崇徳天皇

崇徳天皇(左)と怨霊になった崇徳天皇/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

なぜ崇徳天皇は怨霊扱いされてしまうのか?あまりに痛々しいその生涯

長寛2年(1164年)8月26日は崇徳天皇が亡くなった日です。

この方の名前から連想されるのは【日本三大怨霊の一人】か、もしくは【百人一首の歌人】か、二つに一つでしょう。

なぜこれほどまでかけ離れたイメージなのか?

というと、その生涯があまりにも落差の激しいものだったからでして、さっそく振り返ってみましょう。

崇徳天皇/wikipediaより引用

 


実父は祖父にあたる白河天皇だった?

今回は、天皇と上皇と法皇が色々と登場します。

時期によって変えると非常にややこしいので、退位後も”天皇”で統一させていただきますね。

先に即位の順だけ記しておきますと、

第72代 白河天皇

第73代 堀河天皇

第74代 鳥羽天皇

第75代 崇徳天皇

第76代 近衛天皇

第77代 後白河天皇

となります。

上記のとおり、崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子として生まれました。

鳥羽天皇(鳥羽上皇・法皇)/wikipediaより引用

しかし、この時点で既に不遇が始まっていました。

崇徳天皇の母がかつて白河天皇に仕えていたため、鳥羽天皇ではなく白河天皇の子供だと思われていたのです。

なんせ当の鳥羽天皇がそう信じ込んでいたといわれているくらいなので、周囲も同調していたでしょう。

崇徳天皇ご本人には責任がないのにひどい話です。

しかもこの時代は院政期であり、先代の天皇(この場合は鳥羽天皇)が実権を握り続けるため

「お前、譲位して小さい子を天皇にしろよ。ワシが仕事やってやるから」

という理由から若くして退位させられてしまいます。

早い話、表舞台に出てくんな、ということですね。

 


引退後も鳥羽天皇の仕打ちは終わらず……

崇徳天皇の即位が四歳。

退位が二十二歳ですから、ようやく自分の意見を言えるようになったところでムリヤリ退場させられたような形です。

さらに追い打ちをかけるが如く、鳥羽天皇が崇徳天皇の次に皇位につけたのは、崇徳天皇からすれば歳の離れた弟にあたる近衛天皇でした。

『歴代尊影』近衛天皇/wikipediaより引用

近衛天皇の母親が鳥羽上皇のお気に入りだったからとはいえ、二歳での即位というゴリ押しぶりです。

こりゃ恨みたくもなるというものでしょう。

しかし、怨霊になったのはコレが直接の原因ではありません。

崇徳天皇はこうした好意的とはいえない視線の中で育ち、政治の中枢から追いやられてしまったわけですが、【歌道】を愛する心優しい方でした。

在位中は歌会を催したり。

退位後も和歌集を編纂(へんさん)させたり。

風流な一面を持っており、鳥羽天皇があまり和歌を好まなかったこともあって歌人達からの人気は低くなかったようです。

そのまま芸術の道に生きられればよかったのですが、鳥羽天皇の仕打ちはまだ終わりませんでした。

 

今度もまた弟が即位して院政の機会を奪われる

鳥羽天皇がゴリ押しした近衛天皇は生まれつき病弱で、わずか17歳で崩御。

すると、崇徳天皇の息子・重仁親王はハブられ、崇徳天皇からすればもう一人の弟にあたる後白河天皇が即位することになったのです。

後白河天皇(後白河法皇)/wikipediaより引用

本来の順序であれば重仁親王が即位するのが筋ですが、それを見事ひっくり返したわけですね。

もちろん鳥羽天皇の意向でした。

上皇として院政をするには、現役の天皇が直系の子供や孫でなくてはなりません。

つまり、弟が皇位についた時点で崇徳天皇が院政をする機会はなくなってしまったことになります。

「父上はそこまでして私を追い出したいのか!」

崇徳天皇が怒りと恨みを募らせていったことは想像に難くない状況。

このイジメっぷりからしてどう考えても鳥羽天皇のほうが悪い気がするんですが、なぜか後世(現在も?)怨霊として悪く言われるのは崇徳天皇のほうだという……理不尽なものです。

まぁ、当時はDNA鑑定とかないですから思い込みに勝るものはないんですけども。

 


なぜ怨霊になったとされているのか

話を戻しまして、最終的に「怨霊」と言われてしまうようになった直接の原因についてお話しましょう。

上記の経緯から、当然、崇徳天皇と後白河天皇の兄弟仲は険悪もいいところでした。

そんなタイミングで、火種の鳥羽天皇が亡くなったのでさぁ大変。

こうなると、周りのよからぬ輩がどっちかについて面倒を起こすのはもはやテンプレです。

新しく台頭してきた武士達。

そしてその筆頭に当たる源氏と平家の内部争いがくっついて、ついにドンパチにまで発展したのが保元の乱でした。

『保元・平治合戦図屏風』左上の黒い鎧が平清盛/wikipediaより引用

乱のきっかけは、鳥羽天皇が亡くなった際「ワシの遺体は崇徳に見せないように!」とまで言っていたからだそうで……。しかも亡くなる直前にも崇徳天皇はお見舞いに行っていたのに対面を許さなかったとか。

ホント、どこをどうしたらそこまで恨めるんですかね。

崇徳天皇は歩み寄りたそうなのに、鳥羽天皇のほうであまりにも突っぱね過ぎていて、こっちが泣けてきます。

有名どころが後白河天皇方ということは、勝ったのもそっち側ということです。

当然負けた崇徳天皇と仲間達はそのままの立場ではいられません。

トップの崇徳天皇は讃岐国(香川県)に流罪。

崇徳天皇についた公家や武士も、軒並み実権を失うか、あるいは斬首という厳しい措置がとられました。

そしていよいよ怨霊伝説が……。

 

安寧な暮らしを選んだのに

決着がついたことで、崇徳天皇は権力への欲を捨てました。

讃岐では仏教を心の拠り所とし、五部大乗経といわれる五つのお経を書き写しています。

そして乱の犠牲者の供養と自らの反省を表すため、

「私の代わりに、この写本を京の都に収めてもらえないだろうか」

と後白河天皇に頼みました。

しかし、あろうことか後白河天皇は「何か呪いかかってそうだからヤダ」(※ガチです)という身も蓋もない言い方で写本を突っ返してきます。

恨みを捨てたいからこそ熱心に写経をしたというのに、この仕打ちはあまりに酷い。

ついには崇徳天皇もブチ切れ、配流から八年後に亡くなってから怨霊になった……というのがいわゆる崇徳天皇の怨霊伝説です。

讃岐に流された崇徳上皇(歌川国芳画)/wikipediaより引用

現代でも、とある芸能人が子どもに「崇徳」と名づけたら、ネットなどで批難を浴びるなんてこともありました(参照:歴史ニュースウォーカー)。

 

死後に相次ぐ波乱「崇徳天皇のせいじゃね?」

でもこれ、言われだしたのが崇徳天皇崩御から十年以上後の話なんです。

その頃たまたまデカイ動乱や皇室関係者の死没が重なったので「もしかして崇徳天皇が!?」という話になったようで。

崇徳天皇が祟りを起こしたい相手がいるとすれば後白河天皇であって、その後の人達じゃないでしょう。

しかし、江戸時代には物語のネタとして「崇徳天皇の怨霊が出たぞー!!」という話が使われるようになってしまったこともあり、怨霊伝説が定着してしまったようです。作者、度胸あるな。

現在でも怨霊ネタの鉄板らしいですが、実際には復権されていますし、明治天皇や昭和天皇が祭祀を行ったりしているのでもう祟る事はないと思われます。

エドアルド・キヨッソーネが描いた明治天皇/wikipediaより引用

そもそも崇徳天皇が恨みたいのは……って、しつこいですね。

怨霊云々はともかく、崇徳天皇の和歌を見るとなかなか情の濃い方であったことが窺えます。

身分の高い方らしくないというか。

平安の歌人によくある優しい作風(たおやめぶり)よりは、奈良時代の”ますらおぶり”や武士の歌に近い力強さがあるようなないような。

怨霊の話で終わらせるのも後味が悪いので、そんな崇徳天皇の歌をいくつかご紹介しておしまいにしましょう。

 

こんなにステキな崇徳さまの歌

百人一首77番

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

【意訳】川の流れが岩に分かたれても再び合流するように、今は別れても再び会えると信じているよ

落語のネタにもなっていますし、崇徳天皇の歌では一番有名ですかね。

元ネタ(本歌)が武烈天皇の「大太刀を 垂れ佩き立ちて 抜かずとも 末は足しても 遇はむとぞ思ふ」なのはいいっこなしですgkbr。

朝夕に 花待つころは 思ひ寝の 夢のうちにぞ 咲きはじめける

【意訳】「桜の開花を毎日楽しみにしていたら、夢の中で現実より先に咲き始めたよ

毎日庭を眺めて桜が咲くのを待ってるとか何それかわいい。

五月雨に 花橘の かをる夜は 月すむ秋も さもあらばあれ

【意訳】五月雨の降る中で橘の花が香っているさまは、秋の名月と比べがたいほど好きだ

秋の月を称える歌は多いですが、夏の雨と花の香りをここまで褒める歌は珍しいんじゃないでしょうか。

五感が鋭敏な方だったんですかね。

秋ふかみ たそかれ時の ふぢばかま 匂ふは名のる 心ちこそすれ

【意訳】秋も深まった夕方、藤袴の花が香っているさまは自ら名乗りを上げているように思える

これまた花の香りに関する歌ですね。

藤袴は桜餅の葉のような香りだそうで、確かに秋にその香りがすれば自己主張とも思えそうです。

夢の世に なれこし契り くちずして さめむ朝に あふこともがな

【意訳】夢のように儚いこの世でできた縁だが、もし煩悩という夢から覚めて成仏できたら、あなたとまた会いたい

仲の良かった歌人・藤原俊成(百人一首を選んだ藤原定家のトーチャン)に当てて詠んだものといわれています。

内容からして死期を悟った頃の歌でしょうね。(´;ω;`)

他に西行との逸話もあったりするのですが、長くなりすぎたので今回はこの辺で。


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【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』KADOKAWA・2014年(→amazon
崇徳天皇/wikipedia
やまとうた(→link

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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