大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、鎌倉武士たちを混乱させた老獪な政治家と言えば?
最も印象的だったのは、やはり西田敏行さんの演じた後白河法皇でしょう。
平家(平清盛)の力を削ぐため源氏の挙兵を促したかと思ったら、木曽義仲を途中で見捨てたり。
いざ平家が滅亡したら頼朝と義経を対立させようとしたり。
とにかく悪だくみばかりで、しかもそれが首尾よく運んだり運ばなかったりで、見ている方もヒヤヒヤさせられる――。
あまりに腹に据えかねたのでしょう。劇中では、源頼朝に「日本一の大天狗」とまで言われましたが、実際にそこまで言われたのか?
本稿では、建久3年(1192年)3月13日が命日である、史実の後白河法皇を振り返ってみたいと思います。
父は鳥羽上皇 母は藤原璋子
後白河法皇は大治二年(1127年)9月11日、鳥羽上皇と中宮・藤原璋子(しょうし)の第四皇子として生まれました。
最初の呼び名は雅仁親王(まさひとしんのう)。
生まれて間もなくの親王宣下でしたが、生まれ順が遅く本来は皇位継承と無縁でした。
そのためか、政治的なことにはあまり興味がなく、当時の流行歌である今様(いまよう)に熱中していたといいます。
後に自ら『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』という歌謡集(と同口伝集)も記すぐらいですから、よほどのハマりようですよね。

『梁塵秘抄 (光文社古典新訳文庫)』(→amazon)
この本には割とトンデモなエピソードが複数書かれていて、一つ例を挙げるとこれでしょうか。
「崇徳院が同じ御所に住むようおっしゃられた。あまりに近いので遠慮の気持ちもあったが、今様が好きでしょうがなかったので毎晩歌った」
思わず「おいおい」とツッコミたくなりますね。
今様に熱中したことそのものより、周囲への気遣いがなさすぎるというか、本音ぶちまけすぎというか……。
法皇自身も「喉から血が出るほど今様を練習した」とのことで、詳細は以下の記事をご覧ください。
-

遊び方もハンパじゃない後白河法皇|血を吐くほど今様を愛し金銀でボケる
続きを見る
むろん、こんな調子ですから皇族からも公家からも評判はよろしくなく、父の鳥羽上皇ですら「あれは即位の器ではない」と言っていたそうです。
この時点では、皇位や権力への執着はなかったように思われますので、何を言われようとも屁の河童だったのかもしれません。
大天狗の素養がチラッと見えますね。
後白河天皇
後白河法皇は、若い頃から妃を迎えていて、子供にも恵まれていました。
最初の妃は源有仁(ありひと)の養女である懿子(いし/よしこ)。
康治二年(1143年)に彼女が守仁親王(後の二条天皇)を出産しましたが、その後、急死しています。産後の肥立ちが悪かったのでしょうか。
その次は、藤原季成の女・成子が妃になり、二男四女を産みました。
しかし夫婦仲が良いとはいえなかったようで、ほとんど記録に登場しません。
そんな悠々自適な生活をしていた雅仁親王ですが、年貢の納め時がやってきます。
久寿二年(1155年)に、異母弟の近衛天皇が崩御したのです。
雅仁親王の子である守仁親王が近衛天皇の母・美福門院の養子になっており、次の天皇は「守仁親王に」という話になりかけたところ、こんな指摘が入ります。
「父君がご存命なのに、その息子が先に即位するのは順番としておかしくないですか」
かくして雅仁親王が中継ぎとして即位することになったのですが……雅仁親王あらため後白河天皇は面食らったかもしれません。
これによって院政の芽を摘まれた崇徳上皇の不満は募ります。

崇徳天皇/wikipediaより引用
近衛天皇が即位した時点でも、崇徳上皇は院政ができておらず、代替わりで自分の皇子が即位するか立太子できれば、可能性が生まれたはず。
その芽がまた摘まれてしまったのですから、やるせない気持ちにもなるでしょう。
そして保元元年(1156年)、治天の君だった鳥羽法皇が崩御すると、崇徳上皇と藤原頼長によって【保元の乱】が引き起こされました。
保元の乱・平治の乱
【保元の乱】についての後白河天皇は、ほぼ門外漢と言いましょうか。
側近の藤原信西がほぼ全て計らってしまったので、ここでは省略させていただきます。
気になる方は、以下の関連記事をご参照ください。
-

保元の乱は平安時代の関ヶ原の戦いとして対立関係を把握すべし!
続きを見る
いずれにせよ後白河天皇は元々中継ぎの予定でしたので、譲位も早めでした。
保元三年(1158年)、息子の守仁親王(二条天皇)に譲位し、後白河上皇となります。

二条天皇/wikipediaより引用
しかし、これがまた新たな波乱の始まりでした。
二条天皇も、成長を待ち即位したのですから、天皇による親政(天皇中心の政治)を考えてもおかしくありません。
一方、後白河上皇の側近たちとしては、院政になってもらわなければ困るわけです。
さらに院政派の中でも信西に「反発する・しない」で意見が激突。
もつれにもつれた対立構造はもはや治まることはなく、平治元年(1159年)に勃発したのが【平治の乱】です。
信西憎さで結束した二条親政派と後白河院政派。
ついには武力行使にまで至り、最終的にクーデター派を鎮圧した平清盛が一番オイシイところを持っていきました。
後白河上皇はここでもあまり重視されておらず、一旦は幽閉されながら、単身逃げ出しています。
【平治の乱】の詳細については、以下の記事をご覧ください。
-

平家の天下を決定づけた平治の乱|勝因は清盛の政治力が抜群だったから?
続きを見る
こうして親政派・院政派ともに有力者が消えたことにより、二条天皇と後白河上皇の対立は小康状態になりました。
滋子が後の高倉天皇を出産するも
情勢が落ち着いたのを見計らい、後白河上皇は法住寺殿を建設します。
その鎮守として日吉社・熊野社を勧請したり、熊野詣に出かけたり、信心深くなってくるのもこの頃からです。
特に熊野詣については34回も行ったといわれています。
明確な記録はもう少し少ないようですが、いずれにせよ心境の変化があったのは確かでしょう。
このころ中央政治でも、美福門院が崩御し、後白河院にとっては動きやすい状況になっていきます。
逆にいえば、一番の後ろ盾を失った二条天皇と親政派には大打撃。
そして重要になってくるのが平滋子(しげこ)の存在でした。
彼女は、清盛の正室・平時子の妹であり、堂上平氏と呼ばれる公家の出身。
元々は後白河上皇の姉・上西門院に仕えていたのですが、その美しさや聡明さに惹かれ、後白河上皇に寵愛されるようになったといわれています。
応保元年(1161年)9月3日、滋子は後白河院の第七皇子(憲仁親王・後の高倉天皇)を出産します。

高倉天皇/wikipediaより引用
滋子への寵愛の深さを知っている兄・時忠らは、憲仁親王を立太子し、将来の権力を確保しようとしました。
しかし、それが二条天皇の怒りを買います。
二条天皇からすると憲仁親王は異母弟であり、将来の院政ができなくなってしまうからです。
そのため時忠らは官職を解かれ、後白河院も院政ができなくなってしまう状況に……。
後白河上皇にしてみれば「余計なことしやがって」という気持ちだったでしょう。そもそも、この時代は子供が生まれたからといって無事に育つかどうかもわかりません。
また、閑院流出身の藤原育子が二条天皇に入内したため、彼女らとパイプがない後白河院は更に不利な立場へ追い込まれました。
平清盛も天皇派の姿勢を取ったので、しばらく後白河院は政治から手を引かざるをえない状況となったのです。
平家と清盛の台頭
かくして政治の表舞台から排除されてしまった後白河上皇。
その間は熊野詣に行ったり、蓮華王院(通称・三十三間堂)を築いたり、さらに信仰を深めていきます。
寺社には荘園が寄進されるため、それによって後白河院の経済基盤が強化されることにもなりました。
二条天皇はこうした動きを警戒していたようですが、長寛三年(1165年)2月、残念ながら自身の病気が悪化してしまいます。
そして同年6月、息子の順仁親王(六条天皇)に譲位すると、7月28日には崩御。
二条親政派はそのまま六条天皇派となりますが、問題は「母方の力」でした。
六条天皇は母の身分が低く、二条天皇の中宮・育子が養母として後見しても、いかんせん政権が安定しません。
しかも永万2年(1166年)7月には、摂関家の近衛基実(もとざね)が急死してしまいました。
息子の基通が幼少だったので、弟である松殿基房が新たに摂政と藤氏長者に任じられ、こうした一連の動きが平清盛と後白河上皇の追い風になります。

月岡芳年が描いた平清盛/wikipediaより引用
まず清盛は、基実の正室が娘の平盛子だったため、彼女に遺領を相続させました。
さらには憲仁親王の勅別当となり、後白河上皇に近づくのです。
再び政治の場に駆り出された後白河上皇。
清盛を後ろ盾として、憲仁親王の立太子も実現しました。
その礼としてか、後白河院は清盛を内大臣に任官し、そのほか法住寺殿の拡張や軍事の強化に努めます。
例えば、清盛の長男・平重盛には全国的な軍事・警察権を与え、連携をガッチリ強めようと試みました。
重盛も、たびたび後白河上皇の警護を務めていましたし、清盛から家督も譲られていました。
むろん清盛も引退したわけではなく、発言権は維持しています。
両者の関係は安定しつつありました。
出家して法皇に
しかし仁安三年(1168年)2月、清盛が急病で倒れると、政情がぐらつきかけました。
そこで後白河上皇が政治力を発揮。
六条天皇から憲仁親王(高倉天皇)への譲位を強行することで反対勢力を黙らせます。
程なくして清盛の体調は回復し、福原に隠居しますが、この一件で後白河上皇も身の振り方を考えたのでしょうか。
仁安四年(1169年)、出家して後白河法皇となります。
ここからは滋子と共にあちらこちらへ出かけたり、清盛関係で福原に行ったり。
半分ご隠居様のような行動が増えていて、遊び人気質なので隠居生活の方が性に合ってそうな気もします。
清盛との関係も、順風満帆ではなく、政治的対立をすることもありました……しかし、互いに決定的な決裂を避けようとしていたようです。
高倉天皇に清盛の娘・平徳子が入内したのも、その現れでしょう。
その後しばらく、紆余曲折はあったものの政権が揺らぐほどではなく、安定するかに見えました。
状況が変わってくるのは、安元2年(1176年)のことです。
この年3月に後白河院の50歳を祝う宴が盛大に執り行われ、その3ヶ月後、急病で倒れた滋子が、そのまま亡くなってしまったのです。
院と平家の間を取り持つ存在=滋子が亡くなり、両者の関係は徐々に悪化。
公家の人事や延暦寺への対応などで意見が分かれ、院の近臣たちによる鹿ヶ谷の陰謀発覚によって、後白河法皇は政治力を弱めることになりました。
高倉天皇の後ろ盾には平家がいて、成人後に親政が行える環境だったことも理由かと思われます。
高倉天皇をプッシュしたのは他ならぬ後白河法皇なので、自分で自分の首を絞めた、ともいえますね。
ただし、仲が険悪になるばかりではなく、このころ徳子が懐妊。
治承2年(1178年)11月、無事に第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)が誕生すると、後白河法皇と平家の関係も若干良好になりました。

安徳天皇/wikipediaより引用
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、松平健さんの清盛と、西田敏行さんの法皇が、表向きは平静を保っていましたね。
むろん腹の底では違ったのでしょう。
再び両者の間に暗雲が立ち込めていきます。
治承三年の政変
治承3年(1179年)閏7月29日、平重盛が亡くなりました。
『鎌倉殿の13人』で小泉孝太郎さん演じる平宗盛が「兄が生きていたら違っていた(平家は滅亡しなかった)」と言っていた、その兄です。

平重盛/wikipediaより引用
言わずもがな平家にとっては大きな痛手。
その一ヶ月ほど前に彼らの妹でもある平盛子も亡くなっていたのですが、そこで後白河法皇が平家との関係をぶっ壊すような策を強行します。
重盛と盛子の遺領を強引に配分してしまったのです。
当然ながら、二人の父である平清盛は激怒します。
【治承三年の政変】と呼ばれる事件を起こし、法皇の院政を停止させたのです。
このクーデターは高倉天皇の詔書を得てのものだったので、後白河法皇も対抗する術がありません。
鳥羽殿に押し込められ、病気で弱り、診察にやってきた典薬頭(てんやくのかみ)・和気定成に「もう一度、熊野詣に行きたい」と涙ながらに訴えていたと言います。
「ごく一部の人間しか法皇に近づけない」状況に追い込まれてもいたので、精神的に参っていたのでしょう。
法皇としても、清盛の怒りを解きたいのか。
その後、高倉上皇の初めての参詣を巡って延暦寺などが反発したとき、後白河院が大衆の動きを聞きつけると、平家に知らせて清盛の態度を軟化させています。
なんだか涙ぐましい努力という感じですが……ここで再び後白河法皇に追い風が吹き始めます。
治承4年(1180年)5月に【以仁王の挙兵】が起きたのです。

以仁王/wikipediaより引用
これにて反平家の流れが生まれました。
以仁王の動きはすぐに鎮圧されたものの、反平家の機運は興福寺などにも飛び火しており、平家による京都維持は難しくなっていきました。
そこで清盛は福原への遷都を強行し、後白河法皇も同行させ、情勢は安定……しませんでした。
治承4年(1180年)8月、今度は東国で源頼朝が挙兵したのです。
頼朝の挙兵と清盛の死
源頼朝の挙兵以降は、まさに『鎌倉殿の13人』で描かれていますね。
ドラマと重なる部分もありますが、進めて参りましょう。
当初、頼朝が挙兵したとき、平家は、相模の有力者である大庭景親などに命じ、この乱を治めさせようと考えました。
実際に【石橋山の戦い】で頼朝は散々に敗れ、房総への逃亡を余儀なくされています。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
しかし、頼朝は逃亡先で上総広常や千葉常胤らの助力を得ることに成功。
鎌倉入りを果たし、さらに軍を西へ進めます。
一方、平家は、頼朝らを討つため、平維盛を中心とした討伐軍を派兵させると、両軍は駿河国で激突することとなりました。
【富士川の戦い】ですね。

富士川と富士山
この戦いで大ポカをやらかした維盛は、ドラマでも笑い者にされていましたが、法皇にしてみれば笑いが止まらなかったでしょう。
もともと周囲からの反発が強かった福原遷都ですから、清盛も今回ばかりは京都へ戻らざるを得なくなります。
しかも年が明けた治承5年(1180年)1月、高倉上皇が崩御しました。
幼い安徳天皇を後見するため、清盛は牽制しつつも後白河法皇の院政復帰を認めることになります。
以仁王の挙兵から、ここまでわずか数ヶ月。
これまで築き上げてきた平家の栄光が瞬く間に崩れていく――そんな様子を見て、いくらタフな清盛だって、さすがに心身ともに疲弊したことでしょう。
そして治承5年(1181年)閏2月4日。
平家にとっては最大の転機となる不幸、稀代の政治家・平清盛が熱病で亡くなりました。
義仲の入京
邪魔な清盛が居なくなり、これでワシの時代がやってきた――。
後白河法皇にしてみれば拍手喝采、小躍りしながら今様を楽しみたくなったかもしれませんが、事はそう単純でもありません。
清盛の息子で平家を継いだ平宗盛は、院に恭順する姿勢を見せながら、軍事権は手放さず、頼朝からの和平案も突っぱねたのです。

平宗盛/Wikipediaより引用
後白河法皇にしてみれば、目の前にいる平家に協力するしかない状況。
しかし今度は、北陸へ向かった平家軍が【倶利伽羅峠の戦い】で木曽義仲に惨敗します。
事ここに至り
「宗盛が都落ちを計画している」
という噂を聞いた後白河法皇は、源資時・平知康だけを連れて法住寺殿を脱出し、比叡山に逃げ込みました。
また拉致されてはたまらない、とでも考えたのかもしれません。
すると、都から落ちていった平家と入れ替わり、木曽義仲と源行家が入京しました。

木曽義仲/wikipediaより引用
院は二人に平家追討の宣旨を与え、官軍と賊軍が入れ替わります。
後白河法皇はさらに、安徳天皇を連れ去ったことを理由に、平家一門200名以上を一気に解官。
そこに次々と院の近臣を送りこみ、あっという間に政治上の立場をひっくり返しました。
さらには安徳天皇を事実上の廃位とするため、高倉上皇の皇子から次の天皇を擁立しようとします。
政治信条など感じられない法皇ですが、時勢を見る目、政治力は凄まじいですね。
ここぞいうところで一気呵成です。
ただし、武力を持たないことは弱点であり、義仲から「以仁王の子息・北陸宮の即位」を主張されると、強く反対することもできません。
他に頼れる武士がいない。
とはいえ義仲の主張を鵜呑みにすることもできません。
新帝に、高倉上皇の第四皇子・後鳥羽天皇を立てると、それを知った義仲は無理やり兵糧を徴発するなどして、京都の治安を悪化させます。
法住寺合戦
清盛が居なくなっても、今度は源氏に振り回される法皇。
京都での義仲の振る舞いに怒り心頭となっていましたが、武力で抵抗できない以上、何か策を建てねばなりません。
そこで義仲には、平家討伐のため西へ向かうよう厳命します。
そんな法皇のもとに、頼朝から「平家が横領していた土地の返還」などを申し出る書状が届きます。
まさに渡りに船と言ったところでしょう。
頼朝の対応に喜んだ法皇は、寿永二年十月の宣旨で東海道・東山道の支配権を認めました。
後白河法皇としては、義仲にも北陸道や上野・信濃の支配権を認めたかったようですが、頼朝に反対されました。
当然ながら、その決断を知った義仲は激怒します。
京都へ戻ると、頼朝に宣旨を下したことに猛反発。返す刀で頼朝追討の宣旨を求めましたが、後白河法皇は拒絶します。
義経が不破の関まで来ていたので強気になり、この機会に義仲を排除しようと考えたのでしょう。
法住寺殿の警備を固め、義仲に対しては
「直ちに西へ向かえ」
「どうしても頼朝と戦うというのなら好きにしろ。ただし院宣は出さない」
「京都にとどまるのなら謀反とみなす」
と告げます。
いくら義仲が「謀反するつもりはない」と主張しても、聞く耳持たず。
追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃し、後白河法皇を押し込めて頼朝追討の院宣をもぎ取るという荒業を繰り出します。
いわゆる【法住寺合戦】ですね。

法住寺
-

法住寺合戦で前代未聞の法皇幽閉!義仲は大天狗に勝利して信用を失う
続きを見る
しかし、そんな強引な戦略が続くはずもなく……寿永三年(1184年)の年明け早々、木曽義仲は、源範頼・源義経の軍勢に敗れて討ち死にしました。
法皇はその後、わずかの時期ながら源義経を重用します。
いったん整理しますと、
平清盛
↓
平宗盛
↓
木曽義仲
↓
源義経
と、次々に勢いのある武士と結びついては、彼らが破滅に追い込まれていく。
「日本一の大天狗」と指摘したのも頷けますよね。
頼朝は大いに警戒していたのでしょう。
屋島・壇ノ浦
木曽義仲を打ち破った源範頼・義経軍は、その後、一ノ谷の戦いで平家軍に完勝。
そのまま壇ノ浦の戦いへ……と思うところですが、一旦止まらざるを得なくなります。
兵糧徴収などで京都市民が疲弊しきっており、強引に戦を続ければ義仲の二の舞となりそうだったからです。
むろん京都を無防備にはできません。
そこで源氏軍の大多数をいったん鎌倉へ戻し、頼朝の代官として義経を京都に残すことになりました。

源義経/wikipediaより引用
それから半年近く経った頃、いよいよ西国へ出陣しよう!というところで、今度は平家の残党によって【三日平氏の乱】が発生します。
これに対応するため、京都を動けなくなった義経の代わりに、範頼が西へ向かうも、やはり兵糧の手配などで苦慮し、思うようにはいきません。
「私が四国へ参ります」
範頼が西国で苦境に陥っていることを知った義経は、後白河法皇に奏上しました。
法皇としては京が手薄になることを警戒していたらしく、これを許したり止めたりしており、混乱ぶりがうかがえます。
それでも法皇の逡巡を振り切って京を出発した義経。
その後の活躍は凄まじいものでした。
ドラマでも梶原景時が「八幡神だ……」と唖然としていたように、【屋島の戦い】に続き【壇ノ浦の戦い】で勝利を収め、あっという間に平家を滅ぼしてしまうのです。
結果オーライというところなのでしょう。
強引に飛び出した義経を院も咎めなかったようです。
安徳天皇と草薙剣は海に消えてしまいましたが、神器のうち鏡と勾玉が戻ったことが大きかったのかもしれません。
「日本国第一の大天狗」
壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした義経。
鎌倉にいてその一報を得た頼朝。
やがて両者は対立するようになり、後白河法皇は板挟みに近い状況になります。
頼朝追討の宣旨を発給すると、当然のごとく頼朝に咎められ「行家と義経の謀叛は、天魔のしわざ」という言い訳をしています。
むろん、そんなまやかしが通じるわけもなく、そこで頼朝に「日本国第一の大天狗」と言われました。
「大天狗」は別の人を表しているという説もありますが、このときは頼朝の代理で北条時政が上洛しており、

北条時政/wikipediaより引用
義経の追討にあたり【守護・地頭】の設置なども要請されました。
守護地頭の設置というと、なにやら法皇からもぎとったような印象もあるかもしれません。
しかし、頼朝としても特に強引に押し迫ったワケではありません。
京都育ちだけあってか、朝廷とは穏便にことを進めるよう努力しているようです。
実際、紆余曲折を経て、鎌倉政権と朝廷の関係は改善していきます。
なお、義経については文治四年(1188年)2月、頼朝から法皇のもとへ「義経が奥州にいた」という一報が届けられ、その後は、よく知られている通り。
藤原泰衡に攻め込まれて、自害へ追い込まれました(衣川の戦い)。
頼朝と8回もの会合
建久元年(1190年)11月、頼朝が上洛。
後白河法皇は初めて顔を合わすことになりました。
平家を滅ぼした源氏の棟梁が京都入りすることは京雀の間でも大いに話題になったのでしょう。
京都の市民が見物に繰り出す中、法皇も密かに車を出して見物したといいます。
珍し物好きな性分がこの方最大の特徴かもしれませんね。
そして頼朝と初の対面。京都滞在中、頼朝は8回も法皇のもとを訪れ、深く話し合いを重ねました。
むろん、政治上の関わりですから、仲良しトークなどではありません。
頼朝に対して後白河法皇は諸国守護権を認めたものの、征夷大将軍の職は与えませんでした。
そして年が明けた建久二年(1191年)、後白河法皇は体調を崩してしまいました。
一度は快方に向かったものの再発し、大赦や崇徳上皇・安徳天皇の供養などが行われたものの、病状は悪化の一途を辿っていきます。
なぜ崇徳上皇や安徳天皇の供養などが行われたのか?
というと、当時は非常に「怨霊」が恐れられた時代であり、本気でお祓いをしたのです。
まだ6才で亡くなった安徳天皇については、世間では頼朝の責任とされ、そのせいで義経との対立が避けられなくなったという見方もできるかもしれません。
-

なぜ頼朝は義経のやらかしを許せなかった?軽視はできない安徳天皇の怨霊
続きを見る
後白河法皇も、そのことを気に病んでいたのでしょう。
建久3年(1192年)2月18日には、後鳥羽天皇が雨の降る中で法皇を見舞ったそうです。

後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)/wikipediaより引用
法皇はこれに喜び、後鳥羽天皇の笛に合わせて今様を歌ったとか。
おいおい、元気じゃん!とツッコむのは野暮ですかね……。
いずれにせよ孫が足元の悪い中で訊ねてきてくれて、一気に元気が出たのでしょうか。法皇は遺産の分配に関する意志を伝えます。
法住寺殿などは後鳥羽天皇に、他の領地は自分の皇女たちにそれぞれ分配する、というもの。
末娘である覲子内親王(宣陽門院)には特に配慮してくれるように頼んでいます。
これで安心したのか、3月13日に崩御しました。
宝算66。
日本史上、この方ほど「老獪」という言葉が相応しい政治家もいない気がします。
あわせて読みたい関連記事
-

源頼朝はどんな生涯だった?武家の御曹司が伊豆に流され鎌倉政権を樹立
続きを見る
-

栄華を極めた平清盛の手腕|各地で蜂起する源氏の軍勢にはどう対処した?
続きを見る
-

丹後局こと高階栄子は後白河法皇の寵姫|現代にまで伝わる悪女説
続きを見る
-

遊び方もハンパじゃない後白河法皇|血を吐くほど今様を愛し金銀でボケる
続きを見る
-

なぜ木曽義仲は平家討伐で大活躍だったのに失脚へ追い込まれたのか
続きを見る
-

摂関家出身の高僧・慈円|武者の世を嘆きながら後鳥羽院に重宝された理由
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
『国史大辞典』
安田元久『鎌倉・室町人物事典』(→amazon)
他










