はかなり前から妻と付き合っていたのだから、この子は私の娘だ」と譲りません。
それはそれでどうなのよ……という気もしますけれども、当時の恋愛事情からするとなくはない話です。
裁判の末、時用の言い分が認められ、赤染衛門は時用の娘としてその後生きていくことになります。
しかし、俗説として「赤染衛門は実は平兼盛の娘だ」という話は残り続けました。まぁ現代でさえDNA鑑定でもしなければ親子関係の証明は難しいですしね。
赤染衛門が長じて後、夫の大江匡衡(まさひら)と有名なおしどり夫婦になったことからすると、「自分の出生に関して、母の離婚が原因で世間にアレコレ言われるようになったから、自分はその轍を踏まないようにしよう」と考えていたのかもしれません。
ちなみに大江氏は後に、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも活躍した大江広元(匡衡から数えて七代目)を輩出し、そこからさらに枝分かれして、毛利氏などが出てきます。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
平兼盛/wikipedia
壬生忠見/wikipedia
天徳内裏歌合/wikipedia